ただ見るためのレッスン 映画における誤認と信をめぐって
三浦光彦
ジャン=リュック・ゴダールにジャン=マリー・ストローブ、吉田喜重、青山真治、そしてジャック・ロジエ…。所詮は映像の束に過ぎない映画というものを、何とか意味のある形式へと昇華しようとしてきた映画作家たちが去年から今年にかけて次々と亡くなった。だからといって「映画の死」なんてものを嘆く気にはならないし、そもそもテレビやパソコンなどの映画以外の映像文化が当たり前の時代に生まれ、映画の原体験なんてものを持ち合わせていない私には、それを嘆く権利すらないだろう。20世紀の末に生まれた私が目にしてきたのは、目まぐるしいメディアの変化やコロナ禍といった如何ともしがたい社会状況の変遷の中で、映画が大衆娯楽としても、芸術の一形式としても訴求力を着々と失っていく様だけだった。誰もがポケットサイズのカメラを日常的に持ち歩き、映像を撮っては世界中に拡散する現代において、「映画とは何か」なんて問いを発するのはあまりに無意味に思える。しばしば言われるように、結局のところ、映画というのはあまりにも20世紀的な芸術だったのだろう。ならば、この21世紀に、なお我々が映画を見る必然的はどこにあるのか。映画を見るという行為そのものがある種の暴力性を持ち、イデオロギーを固定化してしまう危険性を秘めているにもかかわらず。私はこの大きすぎる問いに答える術を知らない。だが、少なくとも本文の冒頭に名前を挙げた作家をはじめとする少なくない映画監督たちが、そのような暴力性に、映画そのものを通じて抵抗しようとしていただろうということだけは知っている。彼らは自身の映画を通じて、観客の「映画を見る」という経験を、観客の認知や身体、知覚を変容させようとした。その試みが果たして成功したのか、それとも失敗したのかは判定できない。そのような変容がどのように起こるのか、どの程度起こるのかは観客個人個人によって違うだろうから。しかし、彼らはその可能性に賭けたのだろう。そして、そのような実践は彼らが死んでしまった今になっても、なお有効なのではないか。私もまたその可能性に賭けるところから、ジャック・ロジエについて論じはじめる。
『バルドー/ゴダール』
『パパラッツィ』
このどうしようもないデタラメさ(表現の統一不可能性)、それに伴う我々の「見る」という行為の前景化はロジエの長編映画においても一貫している。ロジエは一応、物語というものを用意してはいるものの、ほとんどの場合、それは機能不全に陥る。例えば、『アデュー・フィリピーヌ』の場合、前半に展開される同僚たちとの車の購入、兵役から帰ってきた親友、主人公ミシェルの親友デデの兵役からの帰還、これらほとんどは映画全体においてまともに機能していない。後半からジュリエットとリリアーヌのミシェルを巡る三角関係(のようなもの)の行方とパシャラの追跡が一応、物語の中心を占めはじめるものの、それらは空転と延期を繰り返し、一向に決定的な瞬間を迎えない。『トルテュ島の遭難者たち』に関しては、登場人物の誰一人として自分たちがどこへ向かっているのかを把握していない。主要人物かと思われた主人公の相棒はあっさり途中退場し、挙句のはてに主人公まで生死不明の状態になり、映画中盤から登場したジュリーがなぜか物語を担いはじめる。『メーヌ・オセアン』に関しても、冒頭に登場する女性二人はスクリーンから消え、最初は一番影の薄かったル・ガレックの姿で映画は幕を閉じる。『フィフィ・マルタンガル』では、物語の救世主に見えたガストンが訳の分からない理由でその圧倒的な記憶力を失ってしまい、最後は行き当たりばったりが連続する。恐らく、ほとんどの観客は物語を追うのをやめる。映画を「読む」行為がバカバカしいものとなり、ただスクリーンの表面に生起するイメージを「見る」ことが強いられる。
『メーヌ・オセアン』
ロジエの映画においては、まず映画を「読む」こと(物語を追い、まとまった表現を見出そうとすること)が早々に諦められ、イメージをただ「見る」ことが強いられる。しかし、「見る」という行為はときに暴力的なものに、ときに無力なものになってしまう。であるにもかかわらず、なお「見る」必要があるとしたら、「見る」という行為に可能性があるとしたら、それは何なのか。やはり、『アデュー・フィリピーヌ』の一場面を取り上げよう。3人はやたらとでかい岩が転がる海辺でくつろいでいる。ミシェルとジュリエットが付き合いはじめ、リリアーヌはそれを察して苛立ちを隠せない。そんな中、どこからともなく羽音が聞こえてくる。「ハチだわ!」と叫ぶリリアーヌ。にわかに騒ぎだす3人。しかし、我々には音が聞こえてくるだけで、ハチがどこにいるのか分からない。本当にハチがそこにいるのか、それともいないけど、音を流して演技をしているだけなのか分からない。またしても、「見る」能力の低さが露呈する。しかし、我々は慌てふためく3人の身振りを見て、ハチがいるのか、いないのかという決定不可能な問いをひとまず棚上げにして、とりあえずハチがそこにいるのだと信じてみる。なんてことないシーンだが、ここでの「確信は持てないが、とりあえず緩く信じてみる」という知覚のありようこそが、ロジエの映画が提示する倫理だと私は思う。『メーヌ・オセアン』で、ル・ガレックが自身の音楽的才能に確証を持てないまま、とりあえず胡散臭いプロデューサーの誘いに乗ってみるように。あるいは、『トルテュ島の遭難者たち』のイカれた主人公ボナヴァンチュールが、生きるか死ぬかも分からず、とりあえず船から飛び込んでみせるように。『アデュー・フィリピーヌ』のラストにおいて、3人がお互いのことは見えていないけど、とりあえず相手もこちらを見ていると信じて、手を振っているのと同じように。見えているものを信じすぎるのでもなく、見えないものを前にして硬直するのでもなく、無意味性と意味過剰性の間で、透明さと不透明さの間で、とりあえず人物たちの身振りを信じてみること。映画とは一方向的なメディアだ。スクリーン内の世界と我々観客がいる世界は、存在論的に隔たれており、こちらから一切能動的な働きかけはできない。だから、我々は誤認する。見た目だけで何かを判断しようとしたり、あるいは、見えないのに何かを見ようとしたり。「ただそこにあるものを一旦、緩く信じ、見る」これだけのことが我々には意外とできない。 『フィフィ・マルタンガル』のラスト、演劇はトラブルの連続で何も上手くいってない。なのに、スクリーンの中の観客たちは楽しそうに笑っている。スクリーン手前の我々とスクリーンの中の彼らとの隔たりはあまりに大きい。しかし、ステージで繰り広げられるバカ騒ぎと、フラメンコに合わせて踊るリディア・フェルドの身体を目の前にして、この距離は徐々に縮まる。「ステージでは一体、何が起こっているのか」という映画を観ているだけではわからない問いを一旦保留して、ギターのリズムに身を任せる。映画の最後、スクリーンの中の観客たちの拍手は消え、我々は彼らの視点に同一化する。その時、我々は初めて映画に包含され、観客と映画とを結ぶ紐帯が辛うじて見えてくる。それはあまりに弱々しい繋がりかもしれない。しかし、「ただそこにあるものを見る」という行為の果てに見えてくるその紐帯にロジエは映画という表現の可能性を仮託したのだと私は思う。そして、この紐帯はロジエなき今もスクリーンを眼差す我々の方へと伸びている。