『アド・アストラ』
宇宙にいるのが私たちだけでも、そうでなくても
結城秀勇
ビック・ブルー・マーブル=地球はいつ見ても感動する。月面で宇宙軍の基地へと向かう道すがらプルイット大佐(ドナルド・サザーランド)はそう言う。だがその直前、ロイ・マクブライド少佐(ブラッド・ピット)がぼんやりと掲げた手は、宇宙のそれ以外の部分、色彩をすべて飲み込んだ漆黒の闇のほうにこそ彼が惹かれていると示していたかのようだ。彼は、いまにもそれに触れようとしていたかに見えた。
大きく青いビー玉のようにきれいな惑星は、しかしこの映画の冒頭ではもっと凶暴な表情を見せていたのだった。国際宇宙アンテナのハシゴから見た地球は、画面を覆うようにまるで落ちていきそうな"低さ"にある。そしてすぐに、宇宙などとは名ばかりなこの国際「宇宙」アンテナが、地球の重力圏にある、地球の地面から伸びた建造物だとわかり、やがて人や物が次々に地球に向かって落下していく。大きな青いビー玉の美しさを愛でることができるのは、そこから遠く離れることができた者だけだ。
円形や球形は『アド・アストラ』においてはある種の安全を担保してくれる形態である。より正確に言えば、安全か危険かを判断する距離的な猶予を示してくれるかたちだ。宇宙飛行士たちはあの丸いヘルメットで、真空や宇宙線から身を守る。ロイは、面倒な同僚との挨拶を、シールドの表面に映り込む光の反映に隠れてやり過ごす。ただし、月面で襲いかかってくる競争相手も同じ遮光シールドに覆われたヘルメット姿で、誰が敵か味方かなど見分けがつくわけがない。宇宙船の連結部などそこかしこに存在する丸いハッチも、開けてみるまでそれが吉と出るか凶と出るかはわからない。
地球の重力圏から逃れ、それが丸く見えるほど遠く離れても、ドリンクやTシャツ、125ドルもするブランケット、資源を巡る争いなど、ロイが地球に置き去りにしたかったものからは逃げられない。月面で彼が触れようとした闇に溶け込むことだけがそこから逃れる唯一の方法でもあるかのように、ロイは地球どころか太陽の引力からすら離れ、海王星を目指す。だが、彼が闇に溶け込もうとすればするほど、彼自身はひとつの球体、小さなひとつの天体のようなものに近づいていく。火星の地下水路の真っ暗闇の中、唯一そこだけ照らし出された彼を海王星へと導くアリアドネの糸は、ロイの顔を覆うシールドの表面に反射した像として映し出される。
互いが互いの反映でしかないような父と息子は、宇宙の寂しい場所に漂うふたつの天体のように、近づき、離れる。その場所へ行くために、息子は父と同じ罪を犯す必要があった。地球に置き去りにした息子に父親がかける理解の言葉は、果てしない闇の向こうを目指しながら、自分たちが来た方角から届く微かな光を反射して輝くほかない、彼らふたつの孤独な天体の矛盾を示している。よくここまで独りで来た。お前とならもっと遠くへ行けるのに。人類のたどり着ける果てへは独りでなければ来ることができない。しかし、ここから先は、独りでは行くことができない。
ロイは父親の研究成果について、「その荘厳さの下には、愛も憎しみもない」と言う。だがその荘厳さのほかに求めていたものなどあったのだろうか。その下などにではなくまさにその表面に、愛も憎しみも光も闇もあらゆる色彩もが入り混じる様をこそ、荘厳と呼んだのではなかったか。彼らも、我々も。
ジェームズ・グレイはこの映画の出発点に、アーサー・C・クラークの以下の文章が念頭にあったと語っている(https://www.liberation.fr/apps/2019/09/grand-entretien-avec-james-gray/)。「二つの可能性がある。宇宙にいるのは私たちだけか、そうでないか。どちらも同じくらいゾッとする」。だが『アド・アストラ』と、それと目的地をほぼ同じくする『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』を見ていると、クラークの別の文章もまた頭をよぎるのだ。「可能性の限界を発見する唯一の方法は、その限界を少し超えて不可能に踏み出すことだ」。