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April 15, 2025

『杳かなる』宍戸大裕
板井仁

[ cinema ]

 冒頭、黒い画面の中、呼吸音が聞こえる。それは規則的なリズムであるから、人工呼吸器の音だと理解される。やがて消えかかる呼吸音に代わって、次第にうす暗いマンションの玄関と車椅子が見える。自動ドアが開かれ、玄関の暗がりに光が入ると、佐藤裕美さんが乗る電動車椅子は白く飛んだ戸外の明るみへと抜けていき、高橋愼二のカメラは右折する車椅子のあとを追う。何度かカットが変わり、車椅子は枯れ草色のひろがる公園へと進む。車椅子に座る佐藤さんのシルエットは、昼と夜の境において傾きつつある西日に縁どられ、それを正面に受けるカメラのレンズには、フレアが生じて煌めいている。
 『杳かなる(はるかなる)』というタイトルに用いられている「杳(よう)」という漢字は、本作のフライヤーによれば、「日が木の下に沈む様をあらわし、暗くてはっきりしない、奥が深い、はるかに遠いという意味」があるという。冒頭のシークエンスは、暗い場所から明るい場所へと向かう佐藤さんの歩みを示しながらも、この明るみもやがて赤く翳り、沈んでゆき、ふたたび「杳かなる」暗がりへと向かうことをも暗示する。ここでカメラは、佐藤さんと公園に集う鳩を結ぶ。車椅子に座る佐藤さんと、自由に羽ばたく鳩が対比されるとき、飛べない/飛べるといった区別がいったんは想起される。しかし、難病当事者であってもそうではなくても、そもそも人間は鳩のように飛ぶことはできない。ここにおいて映画は、エイブリズムを構築する能力の基準がいかに恣意的であるかを明らかにする。
 本作は、ALS当事者である佐藤さんを中心として、ALSやSMAといった5人の難病当事者とその家族、彼女ら/彼らの介護者の姿を追ったドキュメンタリーである。知られているように、「社会モデル」において、障害者とは障害をもつ存在のことではなく、社会に存在する障壁によって生活に困難が生じる存在のことであるとされる。しかし「社会モデル」は、障害当事者がいだく現実的な経験、身体的な困難をとりこぼす。映画は、難病当事者を撮影しながら、彼女ら/彼らがどのような日々を過ごしていて、現実にどのような困難を生きているのかを、具体的なレベルで映しだす。作中、佐藤さんが自宅でリハビリをおこなったり、街で買い物をしたり、娘や孫たちと出かけたりする日常が映しだされるが、そうした日々のなかにあるのは、空間や建物へのアクセスのしづらさといった障害だけではなく、病気への不安や苦しみといった、身体的あるいは心理的なものでもあり、それは何気ない会話のなかに、あるいは身体動作や表情などにおいてあらわれる。
 監督の宍戸大裕が撮影を始めたのは、ALS患者嘱託殺人事件に対する世間の反応を目にしたからだという。2020年、京都市のALS患者への嘱託殺人によって医師の大久保愉一と山本直樹が逮捕されたが、後日明らかとなったのは、二人が2011年に精神障害者であった山本被告の父をも殺害していたこと、また2015年には高齢者差別的な電子書籍を出版していたことである【1】【2】。しかしこの事件は、当事者の「死の自己決定」を手助けする優しき医師というヴェールによって、彼らの差別感情を覆い隠すことになった。ネット上では、弱きもの、たよりないもの、有用ではないものたちは死なせる/みずから死なせるほうがよい、という暴論が、消極的なかたちで肯定される意見も多く見られた。『杳かなる』は、こうした世間の声に抗するものとしてある。
 映画の終盤、尊厳死法制化を考える議員連盟に参加するALS当事者の橋本操さんは、壇上において「「まだ死んでない」と言わないと殺されるのでみなさん頑張りましょう」と語る。当事者の声が聞かれぬままに彼女ら/彼らを「自己決定」という名目で死へと方向づけるような世間の圧力は、ネット上のコメントを見るかぎり、現在においてもすでに存在し、強烈に作用している。それは、やがて当事者を殺すだろうし、現在でも当事者を殺しているだろう。
 そうした暴力性は、ALS当事者である岡部宏生さんが、ある大学の講師としてオンライン授業に参加しているシーンにおいて、身体反応をとおして表出される。カメラは、モニターの画面を見ている岡部さんの横顔を捉えており、そこで学生たちは、「死ぬ権利は法的に認められるべきか」というテーマで議論をしている。それに賛成する一人の学生は、「苦しい思いをしてまで生きているのはつらい。そのような状態で生きているのは、心が死んでいるのと同じだ」と語る。そのときカメラは、それを見守る岡部さんの横顔をクロースアップで捉えつづけているのだが、やがて岡部さんの目には涙がたまり、その滴が頬をつたって流れていく様子が映しだされる。

