無条件の自発性、あるいは最高の劇的な物語
斉藤綾子
アルジェリア戦争中のフランスを舞台にした若者たちのひと夏の冒険を瑞々しく描いた青春映画として、時代を超えて多くを魅了してきた『アデュー・フィリピーヌ』。アルジェリア戦争を背景に兵役間近な青年と彼に惹かれる若い娘二人。屈折した感情を抱えながらも、十代最後の夏を謳歌する彼らの姿が発する画面からはちきれんばかりの若さと若さ特有の無秩序さ、そしてやがてその無垢が失われるだろうメランコリーをカメラは詩情溢れる視線で捉える。ロジエの長編第一作は、俳優たちの即興的で自然な演技、アマチュア的な演出、ロケーションを活かした長回し、移動撮影を駆使した映像的なリアリズムの感覚がまず印象に残る。人為性がないわけではない。各所にこだわった演出も見られるが、全体的な編集のリズムや映像スタイルの統一性のなさは、古典的ハリウッド映画のお作法を無視したヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画の中でも特出している。
すでにラストシーンの素晴らしさについては多くが賞賛するが、映画が始まって30分くらいでリリアーヌとジュリエットがパリの街をただ歩く姿をカメラが横移動で追う3分ほどの何の変哲もないシークエンスがある。アニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』(1962)でクレオがパリの街をさまよい歩く長回しのシーンを思い起こすが、不安に満ちたクレオとは対照的に、若い娘たちは軽やかにそぞろ歩く。ロジエは二人の姿をフレームの中景に捉え、前景に移動する車や電柱を交差させながら、マックス・オフュルスのカメラさながらにロジエは心地よい横移動のショットを、背景に流れるサントラ音楽のタンゴのリズムにあわせて二人の動きを再構成する。あるいは、ミシェルが生放送撮影中に所狭しとスタジオ内のケーブルを持ちながら移動する姿を追うダイナミックな空間の使い方。ちなみに、山師のようなパシャラを見ると、私はどうしてもジャン・ルノワールの『ランジュ氏の犯罪』(1936)のジュール・ベリー演じるバタラ氏を思い出してしまう。この道化的なキャラクターは、その後のロジエには欠かせない人物で、『オルエットの方へ』のジルベール、『トルテュ島の遭難者たち』のボナヴァンチュール、『メーヌ・オセアン』のプチガとメキシコの興行師、そして『フィフィ・マルタンガル』のガストンへと続く。『アデュー・フィリピーヌ』にはその後のロジエ映画の重要な要素がちりばめられているのだ。
『アデュー・フィリピーヌ』
© 1961 Jacques Rozier
こうしたロジエ映画の特徴とされる即興性やリアリズムは、シネマ・ヴェリテ風のドキュメンタリーとは異なる。確かにロジエは『パパラッツィ』や『バルドー/ゴダール』と記録映画短編を撮っている(後者で見せるメディアに対する鋭い批評的な眼差しは特筆に値する)。だが、『アデュー・フィリピーヌ』には妻のミシェル・オグロールと共同執筆したシナリオがあり、演技者は一応シナリオに沿った台詞を語る。もう一方で、初期のドキュメンタリーのように念入りな観察に基づいた演出による現実の再現というわけでもない。思わず羽仁進の『教室の子供たち』(1955)を引き合いに出してしまう誘惑にも駆られるが、それは無節操すぎるかもしれない。トリュフォーが的確に表現したように、ロジエのそれは、「すべてが自然に湧き出てきたようなみずみずしさでとらえられているが、それは一見デタラメに見えながら、じつは長い時間をかけて綿密に計算された苦心の結果」であり、「一見まったく無意味にとらえられた事柄の断続的なイメージのつらなりと、(略)抗しがたい魅力を生みだすリアリティの密度とのあいだの均衡」が保たれた結果である*4。デビュー作についてトリュフォーが指摘したロジエのこの特徴は、「デタラメ」と「綿密さ」あるいは「一見無意味な事柄のイメージのつらなり」と「リアリティの密度」の均衡の度合いは異なれど、彼の長編5本にすべて確認できる。
ロジエに見られるこの二面性は彼の敬愛するジャン・ルノワールを思わせる。ゴダールはかつてこのように発言したことがある。監督には二種類あり、エイゼンシュテインやヒッチコックのように「作品を可能な限り厳密に書きあげる」タイプがいてアラン・レネやジャック・ドゥミはこのタイプに属し、もう一方で「なにをしようとしているのかはよくわからずに探し求める」ジャン・ルーシュのようなタイプがおり彼らにとって「作品はこの追求」にあたるが、「ルノワールはその両者を同時に行いうるごくまれな一人で、そのことがかれの魅力になっているのです」*5。実は、ド・ボールガールの「統合的精神に欠けている」という非難に対して、ロジエ自身も同様の発言をしている。ロジエによれば、「事前に自分のやりたいことをわきまえている人たちとそうでない人たち」という二種類の監督がいて、当然自身を後者と認識し、『アデュー・フィリピーヌ』を擁護する*6。
