特集 ジャン・ルノワール生誕130周年

 ジャン・ルノワールは1894年9月15日、パリのモンマルトルに生まれる。リュミエール兄弟によってシネマトグラフがお披露目されたのがそれから半年後の1895年3月(有名なグラン・カフェでの世界初の有料上映はその年の12月)であり、ルノワールは映画とほぼ同時期に誕生していると言えよう。印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男として生まれたルノワールは、日々、父が現実をキャンバスの中に描くのを目にして育っていく(サッシャ・ギトリの『祖国の人々』(1914年) で、リューマチで曲がった父の手に絵筆をはさんでやり、絵の具を絞っているジャンの姿を想起する)。しかし画家としての父を敬愛しながらも、ジャンは「新たな芸術」に向かう。それが映画であった。その自伝で、ルノワールは映画との出会いを「自分の生涯を動顚させることになる運命の女性」との出会いに例えている。「幾多の失望、数々の幻滅をもたらしながらも、そこから受けた喜びは、そうした辛さを遥かに上廻るものがある」(『ジャン・ルノワール自伝』西本晃二訳、みすず書房、56頁)。まさに映画との「大恋愛」について書かれた同書は、映画が20世紀そのものとなる瞬間をいかにルノワールが見届けてきたのかを教えてくれる。
 1994年、ジャン・ルノワール生誕100周年を記念して仏映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」ではルノワール特集が組まれ、そのエディトリアルで当時の編集長ティエリー・ジュスは「ルノワールをある一つのイメージやフォルムと同一化することはできない。なぜならルノワールという映画作家のイメージそのものが、常に速度や体験を変化させ、移動し、逃亡することをやめない映画作家だからだ」と述べている。そしてその日本語版「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集代表、梅本洋一はジュスの言葉に共鳴し、その問いに答えるようにこう記している。「ジャン・ルノワールのフィルムが今なお強い生命力を保ち続けているとしたら、それは、もちろん、彼の「現実を捉える」方法が、他の映画作家たちよりも優れていたからでもあるが、そのことと同時に、彼が直面した「現実」が非常に重いものであり、大きな強度を備えたものだったからである。ジャン・ルノワールは、いかなる瞬間においても「現実」を「映画の原則」に従属させることはなかった。「映画の原則」の前に「現実」に改変を加えることはなかったのである」。
 ではそれから30年たった21世紀の今、ジャン・ルノワールの映画の現代性、現在性をどのように語ることができるのか。その存在が記念碑的なものから逃れてしまうと承知しながら、この機会にぜひふたたびまとめてルノワール作品を上映したいという欲望のもと、なんとか集められたのが約20本のルノワール作品と、ルノワールについてのドキュメンタリー3本だった。おかげさまで各回盛況となり、特集中には溝口健二の専門家で映画研究者の木下千花さん、ジャン・ルノワールの専門家、映画研究者の角井誠さんとのディスカッション、そしてその新作を世界中が待ち望んでいる二人の映画監督、濱口竜介さんと三宅唱さんによるディスカッションを実現することができた。ここではその二つのディスカッションの他、濱口さんの著書『他なる映画と 1・2』(インスクリプト)の刊行と、同じくジャン・ルノワール生誕130周年を記念して開催された、神戸映画資料館での木下さん、濱口さんの対談もあわせて採録させていただくことが可能となった。ルノワールの作品を前にした生き生きとした思考、未来に開かれた言葉をあらためて読むにつけ、「ジャン・ルノワールという不定形の環境が、かつてそうだったように、現在の私たちを捉え、そしてさらに将来にわたって、私たちの周囲に渦巻く環境であり続けるだろう」(梅本洋一)と確信する。

坂本安美(アンスティチュ・フランセ映画プログラム主任)

