王兵(ワン・ビン)の『鳳鳴中国の記憶』(2007)を見た体験は、忘れられない、特異な記憶として残っている。ひとりの老女が雪道を歩き、彼女の住む小さなアパートへと入って行き、テーブルの前に腰を下ろす。そして和鳳鳴という名の女性は語り始める。ほぼフィクスの映像の中の彼女の着ている赤い服、その小さな部屋、照明、そしてしだいに暗くなっていく外の光の推移と共に感じられる時間。一度、電話がかかってきて話を中断する瞬間があったように記憶している。彼女が語る言葉によって、私たちは異なる時間、歴史の中へと誘われるが、彼女が語る記憶のディテールは、その部屋にあるオブジェや家具、彼女の現在の日常と同じぐらいはっきりと見えてくる。そうして現在と過去それぞれが目の前にはっきりと存在し、鳳鳴の言葉とともにその間を往来したことを思い出すのだ。1950年代後半に中国で起きた反右派闘争や文化大革命の粛正活動で数々の迫害を受け、1974年に名誉回復するまでの、約30年に渡る鳳鳴の物語。歴史の中でほぼタブーとされてきた反右派闘争の歴史、再教育の名の下に収容所に強制的に送られ人々の人生、王兵(ワン・ビン)は、2005年から2017年、10年以上かけてこのテーマを追い続け、キャメラをまわし続けてきた。『鳳鳴中国の記憶』、そして彼の初劇映画である『無言歌(2010年)はこのプロジェクトの中から生まれた2本だった。
そしてこの12年にわたり、何十時間にも及ぶ生存者たちの証言や彼らが生きた場所のラッシュから生まれたのが『死霊魂』(2018年)である。映画はひと組の夫婦の映像から始まる。夫はソファに腰かけ、妻はその横のベッドに腰掛けている。さしたる理由も分からないまま「右派」と名指され、収容所に送られることになったことを語る夫の表情は穏やかで、時に微笑みさえ浮かべているのだが、画面端にいる妻の顔はそれに比べ、悲壮な面様であり、夫が何か間違えを言わないかどうか、その言葉をひとつも漏らさず聞き入っている。最初のうちは「お前は黙ってろ」と夫に制されながらも、彼が人名、日付などをはっきり思い出せない時、あるいは間違えた記憶を口にすると、妻はたまりかねて声を発し、そのうち静かにキャメラの後ろをまわり、夫の座っているソファの横に身を置く。そしていつの間にか彼女が語り始め、キャメラも彼女を中心にまわり始める。それまでは何やら遠い記憶を語るように平然としていた夫の顔が、妻が語る言葉によって、その記憶が徐々に目の前に甦り、その生々しさに呆然としているかのようにただならぬ表情へと変わっていく。それからすでに死の床にいる弟がしぼり出す言葉、その弟の葬式、埋葬に立ち会う息子の悲痛な叫び、それから10年近く時間が経ち、90を超え、夫を亡くして生き続ける妻にはもはや何も発する言葉はなく、口にするとすれば「死んでこの苦しみから早く逃れたい」と静かに呟き、そして沈黙の中に入ってゆくのを映画は見届ける。
王兵(ワン・ビン)は、あえて言葉を引き出そうと質問を投げかけることはせず、彼らが語り始めるのを静かに待ち、その発せられた言葉によって、彼らが過去へと時間を辿り直し、そこから記憶が浮かび上がってくるのをゆっくりと、丁寧にキャメラにおさめて行く。その一瞬も失うことなく、すべてを今語り尽さなければと、息せき切って語り続ける者もあれば、「何を語れというだ、語ることなどできやしない!」とどこに向けていいのか分からなかった怒りをようやくキャメラを前にしてぶつけようとしているかのように食ってかかり、語るのを拒みながらも、誰よりも親密な言葉、自分の奥底にある哀しみをふともらす者もいる。王兵は証言者を前にして、それぞれを記録するにふさわしい距離を模索し、彼ら一人ひとりの尊厳を回復させる。登場する証言者たちは、仕事をしたり、食事をしたり、ピアノを丹念に拭いたり、来客をもてなしたり、それぞれの日常を生きており、その時間の中で語り始める。そのことで彼らの現在が、語られる過去とつながれ、そして私たちの現在とも繋がって行くのだ。
生還したひとりは、収容所があった地に、そうした過去があったことを記す記念碑を生存者たちのグループで建てようとしたが、結局、当局に阻まれ、叶わなかったことを語る。砂漠の上で飢えや寒さ、過酷な労働で死んでいった何千人もの名前がすでに石碑に刻まれていたのに、その記念碑を見るためにその地に辿り着くと、その石碑はすでに破壊されていたという。8時間を超える『死霊魂』は、存在を消されてしまった記念碑、不在の記念碑として、何千もの人々の叫び、そして彼らの沈黙を宿して、私たちの前に何度も、永遠に存在し続ける。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2019インターナショナル・コンペティション部門にて上映