1話

不和を生きる

三浦光彦

 アルド・モーロ誘拐事件を「赤い旅団」メンバーの内側から描いたマルコ・ベロッキオの作品『夜よ、こんにちは』(2006)において、モーロは専ら、「赤い旅団」唯一の女性メンバー・キアラから眺められる隔絶した他者として、常に声と身体とが遊離しているような、実体なのか幻影なのかも定かではない存在として描かれていた。実際、モーロという政治家はイタリアにおける「鉛の時代」の空白の中心とも言える人物であり、その存在の欠如が現代のイタリア政治にまで、暗い陰を落としているであろうことは想像に難くない。一方で、再び同事件の映像化に取り組んだ『夜の外側』において、ベロッキオは第1話でモーロを実体を持った生身の人物として描くことを選択し、6話構成のドラマ全体は1話の最後でフレームの外へと姿を消したモーロがそれぞれの人物に対して、どのようにフレームの内へと帰還してくるのかをめぐって構築される。それゆえ、1話でのモーロ(を演じるファブリツィオ・ジオーニ)の存在感や肉体性に相応の厚みがなければ、計6時間弱のドラマ全体を持続させること自体が可能ではないだろう。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 映画は1978年3月12日、モーロが誘拐される4日前から物語を語りはじめる。当時、キリスト教民主党党首であったモーロは、急速に勢力を拡大しつつあったイタリア共産党との連立政権樹立に向けて動いていた。当然、そのような政治的態度は、民主党内の右派からは裏切り者として、プロレタリア階級からは左翼をとり込もうとする権力者的な身振りとして映っただろう。さらには、それが米ソ二極体制の冷戦下においてのことであるのだから尚更だ。キリスト教民主党の討議会では、共産党との連立政権樹立を拒む党員が熱弁を奮っている。モーロが「熱しやすい国民性」と称するものを体現するかのような苛烈な巻き舌、捲し立てるような早口、強調されたアクセントによって、聞くものの身体を強烈に揺さぶるスピーチ。その熱にあてられた党員たちが立ち上がり、喝采を送るなか、モーロは右手を控えめに挙げ、スピーチをはじめる。低くガサついた声で、一語一語をゆったりと発話するモーロのスピーチは、連立政権反対派の情熱的なそれとは対照的だが、単に落ち着いているというのではなく、控えめな発語と同調するようにして、手をゆったりと雄弁に動かし、細やかにクレッシェンドしていく。その視線の動かし方や間の溜め方は、目の前の党員たちが感じているであろう逡巡を自身の肉体でもって引き受けると同時に、その逡巡をバネにして連立政権樹立への決意の強さを静かに表明しており、観るものの心を打つ。
 しかし、モーロという人物の魅力は単にこの場面における演説に由来するのではない。むしろその演説における彼の肉体や声のありようが政治的なテクニックではないこと、彼が政治、宗教、家族といった諸々の権力的な磁場において不変であろうとしていることに根差す。そのことはコッシーガに対するセリフの中にも現れている。コッシーガが家族との関係について、「私は家に帰ると消える」と公私の抗いがたい非連続性を打ち明けると、モーロは「我々の政治は聖職でもあることを忘れるな 家庭内の苦悩に耐える力を信仰が与えるはず」と、政治-宗教-家族の不可分をコッシーガに諭す。その後、帰宅したモーロは家族たちにおやすみをいい、妻・エレオノーラがいるベッドに自分も入る。ベッドに寝る女の形象は6話全体で最も印象的に反復されるモチーフだ。コッシーガの妻、ファランダ、ファランダの娘、そして事件後のエレオノーラ。彼女らは権力闘争が行われる男たちの昼の舞台の「外側」に取り残されたものたちとして、夜のベッドに横たわる。それゆえ、エレオノーラの横に並び、彼女に声をかけるモーロの姿は、やはりドラマ全体において特権的なものとして刻印されている。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 モーロ誘拐までを描く第1話では、いわばイタリア政治のありえたかもしれない可能性が、モーロを通じて描写されている。それは決して、政治-宗教-家族というイタリア国家にとって必要不可欠な三位一体が、モーロを通じて調和しているということではない。実際に、政治問題は山積みで、ローマ教皇からは不信感を示されているし、家族との関係が順風満帆とは言えないことも明示されている。だが、ここで描き出される寡黙かつ雄弁なモーロの姿は、それらの不和を確かに自身の肉体において感取しつつ、その不和に忠実であろうとする人物として説得力をもって描き出される。第1話はそのようなモーロの緩慢な動きに沿うようにして、ゆったりと進んでいく。そして、その心地いいリズムは唐突に割り込んできた車によって乱され、あっという間に崩壊する。2〜6話を通じて展開されるのはモーロというありうべき可能性を失った国家がバラバラと音を立てながら崩れ去ってゆく悪夢であり、そこでは国家とパルチザンが知らずのうちに結託し、その結託の中で家族は蹂躙され、信仰心が失われていく。
 第1話のOPクレジット前、つまり映画劈頭には、事件の顛末を知るものからするといささか奇妙なプロローグが置かれている。その意味は第6話の最後でわかることになる。生と死、現実と虚構とがないまぜになるその展開は、『夜よ、こんにちは』のラスト以上に倒錯しており、まさにベロッキオの面目躍如と言ったところだろう。既に完了してしまった事態、つまり歴史と呼ばれるものに対して、映画的想像力は何を成しうるのか。不在、あるいは死に対して残されたものはいかに応答しうるのか。現実に起こったことをフィクショナルに仮構する際に求められるのは現実への忠実さではない。完了したものを未完了のアスペクトに差し戻し、過去に潜在した可能性を現在に向けて充填しつつ、現実の変容可能性に賭けることこそが、そこでは求められる。その点において、モーロの肉体が宿す態度は、イタリア国民のみならず混迷を極めるこの時代を生きる全ての観客が参照すべき倫理となる。

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