『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』
私とあなたは違う
荻野洋一
疵を画面に刻みつける
1980年9月、新学期。ニューヨーク、クイーンズ区。少年が、ある決定的な出会いと別れを経験する。小学6年生になったいたずら好き少年ポールは、新しくクラスメートになった黒人少年ジョニーとすぐに仲良しになる。教師に嫌われて留年を余儀なくされ、新学期の初日からその教師と対立するジョニーの不服従の姿勢は、この映画を見始めたばかりの観客の心を打つ。いかなる理由でジョニーが、アルツハイマー病を患う祖母と二人暮らしになってしまったのかは説明されないが、彼の人生は幼い頃から苦難の連続であったことは想像に難くない。侮辱されることに対して泣き寝入りしない姿勢は、すでに小学6年生にしてジョニーに運動家の威厳をもたらしている。
これに対して主人公のポールは6年生にしてはかなり精神年齢が幼いように見える。祖父母、大叔母も集まった一族の食事会の最中に、母の手料理を侮辱し、勝手に餃子のデリバリーを電話注文する始末。本当に手の焼ける愚かな子どもで、甘やかされて育った印象を与える。このポールは監督ジェームズ・グレイの自画像である。自伝的ストーリーをもとに創作したというレベルではまったくなく、ディテールのひとつひとつが完全に監督本人の少年時代を再現したものなのだという。
グレイは言う。
「できるかぎり何でも再現しました。ダサいステレオも、緑色のカーペットも、ソファの縁とトルコブルーの柄も…。皿はうちで使っていたのと同じものですし、家具はデニッシュモダンと古き良きアメリカのイーセンアーレンが変に入り混じっていて、ダイニングテーブルも、ポールの部屋にあるロッキングチェアも当時のとおりです。」
© 2022 Focus Features, LLC
いかに過去の事実と映画が同一であるかを力説する映画作家の率直さは異様なほどだ。美術監督のハッピー・マーシーも「ジェームズはとにかく何だって覚えているんです。自分の部屋に関するどんな細かいことでもね」と語っている。自伝的ストーリーを扱う場合、たいていは多少の美化を施したり、劇的効果を高める工夫をしたり、より自由な解釈で「映画的」に翻案したりするものだろう。スティーヴン・スピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022)もポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』(2021)も、かつてのフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)も、映画作家の少年期を回顧する内容ながら、映画的翻案の跡が濃厚に見られる。
しかし、ジェームズ・グレイの場合は違う。これはどうやら寸分違わぬ細密描写を重ねた、100パーセント再現をめざした作品らしいのである。両親の着ている服も、通っている学校も、住んでいる地区もすべて現実の再現だというのだ。俳優たちに対する要求も、モデルにどこまで近づけるかが問われている。「(父親を演じた)ジェレミー(・ストロング)は見た目も話し方も父そっくりだし、アン(・ハサウェイ)は異様なほど母そのものです」と語るグレイの姿勢の方がよほど異様だ。グレイは今回、過去の現実と映画のルックが同一であることを求め続けた。
これまでジェームズ・グレイ作品を見てきた観客なら、今回のグレイの同一性への異様な拘りの理由を推し量ることができるのではないか。25歳で作った監督デビュー作『リトル・オデッサ』(1994)におけるブルックリンのロシア東欧系移民社会、兄弟の絆といった描写にはすでに、グレイ自身の生きてきたコミュニティと家庭環境が濃厚に反映されていたし、『裏切り者』(2000)、『アンダーカヴァー』(2007)における裏切りという主題にも、マリオン・コティヤールが演じる東欧系移民女性に祖母の面影を重ね合わせた『エヴァの告白』(2013)が再現する1920年代のニューヨークの意匠にも、作り手の自己言及性が織り込まれている。
前作の『アド・アストラ』(2019)は宇宙SF、前々作『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』(2016)は秘境アドベンチャーだから、一見すると自己言及性と関係なさそうに見えるが、ここには父親との相剋の問題が横たわると同時に、遙か遠方へのサボタージュに対する憧憬が拡大されたものであるという点で、自己言及性から大きく外れたものではない。今回の『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』においても、周囲から追い詰められたポールとジョニーはフロリダへの高飛びを画策していたではないか。現実逃避の感情の赴くままに自分の居場所から消え去ってしまいたいという欲望、何もかも投げ出してずらかってしまいたいという欲望が、グレイ作品には常に内蔵されている。
ポールのジョニーへの心酔が強ければ強いほど、友情が終わった時の疵は深いものとなる。観客の誰もが、2人の友情が長くは続かないであろうこと、そしてなんらかの残酷な形で引き裂かれるであろうことを予想するだろう。そして実際に、ここでは詳述を控えるが、私たちの予想を上回る悲痛なできごとによってポールとジョニーは別れることになる。