とはいえ、ロジエの人為性のなさは、例えばルノワールが俳優の演技指導で実践した「演技抜きで台詞を言わせる」*7入念なリハーサルを経た後でのみ生まれる、いわば俳優が台詞を体内化した上で新たに自らの身体から表出するというプロセスを経た演技のリアリズムや即興性ともまた異なるように思える。管見では、このようなルノワールの俳優の演出手法は、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの中では、例えば俳優とリハーサルを繰り返しながら、脚本にもその要素を取り入れることで俳優の演技の自然さを見事に生みだしていくエリック・ロメールや、綿密な脚本に基づきながらも、演劇的な状況を舞台という限定された場から、ロケーションという場と空間に移行し、その中で俳優の身体性を最大限に引き出しながら、物語構造的には綿密に組み立てられた枠組みの中で個々の存在として彼らを最大限に生かすジャック・リヴェットにその系譜を見ることができるかもしれない。
もう一方で、自ら演技者として即興的な演出をしたとされるカサヴェテスの演出も、念入りに計算された人為性のなさのような効果が印象的だが、ロメールと同じように、その人為性のなさにはどこか演出家の計算が見える。ロジエの場合は若干異なるように思う。それは演劇が持っている即興性を追求した結果ではない。むしろ、『アデュー・フィリピーヌ』で再現されている、ロジエがその初期のキャリアで修業を積んだ「生放送」だった時代のテレビの制作現場で獲得した感覚なのではないだろうか。それは俳優がマテリアルを自身の身体に取り入れた上での自在の解釈による即興性ではなく、よりモダニズムの流れを引くハプニング、すなわち予測不可能な反応や偶然と運命のいたずらがコントロールする時空間の力学から生みだされるものに近い。ロジエの言葉を借りるならば演技者の「無条件の自発性、あるいは無条件の無自覚性」*8という的を射た表現でその独自の映像の魅力が理解できる。ロジエが好んで描くヴァカンスは、それこそ、日常から離れ、管理されたルーティンから逃れるために身体移動を伴う時空間の変異を意味し、こうした予測不可能な事態が起こり、偶然のふりを装いながらも結局運命と思わざるを得ないような状況に自らを見出す時空間なのである(ある意味、映画を見るという行為自体、観客にとってプティ・ヴァカンスと言えないこともない)。
『メーヌ・オセアン』
ロジエの軌跡は、事後的に見るとまるで「さまざまの異る様式を試み」*10るなかで、演出の信条を外的真実から内的真実へと舵を切っていったルノワールの姿にも重なる。同時に、ルノワールの遺作となったテレビ映画がエピソードという形式を採ることで直線的な語りを避け、1本の映画の中でさまざまな様式に挑戦したのとは対照的に、後期のロジエは一見して断片的で無関係なエピソードを繋げて、最後に循環する、という彼が好きなブニュエルのモダニスト的な転回を見せる。その「折衷主義」*11が他の監督にはないロジエ独自の世界を生みだしているのだ。
さて、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちでは、個人的にはジャック・リヴェットが最もフェミニストだと思っているのだが、ロジエの女性表象もとても惹かれるものがある。ロジエの映画に登場する等身大の女性たちは性的な存在ではあるが、彼女たちの身体があからさまな性的な視線の対象となることはほとんどない。正確に言えば、男女を問わずにキャラクターがそのような視線を投げかけることはあるのだが、カメラは彼女たちを性化しない。その点でロジエはロメールより、リヴェットに近い(と私には思われる)。『アデュー・フィリピーヌ』でも『オルエットの方へ』でも若い娘たちは恋とアヴァンチュールを求めているが、ロジエのカメラは彼女たちを過度に美化することもない。写実的だから、リアルだからという理由だけでなく、ロジエの画面では、あくまで彼女たちがその全身から発するエネルギーと天衣無縫な官能性を表出しているのだ。その視線はヴォイヤリズムやフェティシズムというより、好奇心に近い。
『フィフィ・マルタンガル』
『アデュー・フィリピーヌ』でミシェルを見送るために桟橋を走った二人の若い娘は、映画と共に歳を取り、別の女性の身体を借りて、舞台の上を踊る。その姿はどこかすがすがしく、最後まで変わらなかったロジエの女性に対する飽くなき好奇心と尊敬が見えてくる。よくよく考えるとそんなところもルノワールの映画の女性たちにも繋がる。そんなロジエの映画が私はとても好きだ。