家族や知人の住まう地域の台風情報が朝から気になりつつ、とはいえ今更帰る手段もない。小雨の降るなか、本日は昼食時間がないためコンビニでパンと玄米おにぎりを買って会場に向かう。
一本目にコンペ作品、テレサ・アレドンド+カルロス・バスケス・メンデス『十字架』。パトリシオ・グスマン『チリの闘い』での記憶も新しい1973年チリの軍事クーデターの直後に起きた、製紙会社CMPCの組合員19名が遺体となって発見された未解決事件。本作はこの事件を、加害者側である軍警察関係者たちの証言と、その舞台であるチリ南部の小さな町の風景(16mmで撮影されている)、そして本事件の裁判記録とともに見つめ直そうとする。興味深いのは、先述した加害者側の証言が事件の関係者によってではなく、いまこの町に住まう、事件には無関係な住民たちによって代読されていること。上映後のQ&Aにて、近年この政変を題材にした映画が増加しているなかで、被害者を映画の材料に貶めている作品が多いことに疑問を持っていると監督たちは述べていた。被害者たちから搾取することなく、しかし加害者たちに加担するのではなく、それでもなお事件を忘却に追いやらないための試みといえばよいか。そのことが、ちょうど山形に向かう直前に読んでいた東浩紀の「悪の愚かさについて」というテクストの加害者と被害者をめぐる記憶の問題についての記述と非常にシンクロしている気がした。本作についてはできれば場を改めて考えをまとめてみたい。
続けてコンペ、現代インドにおいてその拡大と対立が深刻化しているヒンドゥー・ナショナリズムの現在を映し出すアナンド・パトワルダン監督の『理性』。4時間弱に及ぶ本作、第1部で細かに提示される一連の経緯もたいへん勉強になるのだが、圧倒的なのはやはり第2部。どんなに出来事の関係性を画面を介して執拗に繋いでも、ときには時系列をさかのぼって細かに経緯を確認しても、ここでの対立を収束させることなど不可能なのだと言わんばかりに、混沌はどんどん深まっていく。第6章「闘いのための学び、学びのための闘い」での、身分格差を是とせずに平等を求める学生たちの理路整然とした主張と、「母なるインド」たる国家のために制度を守るのだという保守派のまるで論理の通らない断言との壮絶すぎるすれ違いには、ただただ唖然とするも、そのライブ感にぐいぐい引っ張られてしまう。しかし権力者たちのイカれた「正論」に立ち向かうことを余儀なくされたインドの学生たちの徒労とは、きっとぜんぜん他人事ではない。これはいま世界のあらゆる場所で起きていることのバリエーションのひとつなのだ。
大雨の降る中でソラリスに移動し、「ともにあるCINEMAwithUS」での小森はるか監督の『空を聞く』。凄すぎる。いったいこの凄さの秘密はどこにあるのか、まだぜんぜんわからない。なのに、泣けてしまって仕方ない。ひとつだけ思うのは、この映画の主人公である阿部裕美さんの現在の視点から過去を思い出して語られるモノローグと、過去の阿部さんの姿を記録した映像のあいだに、単純な主従関係があるわけではないということだ。過去の映像に見出された阿部さんが現在の自身の言葉につながっているばかりでなく、現在に発された阿部さんの言葉が過去のご自身にも時間を超えて影響を及ぼしているような、あるいは他者の頭の中で新たに生み出される記憶の形を覗き見ているような......。
あまりの素晴らしさに、上映後にスタッフの方からの説明を聞くまで、台風のことがすっかり頭から抜け落ちていた。(田中竜輔)
結局来れたゼミ生は僕を抜いて5人だった。台風をくぐり抜けた猛者たち。みんなで泊まる民宿に行き、何を見るか相談する。見たいものが分かれたので、では各々見てから、18時15分からの『空に聞く』の上映で合流しましょうという話になる。僕は『わたしの季節』を見ることにした。柳澤壽男が1968年に撮った『夜明け前の子供たち』の舞台となった重症心障害児施設びわこ学園を、40年近くの年月を経て、彼の弟子である小林茂が再び訪れ、撮影した作品である。その前には、『夜明け前の子どもたち』が上映されていたのだが見逃してしまう。無念。大変無念。山形まなび館での上映。かつて山形第一小学校の校舎だった建物を利用し、中には、資料館やカフェが入っている。それらを通り過ぎた教室で上映が行われる。
映画の中で、施設にいる人々が様々な音楽を奏でる。レンゲ?のようなものを叩きつける音、粘土をこねる音、ピアノの音、歌。それぞれのリズムに笑わされたり、驚かされたり。劇中歌よりももっとそちらを聴いていたいと思った。
