Nobody’s Safe
梅本健司
ひっそりと配信されていた監督デビュー作『望まれざる者』(1949年)を除けば、アイダ・ルピノ監督のフィルムは初期、つまりルピノと彼女の夫コリアー・ヤングらが共同で立ち上げた独立製作会社エメラルド・プロダクション〜フィルムメーカーズ時代の6本のうち2本しか日本で見ることができなかった。これは必ずしも幸福な状況とは言えないだろう。その2本がフィルムノワールと位置付けられることもある『ヒッチハイカー』(1953年)と『二重結婚者』(1953年)だったこともまたルピノに対するある種の誤解を生んでいるように思われる。どちらも技術的な面や主題の扱い方にも成熟が見られ、ルピノにとっての最良のフィルムであることは否定しないが、だからこそ、それ以前のより試行錯誤、創意工夫を重ねている4作品と並べて見た際に凹凸のなさが切なくもある。たしかに、『ヒッチハイカー』、『二重結婚者』もいわゆる傑作という言葉に収まるものでもなく、見る者をどこかスッキリさせない奇妙な魅力を持っている。それは容易に善悪で割り切ることをしないルピノ独特の視点によるものだ。たとえば『ヒッチハイカー』における殺人鬼さえもルピノは理解不能な人物として描こうとはしない。モデルとなった実在する人物から借用された片目が閉じないという設定を持つ殺人鬼は映画中盤、家族に捨てられたことを被害者であるふたりの男たちに語り始める。その男たちが逆に家庭から逃げるようにして旅に出ていたことを思い出せば、3人の男たちの対決は、無垢な被害者と怪物のような加害者という単純な図式に収めることはできないだろう。あるいは、ふつうであれば罪深い行為としてサスペンスを伴いながら裁かれる重婚者の男の回想にも同情的に付き添い、ふたりの女のあいだにも彼をめぐるありきたりな対決を起こさせない『二重結婚者』はやはり並外れていると言ってよい。終盤の裁判所の場面では、ひとりの男が、愛したふたりの女とそれぞれ見つめ合うのを切り返しで捉えていたのに対し、女たちが見つめ合うとき、ルピノは切り返しによってふたりが対立構図に収まるのを巧妙にも避けている。ふたりの女がいがみ合うのではなく、お互いの孤独を理解し合ったようなその瞬間はそうした細部によって生まれている。だが、『ヒッチハイカー』や『二重結婚者』における善悪二元論を超えた複雑なバランス感覚は、述べたように奇妙な印象を与えるかもしれないけれども、以前のフィルムとは異なり、比較的それがスマートに処理されているように思える。
フィルムメーカーズ時代のルピノのフィルムは未婚の母親、ポリオ、レイプといった物議を醸す題材を積極的に扱い、そのこと自体が賞賛されることもある。しかしながら、それらはただちにルピノを特権化できるような新しいものではなく、そうした題材に対するルピノの野心に満ちた姿勢こそが特徴的だったと言うべきだろう。なかでも、レイプされた若い女性が主人公である監督3作目の『暴行』(1950年)は物語の構成や演出のうえでルピノの絶妙さがもっとも色濃くあらわれた作品であり、監督ルピノを真に物議に開くためにも見られなくてはならないフィルムである。
ひとけのない街路が俯瞰で捉えられ、右から左へ女が走り抜けていく。怯えるように何度か後ろを振り向く彼女はどうやらなにかから逃げているのだが、それがなんなのか、われわれにはまだわからない。続いて、おそらくは追う者に追いつかれてしまったのか、ボロボロになったその女が満身創痍で歩く後ろ姿が映し出され、しばらくするとまたディゾルブによって同じ道を逃げ惑う彼女に繋がれる。彼女は傷を負ったあとも、なにかから再び逃げなくてはならないようだ。こうして見る者をいきなり映画の核に放り込むファーストカット、あるいは冒頭場面の見事さは、他のルピノ映画にも見られることだが、パム・クックが指摘するように、ここでは「逃走」が『暴行』というフィルムのモティーフのひとつなのだと瞬時に把握することができる(Pam Cook, “Outrage,” Annette Kuhn, ed., Queen of the 'B's: Ida Lupino Behind the Camera, Praeger Pub Text, Westport, Connecticut, 1995, pp61-62.)。じっさい、『暴行』の主人公であるアン(マラ・パワーズ)は映画のなかでどこまでも逃走を強いられている。職場の前のダイナーで働く男のストーキングから逃げ、彼にレイプされてしまったあとでアンを偏見と過剰さを持って扱う街からも逃げるように離れ、さらにはたどり着いた田舎でもレイプ未遂に遭い、その男を殴り倒した末に彼女はまた逃げなくてはならない。