[特別掲載]フリッツ・ラングからジャン・ルノワールへ

——『スカーレット・ストリート』と『牝犬』をめぐって
濱口竜介×木下千花 2024/6/22 @神戸映画資料館

構成・リード文:中村大吾(éditions azert)
採録:吉野大地

 映画監督・濱口竜介の映画論を集成した『他なる映画と』(全2冊、インスクリプト)の刊行を記念し、神戸映画資料館で「ラングからルノワールへ:ジャン・ルノワール生誕130年」と題したイベントが開催された。著書の1巻目には、かつて同館で三度にわたって行われたフリッツ・ラングをめぐる講座の原稿が収録されており、その第3回では、ラングの『スカーレット・ストリート』(1945)からエドワード・ヤンとイーストウッドへという線が引かれたが、その番外篇ともいえる今回は、上記ラング作とそのリメイク元であるルノワール『牝犬』(1931)とをあわせて上映し、さらに映画研究者・木下千花との対談をつうじて、ルノワールという映画作家の特異さへと迫った。以下は、『群像』2024年10月号「特集・濱口竜介」所収の木下による濱口論でも参照されていたその対談の採録である(掲載にあたって加筆・再構成した)。なお、二作の配役はつぎの通り(ルノワール/ラングの順)。主人公=モーリス・ルグラン(ミシェル・シモン)/クリストファー(クリス)・クロス(エドワード・G・ロビンソン)、愛人=リュリュ(ジャニー・マレーズ)/キティ(ジョーン・ベネット)、そのヒモ=デデ(ジョルジュ・フラマン)/ジョニー(ダン・デュリエ)。催事に寄せた濱口による惹句もここに引いておこう。「ラングとルノワールがこの二作を通じて、互いを照らし出す。今回は特にラングの照らすルノワールの恐ろしさを感じてみよう。二大巨匠の演出の違いはそのまま、エドワード・G・ロビンソンとミシェル・シモンのありようの違いとつながる。乞うご期待!」

濱口 客席にはお久しぶりの方も、『ハッピーアワー』の出演者もいらっしゃっていますが、神戸映画資料館でおこなった講座も含まれている『他なる映画と』の刊行記念ということで、こうして神戸に戻ってこられたことを嬉しく思っております。そしてわざわざ京都からお越しいただいた木下さんも、ありがとうございます。今日は『スカーレット・ストリート』と『牝犬』を続けてご覧になった方も多いかと思いますが、じつをいうと、『牝犬』をスクリーンで見たのは私は今回がたぶん初めてです。やはりスクリーンで見ると本当に違いますね。その感想についてはおいおいということで、まずは木下さんのほうから論点を引き出していただけますでしょうか。

木下 偉大な二人の映画作家について、しかも濱口さんとお話しするということで緊張するところではありますが、今しがた上映された『牝犬』、国立映画アーカイブ所蔵の素晴らしく美麗なプリントでしたね。『牝犬』はルノワールにとってトーキー二作目。『坊やに下剤を』(1931)のすぐ次につくられた作品です。パリでのロケーション撮影が多く、ほぼ全篇が同時録音。それと対照的に、ハリウッドでつくられた『スカーレット・ストリート』のほうはロケ撮影が極度に少ない。例えば鳥が聴こえるランチのシーンも、屋外のはずなのに人工的なのが面白いところです。ハリウッドとフランスのちがいということで言えば、『スカーレット・ストリート』では、クリスとキティは愛人関係にあるのに、セックスしていないことになっている。当時のハリウッド映画ゆえの制約です。だからなおさらクリスがキティの足にネイルを塗るシーンが際立つことになる。この作品はブリーン・オフィス(いわゆるヘイズ・オフィス)の検閲は意外と無事に通ったようです。キティは売春を生業にしているわけですが、そのあたりはあまりわからないように、という程度の注意でした。ところが、結果的にアメリカの三都市で上映禁止となりました。深くインモラルな映画であると認識された。それは必ずしも間違っていないだろうと思います(検閲等の経緯についてはマシュー・バーンスタインという研究者が論じています)。

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濱口竜介

映画監督。近年の監督作に『偶然と想像』(2021/第71回ベルリン国際映画祭審査員グランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』(2021/第74回カンヌ国際映画祭脚本賞、第94回米アカデミー国際長編映画賞)、『悪は存在しない』(2023/第80回ヴェネツィア国際映画祭審査員グランプリ)がある。2024年、映画に関する講演・批評等をまとめた著書『他なる映画と1・2』(インスクリプト)を刊行した。

木下千花

京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は日本映画史、表象文化論。シカゴ大学博士(映画メディア学・東アジア言語文明学)。著書に『溝口健二論——映画の美学と政治学』(法政大学出版局、2016年)、ジェンダー+セクシュアリティと映画、検閲と自主規制などのテーマで日本語・英語の論文多数。