語るな。私の声を奪うな。私を利用するな。
私を、いなかったことにするな。
【3】

 病気の進行は、たとえ声帯の振動としての「声」を失わせるとしても、「私の声」それじたいを奪うことはない。声にはさまざまなものがある。岡部さんは透明な文字盤を用いて語り、上述の橋本さんと加藤眞弓さん(ALS当事者)は「あかさたな話法」による口文字を用いて語る。口文字の仕方は橋本さんと加藤さんでは異なっている。合図の仕方も、まばたきや目線、首振りや口元の動きなど、人によってさまざまである。作中において引用されている佐藤さんの詩において、「私の声」を奪うのは、本人になりかわって語る、本人ではないものたちの声である。相手の心身の状態やその痛みを汲みとり、引き受け、それに共感し、語る声である。あるいは、彼ら/彼女らを「弱いもの」と規定し、手助けすべき存在として立ち上げる善意でもありうる。
 相手のことを十全に理解することはできない。それは病気の有無とは関係がないことだ。宍戸監督は、そして作中に登場する介助者たちは、障害当事者の声を先どって説明したり、判断したり、規定したりはしない。『杳かなる』は、理解していることと理解していないことの境で、まずは当事者一人ひとりの身体動作やその声を撮影する。それが微弱で頼りないものであっても、カメラをとおして聞きとる、あるいはそれを聞こえるものにすることを目指す。だから映画は、障害を乗り越える感動的な作品としては構成されない。障害は、乗り越えるべきもの、あるいはなんらかの欠如としては表象されない。そこにあるのは、人との出会いと別れである。カメラは、佐藤さんとSMA当事者である海老原宏美さんとの出会い、また海老原さんを介しての岡部さんとの出会いに立ち会う。また作中では、岡部さんが人工呼吸器をつけることを決めたのが、橋本さんとの出会いがきっかけだったことも語られる。
 現在、ALS患者の7割が気管切開を行わずに死を選ぶという。尊厳死あるいは安楽死の法制化に反対することは、当然ながら死を望むものたちを非難することを意味しない。当事者のそれぞれに異なる事情があるだろうし、その理由も一つではなく複合的であるだろう。生きたくても生きることが難しい状況を余儀なくされ、生きることを消極的なかたちで断念するものたちも数多くいるだろう。死を動機づけるのは、家族や周囲のことを気にかける優しさばかりか、自分には価値がないと感じてしまうことにもよるだろう。そうであるならば、人間の価値をかたちづくるその基準じたいを変えることも効果的かもしれないが、むしろ、価値や有用性などが問われることのない社会を目指すことによって、死を選ぶ人を減らすことはできないだろうか。
 作中のところどころで反復される人工呼吸器の呼吸音は、それを装着する/しないという、いずれ決断しなければならない重大な問いと、それに付随するあまりに大きな不安を回帰させる。しかし、私が『杳かなる』を見たときに感じたのは、「杳かなる」という言葉が、当事者一人ひとりがいだく深淵を意味するだけではなく、それによって彼女ら/彼らに突きつけられる境やレッテルを引き受けずにおく可能性である。さまざまな人とかかわり合いながら、暗さ/明るさ、できない/できる、価値がない/価値があるといった二分法のどちらにも乗ることなく、杳かなるもののなかで抗う可能性である。

【1】事件に関して、この記事を参考にした。小玉真美「京都ALS嘱託殺人事件の判決では、何が問われたのか――事件の本質を外れた危険な「安楽死」議論」webちくま、2024年。
【2】『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術――誰も教えなかった、病院での枯らし方』。
【3】作中では、句読点が省略されている。佐藤裕美「証」、書くこと。生きること。Hiromi's Blog、2020年11月3日。


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