劈頭から既にわかるように、『暴行』がアンの言い得ぬほどの苦痛に満ちた体験に対してとる距離感は、必ずしもそれに寄り添うような優しいものではない。建物の2、3階あたりから見下ろすショットは、時間を空けて繰り返し見せられる惨劇の幕を閉じるショットと関連して重要だ。転んで意識が朦朧としたアンに男が迫ろうとするとき、カメラは彼女が誤ってか鳴らしたクラクションの響き渡る犯行現場から離れながら上昇していき、無関心にも窓を閉めるある男を捉える。ロニー・シャイブが正しく指摘するように、この直接の犯行を見せないカメラワークによって、レイプを体験したアンと観客が同一化することは拒まれ、彼女の日常との残酷な断絶はオフスクリーンに隠される(Ronnie Scheib, “Ida Lupino Auteuress,” Film Comment, Vol. 16 No. 1 (Jan/Feb 1980), pp. 54-64, 80.)。そもそも、強姦魔とアンの追走がわれわれを切に戦慄させるのは、アン側だけではなく、はたしていつ彼女を襲うという決意をしたのか曖昧な男側からも、その場面を見なくてはならないからだ。男が追っている対象をはっきりと特定しているのに対して、アンは誰に追われているのか分からない、その絶妙な距離をルピノは演出していく。ときにアンの視点ショットや、彼女の意識のなかを表現するような音響によって、レイプ被害のトラウマを克明に描きつつも、それだけがこのフィルムを支配しているのではなく、アンの知り得ぬ他者性も彼女の意識と反響するかのように巧妙に混ぜられている。こうした複数性は、50本以上のテレビ作品を含めたルピノのフィルモグラフィを貫く重要な要素である。
『暴行』はルピノのフィルムのなかでもとりわけ戸惑いとともに評価されてきた。シャイブは明晰な分析とともに「前半部のノンストップでドラマティックな展開とすさまじい感情的な力のあとでは、多くの点で後半部がフラットで満足のいくものではない」(Ibid.)と一定の留保を示しているし、クックは『暴行』をメロドラマ的な観点とレイプ・リベンジ映画の観点両方から検討することによって、この映画がなんらかの言説に容易に当てはめられるのを拒む複雑なテクストであることを発見している。
平坦で満足のいかないと評されもした『暴行』の後半部は、たしかに議論の余地があるものの、しかしだからこそ興味深くもある。アンがたどり着いた田舎街を舞台に物語は展開され、そこでアンのトラウマに寄り添うことになるブルース(トッド・アンドリュース)が登場する。以降は、アンというよりもブルースに映画の焦点が移るという指摘がしばしばあるのだが、そう言い切るにはもう少し慎重であるべきだと思われる。ブルースは第二次世界大戦を経験したことで一度信仰を失いかけた牧師であり、帰還兵というルピノ映画の多くの男たちが持つ系譜に位置付けられる。アンは、ブルースのそうした体験を聞くことで彼のなかに癒しを見出し、少しずつ心を開いていく。だが、ブルースに誘われて参加した地元の収穫祭で、無理矢理キスをせがんできた男をアンは正当防衛によって殺しかけてしまう。それまで過去を隠していたアンの事情を知ったブルースは裁判の場で検事と判事に弁明を行うのだが、その場面では男3人の会話が中心になり、なにも語ることのできないアンは、どちらかと言えば画面の外に追いやられる。おまけに、ブルースがここで行う演説は、レイプをした男の抱える精神疾患─それだけではなく首元には傷がある─は戦争によるものであり、それを放置してきたわれわれこそが真の加害者だと語るように、ある意味でアンと強姦魔を被害者として同列に語るのだから、容易に聴き逃せるものではない。