外は雨がザーザーと降っているけれど、風はない。山形は盆地だから大丈夫というのは、どうやら7割くらいは当たりらしい。上映中に誰かのiPhoneから警報が何度もなっていた。僕のiPhoneは壊れているので、警報はならずに済んだ。一緒に来ていたゼミ生にGoogleマップで『空に聞く』上映会場まで案内してもらう。足元がビチョビチョになりながら、なんとかたどり着く。
『空に聞く』は3・11後に陸前高田災害FMでパーソナリティを務めた阿部裕美さんにスポット当てた作品である。彼女が、ラジオの中でインタヴューを行った村上寅次さんという方を、「年の離れたボーイフレンド」と形容する場面がある。他にも、彼女は誰かの妹に似ている言われたり、娘の同級生の今は亡き母のことを姉のようだったと言ったりする。たしかに、自分にとって大切な誰かのようだと言ってしまいたくなるような話し方、声を彼女はしている。きっと彼女は小森監督と似ているのではないか。小森監督も常にその人の大切な誰かであったかのような距離で被写体を捉えることができる。私の知っている(あるいは知っていく)阿部さんを撮りたかったと語る彼女の声もやはりそういう声なのかもしれないと思った。
再び「金魚」を訪れ、ゼミ生とゼミのOB、教授とそのパートナーの方と夕食を共にした。女将さんが、ボニュームがあった方がいいと、芋煮をカレーうどんに改造してくれた。(梅本健司)
山形滞在二日目。
日記を書くなんて何十年ぶりだろう。
一昨年は日帰りだった山形国際に、今回は複数人で安宿をとり、泊まっている。朝起きて階下に降りると、今朝山形入りしたばかりの知り合いが話好きの女将さんに捕まっていた。聞くと、女将さんが階段を後ろを向きに降りて来たらしく、そのことを女将さん自身が笑っている。どうやら四年前に大腿骨を患ってしまったらしく、今は正面からは降りられないらしい。当の本人はとても笑っていた。
この日は『非正規家族』『セノーテ』『夏が語ること』『あの雲が晴れなくても』『消された存在、_立ち上る不在』を観る。
『夏が語ること』。上映時間に少し間に合わず、劇場に入るとほぼ満席。風の音がした。スクリーンを見た瞬間、砂嵐かと錯覚してしまうぐらいの、モノクロに近い木々が風に揺れてた。思わずはっと足を止めてしまう。席を探す時間も惜しく、通路の階段に腰を下ろして見入る。数カット見て、これは大好きな映画だ、と確信する。インドの山の中にある村の風景。牛がいたり、家では炊事をしていたりと牧歌的な風景なはずなのに、緊張感と気品を感じるフレームワーク。基本はロングかミドルショットで、喋っている対象はランドスケープの一つの要素になっている。パートナーと喧嘩をして口をききたくないと罵る女性、塩の夢の話、歌の話など、普段わざわざ映像に残さない瞬間、言葉が村の風景とともに紡がれていく。歳が違う数々の女性の言葉。日常生活ではおざなりになり、流されていく言葉。
映画の後半、夕飯前だろうか。親子の会話が聞こえる。
「その広場の奥には行ってはいけない、人さらいが出るから」「はーい」
映像のトーンは終始暗く、映像の奥に少しだけ色彩が見え隠れする。
パヤル監督曰く「私が映画学校のプロジェクトの一環で村に行った時、映画クルーは大半が男性だった。村にいる女性は男性の前では素直に話せない。だから女性の私が録音した」とのこと。何より、この映画の成り立ちが、録音した声が先行していて、その後映像を撮っていること、まさしく自分の新作もそのように作っていて、シンパシーを感じて上映後監督と話す。普段見えない不安や愛について。自分の映画も英語字幕ができたら映画を交換しようと約束する。
昨日観た『そして私は歩く』然り、今年はインドの女性監督の作品に打ちのめされる。昨年、イメージフォーラムフェスティバルで『愛讃讃』を評してくれたExperimentaディレクターのシャイ・ヘレディアの言葉を思い出す。「映画は如何に普段自分や他人が捨ててしまうことを拾えるか」インド出身の彼女たちの目は、いつも優しい目をしているが瞳の奥の色は見えない。それが映画の色彩に似た、落ち着きを放っている。そんなことを上映後に入ったドムドムバーガーで考えていた。地下の閑散としたフードコート(フーズガーデン)に台風接近のアラートが鳴っている。レジでは「もうみんな帰ろう」とさっきまで仏頂面だったパートのおばさんが笑いかけて来た。きっとそんなことも明日には忘れてしまうだろう。(池添俊)