もし仮にも少年期のグレイ自身がモデルとなった実在の黒人少年と長く友情を温めることができたとしたら、『リトル・オデッサ』も『裏切り者』『アンダーカヴァー』も作られなかったはずである。グレイの作品群に立ち込めてきた悔悟と無常観の源流に、今回の『アルマゲドン・タイム』は観客を遡行させた。これほどまでに苦々しい、生涯忘れることのできない喪失体験が、グレイの表現者としての源流をかたち作っている。密林の秘境に分け入ろうと、宇宙の彼方に飛翔しようと、悔悟と喪失感から逃れることはできない。
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挑戦は「この世の終わり」から始まる
『アルマゲドン・タイム』というタイトルは監督本人によると、ポールがジョニーとの友情を深めた公立学校から名門私立学校への転校を強いられることを「この世の終わり」ととらえ、「世界最終戦争の時」という意味のタイトルにしようと決めたと語っている。ポールの心情からすればそれはそうかもしれないが、真の「この世の終わり」とはジョニーとの友情の終わりの時ではないか。この終わりからジェームズ・グレイの映画作りは始まったのである。
私事となるが筆者はポールとほぼ同世代で、同じような時期に同じような音楽を聴いていた。新宿・小滝橋通り周辺に点在した輸入盤屋・ブートレグ屋にたむろする少年だった。イギリスのパンクバンド、ザ・クラッシュが1979年の年末にリリースした7インチシングル『ロンドン・コーリング』のB面に『アルマゲドン・タイム』が収録されていた。結局『アルマゲドン・タイム』は、同時発売されたアルバムの『ロンドン・コーリング』には収録されなかったため、長いあいだシングル盤を所持するリスナー以外には聴く手立てがなかった。ザ・クラッシュというバンドはロックンロールを演奏する時以上に、レゲエナンバーに精彩を放つという、いかにもこの時代のバンドらしい側面を持っており、筆者もさかんにB面をターンテーブルに乗せ、この隠れた名曲をヘビーローテーションした思い出がある。
『アルマゲドン・タイム』の原曲はジャマイカのレゲエ歌手ウィリー・ウィリアムズによるもので、今回改めてW・ウィリアムズの原曲とザ・クラッシュによるカヴァーを聴き比べつつ歌詞も確認したところ、微細だが決定的な違いを発見した。「今夜、たくさんの人たちが夕食を口にできないだろう。彼らの多くは正しい裁きを受けられないだろう」とハルマゲドンの瞬間が近づいていることを告げる歌詞は両バージョンとも同じであるが、W・ウィリアムズ版ではこのあとに「エホヴァを賛美するのを忘れるな。ハルマゲドンにおいて彼が君たちを導いてくれるはず」という、原典である『ヨハネの黙示録』に沿った終局となる。しかし、ザ・クラッシュ版の最後のフレーズは「No one will guide you, Armageddon time.」つまり「誰も君たちを導いてはくれない、ハルマゲドンの時」というふうに、キリスト教色が消去されている。
福音によって審判の時を語るのはまだ早い、いや、もう遅いという苦い認識を、ザ・クラッシュが歌詞の変更によって示したのは明らかだ。そしてこの認識をジェームズ・グレイも共有し、自身の少年時代を正確無比に再現したフィルムにそのタイトルをつけた。導きはなく、どこに逃げても安息の地はない。孤立とともに歩むほかはない。詳述を控えるが、本作のラストシーンはポールの歩行によって幕を閉じる。この歩行こそハルマゲドンの時そのものである。ポールが転校させられた実在の名門私立校「キュー=フォレスト・スクール」はドナルド・トランプ前大統領とその姉マリアン・トランプの母校である。父親の不動産開発業者フレッド・トランプ・シニアが学校の運営資金を提供し、保守派エリートの養成校のような存在だ。フレッド・トランプ・シニアが学校の玄関で番人のごとく睨みをきかせ、生徒たちは黒人差別を隠そうともしない。ここからジェームズ・グレイの戦いは始まった。映画の後半、1980年の大統領選挙でロナルド・レーガンが圧倒的大差で優勢であるというテレビ速報が流れる。赤狩りの推進者だった超保守主義者がついに政権を担当することになってしまった1980年と、ドナルド・トランプとその支持者たちが不穏な動きを見せ続ける現代は直結しているという認識が、『アルマゲドン・タイム』を単なる回顧の自伝映画であるに留めず、アメリカ批判としての側面を強調する。
悪童にとって揺籃のような公立学校を去ることを余儀なくされ、「キュー=フォレスト・スクール」に転校したことによって、むしろ事態ははっきりしたのではないか。僕と彼らは違う。私とあなたは違う。違うということが、より明確となった。これに関連して印象的なシーンがある。墓地での葬式で一族が集まる中、ポールと兄のテッド、父のアーヴィングの3名だけは葬儀に参加せず、駐車した車の中で葬儀が終わるのを待つことにする。父のアーヴィングも東欧系ユダヤ移民の出身であるはずなのに、妻と妻の一族が行うユダヤ教の儀式とは一線を画しているようである。その理由を映画ははっきりとは示さないが、父を演じたジェレミー・ストロングの名演も相まって、じつに印象深いシーンとなった。
この葬儀シーンだけでなく、本作では駐車した車内のシーンが何度か現れ、そのどれもが素晴らしい。フラッシング・メドウ・パークでポールと祖父のアーロンがロケット模型を打ち上げるシーンで、そのふれあいに参加せずに車中からその様子を窺っている母役のアン・ハサウェイも、おそらく本作で一番良い表情を見せている。
ポールとジョニーは違う。私とあなたも違う。妻と夫も違う。人種間差別から目を逸らすことなく違いを示す不可視の線が残酷に引かれていくこの映画にあって、そして逃げる場所もなく、導いてくれる救世主もいない状況にあって、停車した車中におけるつかのまの時間は、猶予の空隙をかろうじて用意していたのかもしれない。