ところで、明らかにふたりは惹かれ合っているようにも見えるのだが、ブルースがアンとの恋愛関係を望むことはない。ブルースという人物を、たとえば『暴行』以前にレイプを描いた『ジョニー・ベリンダ』(1948年、ジーン・ネグレスコ)のリュー・エアーズ演じる男性医師や『暴行』直後にルピノが出演することになる『危険な場所で』(1951年、ニコラス・レイ)において、彼女自身が演じる盲目の女性から隔てられているのは、癒しと恋愛関係が結びつくのを彼自身が拒むことにある。アンのトラウマに対する治療に1年間付き添ったのちに、ブルースは彼とともにいたいという彼女の願いを棚上げにし、婚約者や両親の待つ家へ戻ることを勧める。ブルースのこうした自己反省的で抑圧された態度を、クックは女性化された男性─彼が咥えるパイプにはタバコが入っていない─だと指摘する(Cook, p. 62)。映画はそんなブルースが元の場所に帰っていくアンを見送り、背中を向けて去っていくショットで閉じられる。なるほど、素朴にも前半をアンのトラウマの物語だとするのなら、後半部はそれを癒すブルースに焦点が移行すると言えなくはないかもしれない。しかし、上述したように『暴行』はアンの精神的な描写やその探求に前半部から終始しておらず、うつろいやすく複雑な視点から語られるのだから、必ずしもひとりの人物から別のもうひとりの人物へ焦点が移行するというようにまとめることは難しい。後半部においても、焦点はアンとブルースを行き来しつつ、ときおりそうではない人物の視点も導入されていく。
裁判所で表明されるブルースの言い分は、『ヒッチハイカー』において、乗り合わせた殺人鬼と巻き込まれたふたりの男たちをどちらも社会に馴染めず、弾かれた者として描こうとしたルピノの態度に近いものがある。強姦魔もその被害者も同時に傷を抱えている。あるいは、そう語るブルースもまた戦争のあとで無傷でいるわけではない。ルピノ映画では、すべての人に傷がある。 彼らは規範をはみ出したり、押し付けられたりしながら、なんらかの傷や病を抱えている。ルピノ作品でときに危うくも見える均衡は、すべての人が抱える傷を描こうとする困難な道のりのあらわれと見るべきだろう。物議を醸す題材に対する明確な解決をルピノ自身も持ち合わせていないように思えるのは、ときに同情的ではあれど根本的に人の傷を癒すことのできない法の限界を見せたあとで、主人公たちが家に帰れるかどうか、幸せに家庭を築けるかどうかをルピノが一度たりとも明かすことがないからだ。街の外れにある橋のうえで抱き合う男女も、雑踏のなかとりあえず再会することができた恋人たちも、 愛する女を見送った男も、すべてを失ってテニスコートにただひとり座り続ける女も、恐怖の体験を終えたあとで暗闇に放置されるふたりの男たちも、散り散りに去っていく3人の男女もそれまで信じてきたものが決定的に揺らいでしまったあとをこれから生きていかなくてはならない。こうしたルピノの葛藤に満ち、開かれたフィルモグラフィは、こうしてまとまってその作品が上映される今こそ、観客の手に委ねられるべきだろう。
アイダ・ルピノ Ida Lupino (1918 - 1995)
ロンドン生まれ。10代で舞台・映画俳優のキャリアをスタート。16歳でハリウッドへ移住し、30、40年代を通じて活躍。「安上がりなベティ・デイヴィス」とも呼ばれたが、タフな女性を数多く演じた。役を選び、度々スタジオと揉める彼女に監督への転向を勧めたのは『ハイ・シエラ』などで4度組んだウォルシュだったと言う。40年代末、当時の夫でプロデューサーのコリアー・ヤングとともに製作会社The Filmakersを立ち上げる。彼らの製作していた『望まれざる者』(1949)でエルマー・クリフトンが病に倒れたため、共同脚本家のルピノが監督を引き継ぎデビューすることになった(ノン・クレジット)。作品数は多くないが、レイプの問題を描いた『暴行』(1950)からフィルム・ノワール『ヒッチハイカー』(1953)まで多様な作品を作る。60年代以降は出演・演出業ともにテレビでの活動が多くなるが、70年代に至る長いキャリアを築いた。