2.12

スケート フィギュア・ペア

フィギュア・スケートとはどうも相性が悪い。
単にスポーツであると思えないからだ。
タイムや得点で勝負がフェアに決まるのではなく、技術点とアーティスティック・インプレッションという訳の分からない採点方法で勝負が決まるからだ。そう僕は考えてきたのだが、説得力はあまりない。モーグルだってターン点やエア点があるし、ジャンプだって飛形点がある。しかし、モーグルにはタイムの点が25%含まれるし、ジャンプの場合、飛形点の良い奴はぜったいに距離も稼げている。モーグルにせよ、ジャンプにせよ、「採点」はあるが、「採点」とタイムや距離は比例しているのだ。だがスケートの場合、タイムと距離もないし、得点もない。
フィギュア的な芸術とフィギュア的な技術があるだけであり、それは世界の審判員に共通 する尺度であるらしい。4回転ジャンプなどを提唱しながら、あまりにアクロバティックな技は否定されるという。ペアには音楽がつきものだが、見ている僕には、かかる曲が好みのものではないのもまずい。
「美しく優雅な音楽」とスポーツのミスマッチ。
確かに過酷なスポーツだろうことは理解できるが、選手たちは汗や呼吸の乱れを覆い隠そうとする。「美しく優雅」ならダンスでよいではないか。ダンスは芸術であってスポーツではないだろう。
金メダルを獲ったロシアのペアは確かに優雅だったが、「スポーツ的」ではまったくなかった。銀メダルのカナダのペアはダンスとして見ることはできたが、曲が『ある愛の詩』! やめてくれよ!
やっぱりフィギュアとは単に相性が悪いのかもしれない。

スケート 男子500メートル 1本目

僕が注目したのは清水宏保でもなければウォザースプーンでもない。
もちろん、ウォザースプーンの転倒には驚いたが、あんなことは500メートルでよく起こす。
僕の注目は堀井学だった。長野までは清水をリードしていた──スポーツドリンクのCFに出演していた堀井を覚えているだろうか?──が、スラップ使用への対応の遅れから長野で惨敗──といっても確か13位 だったように思う──。直後のインタヴューで涙ながらに何を言っているか判らない言葉が印象的だった。
その堀井が国内では今年、好調だった。なんども清水に先着していた。ソルトレイクは堀井にとって絶好の「リヴェンジ」の舞台だったはずだ。長野ではあんな結果 に終わったけれど、本当は実力があって、単に技術上の問題から失敗しただけだ。チャンプは俺だ! と叫べる舞台がソルトレイクだった。だが1本目を終わって15位 。
メダルには届くまい。
今日までオリンピックを見た範囲で、今回の大会は、そうした物語から遠いのがよく判る。
ジャンプのノーマルヒルの船木にせよ、モーグルの愛子にせよ、そしてウォザースプーンにせよ、堀井学にせよ、「物語」を語る絶好の機会を、単に力が不足しているがゆえに失っている。もうスポーツは「ナンバー」誌あたりが飛びつきそうなストーリーを語る場ではなくなっているのかもしれない。
ノーマルヒルや複合でも思ったことだが、ストーリーを越えた力の世界にスポーツそれ自体が突入しているのだ。「リヴェンジ・ストーリー」がアナクロに思えるような世界にスポーツは到達している。