この排他的な世界で、いかにして非排他的な関係が可能か

特集上映「生誕130周年記念特集 ジャン・ルノワールの現在をめぐって」木下千花×角井誠
『ゲームの規則』アフタートーク 2024/9/15@東京日仏学院

司会:坂本安美
構成:梅本健司
協力:安東来、作花元至、芳賀祥平

坂本 まずは、本日『ゲームの規則』(1939年)の4Kレストア版をスクリーンでご覧になったご感想からお聞かせください。

角井 角井です。本日はよろしくお願いします。ルノワールの130歳の誕生日を、こうして皆さんと一緒にお祝いできることをとてもうれしく思います。『ゲームの規則』、何度も見ている作品ですが、今回の4Kレストア版ははじめて拝見しました。これまでのレストアよりもぐっと暗く、フィルムの質感に寄せた画面になっていて、黒が深く、引き締まった印象ですね。

木下 木下です。よろしくお願いします。実はオンラインでこのバージョンを見たことはあったのですが、大画面で見てより感動しました。相互補完的な意見を言うと、白が綺麗だなと。クリスティーヌ(ノラ・グレゴール)とリゼット(ポーレット・デュボスト)が鏡の前で愛人がいるかどうかと話をしている時のクリスティーヌの背中が白く輝く様子や、金髪の人が出てくると三点照明でしっかりと髪を綺麗に見せている。そのような細かい照明に目がいきました。
 それと『ゲームの規則』は見るたびにお気に入りのキャラが変わっていくのですが、今回お気に入りになったのはかなり重要な役であるロベール(マルセル・ダリオ)でした。あとで話しますが、やはりロベールが面白い人だなと、彼の印象が鮮明になりました。
 はじめて見る場合、よくわからなかったという感想も多い『ゲームの規則』ですが、角井さんは初見の時はいかがでしたか。

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角井誠(すみい・まこと)

早稲田大学文学学術院教授。映画研究・批評、表象文化論。パリ第1大学博士(芸術学)。共著に『映画論の冒険者たち』(東京大学出版会、2021年)、訳書に『彼自身によるロベール・ブレッソン インタビュー 1943-1983』(法政大学出版局、2019年)など。ルノワールについての論文として、「テクスト、情動、動物性——ジャン・ルノワールとルイ・ジュヴェの演技論をめぐって」(『表象』7号、2013年)、「ルノワール・タッチ——『スワンプ・ウォーター』における俳優演出」(『映像学』91号、2013年)、「ジャン・ルノワール『ランジュ氏の犯罪』における空間の力学——人民戦線、大衆小説、ジェンダー」(『仏語仏文学研究』58号、2024年)などがある。
純粋形のルノワール――『コルドリエ博士の遺言』と『捕えられた伍長』をめぐって|角井誠(映画研究・批評)

『ゲームの規則』4Kデジタルリマスター版 11月29日公開

見えない境界線を突き破る

特集上映「生誕130周年記念特集 ジャン・ルノワールの現在をめぐって」三宅唱×濱口竜介
『捕えられた伍長』アフタートーク 2024/10/5@東京日仏学院

司会:坂本安美
構成:梅本健司
採録:板井仁、松田春樹、山田剛志

坂本 本日はまず上映されたばかりの『捕えられた伍長』(1962年)について、それからルノワールのフィルモグラフィ全体についてもお話を伺いたいと思います。

濱口 今回『捕えられた伍長』でトークを、と言われた時にどうしようと思いました。というのも、前にも見ているのですが、その時はそんなに印象がなかった。しかし、結果的にはこれを選んでいただいてよかったと思っています。今日含めて複数回見返したのですが、どんどん好きになっていきました。初見時から印象に残るのはバロシェ(クロード・リッシュ)ですね。最初に伍長たちと脱走を試みる時に、彼がのび太くんのようにメガネを落とすんですが、あとでその行為が裏切りだったとわかり、普通に「えっ」となりました。最終的な見せ場の場面では、バロシェが逃げるさまを、離れたところにいる伍長たちが想像することで、我々観客も想像するように誘われて、彼が塀を越えた、と皆が想像した瞬間に銃声がする。これは初見の時にも見事な演出だと思いました。想像をスクリーンの中の境界を越えるような形で共有して、そこで悲劇を起こすとこんなにも響くものなのかと。
 それと全体としてはいわゆる「脱走もの」としては緩い話として記憶していた。でも、見直して、それは間違いないとしても、その緩さのうちに本質があるという気がしているのが現在です。

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三宅唱

1984年北海道生まれ。監督作として『夜明けのすべて』(2024)、『ケイコ 目を澄ませて』(22)、『きみの鳥はうたえる』(18)など。