« previous | メイン | next »

February 17, 2025

《母との記録「働く手」》小田 香
三浦光彦

[ art , cinema ]

 ベランダに小田香の母が佇んでいる。雷鳴が轟く。いや、正確にはこのとき、まだ雷鳴とは了解されない。外は白く飛んでいて、天気がわからないから。なにか戦闘機や爆撃機の音のようにも聞こえる。その音は遠い地で起こる戦争を否応なしに惹起する。微かに聞こえていた機械音が消され、沈黙が訪れると曇天を示すショットが矢継ぎ早に挿入される。ようやく先の音が雷鳴であったことが事後的に了解される。しかし、雷鳴はあっても雷光は捉えられない。音と光のあいだにずれがある。天候が不明瞭なショットに鳴り響く雷鳴、無音の中で映される曇天。
 このずれが本作の創造性の条件となる。冒頭で捉えられなかった雷光は光の明滅というかたちで幾度となく回帰する。キッチンのスイッチを入れたときの一瞬の蛍光灯の明滅、ベッドにすわる母の顔に反射するテレビらしきものの明滅、電車の外を覆う草木のグラデーションが織りなす明滅。冒頭に横溢するずれは、そのずれを補填するための運動を呼びこむ。ずれが作られると、それが可逆的に埋められる。その絶え間ない反復によって映画は激しく運動する。展開を追ってみる。母はこれまでの自分の仕事について語る。語りは拙い。戻っては進展し、戻っては進展し...をくりかえし、しばし記憶の掠れのためか言葉に詰まる。母の語りには空隙があり、集中が持続しない。しかし、幾度か挿入される母の手を捉えたショットは拙く語られる彼女の生の時間を一挙に凝縮する。《働く手》という本作のタイトルは、ひとまずその手のイメージを指すものとして了解される。上半身と下半身を分断するショット連鎖が2回ある。1度目は電車のなか、座る母の下半身と手を捉えている。テープレコーダーらしきものを握る手は所在なさげに動く。直後、上半身を捉えたショット。座っている母は静止している。下半身のイメージと上半身のイメージにずれがある。2度目は家で彫り物を彫る母を捉える場面。まず彫り物を彫琢する上半身が捉えられ、次いで足が捉えられる。このとき、足は彫り物を削る上半身の運動と連動しながら小刻みに揺れている。電車のなかではずれていた上半身と下半身が調和する。
 劇中でもっとも苛烈なずれ。それは母のセリフの中にある。自身の子である小田香の性に対する問いかけ。「娘なのか息子なのか」。しかし、母はすぐさま言い淀む。「娘であり息子である」。「AかBか」という命題は一般的に排中律と呼ばれる。他方で「AでありBである」という形式の命題は融即律だ。ずれは排中律を形成し、融即律はずれを埋めて、対立する二項を融和させる。彫り物を手のひらに乗せた母がこちらを向くショット。それは母と子に見える。そう見えてしまう理由はいくつかある。ひとつには、歌を歌う2つの声がオフで聞こえてくること。一方の声は母の声で、もう一方の声は子=小田香の声に聞こえる。2つの歌はずれながら重なり合う。もうひとつ。母の手のひらに座る彫り物は宝髻を携え、袈裟を身に纏っている。仏像のようだ。仏には性「別」という概念、「男か女か」という排中律が存在しないのだった。「娘なのか息子なのか」/「娘であり息子である」排中律と融即律のあいだでの母の言い淀みは、手のひらに乗っかる仏の姿に収斂する。もろもろのずれが歌、手、雷鳴、彫り物のなかで融和する。
 この映画はたしかに排中律よりも融即律に優位をおく。しかし、そのことは排中律を作品の論理から消し去ることを意味しない。「排中律か融即律か」という問いは究極の排中律をなす。融即律を徹底するなら「排中律であり融即律である」と言わなければならない。だから、排中律と融即律のはざまで躊躇する母をカメラの手前に立つ小田香は断罪しない。「娘なのか息子なのか...笑ってますけども」オフで聞こえる母の声は母の前で笑っている小田の姿を抱えこむ。一つの映像が、一つの音が複数の意味を同居させながら抱えこむ。彫られる仏に子の似姿を見るとき、その首に刀をいれるショットに戦慄させられる。それは彫り物をつくる創造的な運動であると同時に、首を落とす破壊的な運動にも見えてしまうから。しかし、芸術において両者は互いを排することなく融けあう。つくる行為が同時に減らす行為であること。そこに倫理が宿る。
 雷が落ちた場所は光と音の時間的ずれから特定できる。逆に音だけが鳴っていても光が見えなければその場所は特定できない。光なき音が生みだすずれは無限の距離を抱える。遠く離れた地で今も鳴っているかもしれない世界がひび割れる轟音が家の中になだれこむ。《働く手》、それは破壊や暴力といった人間が生まれながらに持つ醜さを、創造や倫理に変換するためのささやかな営為に与えられる名だろうか。冒頭で母が佇んでいるベランダは、『ノイズが言うには』の最後のショットで母が座り込んでいた場所ではなかったか。『ノイズが言うには』において、小田は自分が母に向けるカメラが持つあまりの暴力性に耐えられず、カメラを咄嗟に下に向ける。本作において、小田はその暴力性と真摯に向き合いながら、その暴力を倫理の伴う創造へと変えるために映像と音を紡ぐ。小田が作品を通じて実践する倫理は、それを眺める私たちに跳ねかえる。


作品情報