特集『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』
© 2022 Focus Features, LLC
ニューヨークであれ、それ以外であれ、各々の場所の位置関係は曖昧で、全体図をうまく捉えることはできないが、逆光を意識させるようなその暗い世界は不思議とまったく知らないところだという気はしない。そこには離れられない関係の男たちがいる。先に生まれた男たちの人生の苦難は影を伸ばし、いま、遅れて生まれてきた男たちに逃れがたい選択を迫っている。彼らは初めから互いの分身のように存在しているのではなく、破滅的な運命を通して似てきてしまう、あるいは同じようには生きられないということに葛藤する。対して、男たちの闘いから隔てられた女たちの繋がりは希薄であり、男同士のように誰かを比較対象とすることができない。それゆえに、ときに女たちは手本のない社会的な役割を孤独に引き受けなくてはならない。だが男も女も、どちらにせよ期待された役をうまく演じることができず、かといってそれから降りることもできないまま、崩壊しかかった世界を前に宙吊りにされてしまうのだ。
現代アメリカ映画においてもっとも優れた作家のひとりであるジェームズ・グレイは、寡作で、新作を発表するペースもイマイチ掴めないながら、世界に対する同じような関心を30年近く維持しており、まさしくグレイ映画の男たちのように、ひとつひとつのフィルムが抗いがたく関わっている。息が詰まるような男たちの繋がりは、焦点を当てる世代をスライドさせたり、僅かに関係を変えたりと巧みに操作されながら、ギャングもの、時代劇、冒険もの、S Fとまったく異なるジャンルに転用されてきた。自らの関心を繰り返すことで宇宙にまで到達し、もっとも身近な場所に再び戻ってきてしまったジェームズ・グレイのこのような頑なな探求を今回の特集では振り返る。
まずは『フェイブルマンズ』(2022、スティーブン・スピルバーグ)、『リコリス・ピザ』(2021、ポール・トーマス・アンダーソン)など近年多く撮られている映画作家の自伝的な要素を含んだ作品との差異を浮かび上らせ、そこにこそジェームズ・グレイの作家性を鮮やかに見て取った荻野洋一氏の『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』(2022)評を、続いて編集部による『リトル・オデッサ』(1994)から『アド・アストラ』(2019)までの短評をお届けする。