2話

入口から考える

高木佑介

 誘拐事件発生を受けて、第2話ではモーロ救出に尽力する内務大臣のコッシーガ(ファウスト・ルッソ・アレジ)に焦点が当てられる。しかしその前に、そもそもこの『夜の外側』と題された作品の中に、人はどのように入っていけばいいのだろうか。例えば『夜よ、こんにちは』の冒頭に据えられていたのは、赤い旅団のメンバーがアジトとして使うことになる家を不動産業者とともに内見に訪れる場面であり、その家にはどうやら「入口がふたつある」ことが案内人たる業者の説明によって早々に明示されていた。すなわち、物語の主な舞台となる空間への入り方の案内がそのまま作品自体の冒頭=入口になっていたのであり、またそれとほぼ同時に立ち上がる問いとして、その家からの出ていき方=出口の問題がそこですでにして提起されていたわけだ(言うまでもなく、まるでそれが入口と出口を兼ねた扉であるかのように冒頭とラストで都合2回提示されるタイトル——「ジョルノ=日中」と「ノッテ=夜中」が表裏一体となったような——が冠されたその映画では、「入口がふたつある」という家からの「ふたつの出ていき方」が、物語の終わりに描かれることになる)。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 入口の問題。実際、この『夜の外側』のいたるところで人が目にするのは、無数の扉だろう。建物の内と外をつなぐ扉、隣接する部屋や廊下に通じる扉、赤い旅団の隠れ家の扉、モーロが監禁されている部屋の扉。幾度となく訪問者の訪れを告げるノックやチャイムの音が響き、何人もの人々がそれを通過する。車のドアや人が行き来することができるほどの大きさの窓、あるいは扉のついていない開口部も含めれば、数限りない出入り口がそこにはある。もっとも、扉や窓といった空間に穿たれた開口部の類が重要な舞台装置としてたびたび現れ、そこから「入る/出る」ことや何かを「見る」ことや「投げ出す」ことへと人を促してやまないベロッキオの作品を振り返ってみれば、それもさほど目新しいことではないのかもしれない。とはいえ、例えば赤い旅団メンバーのある一人が、恋人の家で暮らす子どもを混乱させないためということわりはあるにせよ、つい今しがた出ていったばかりの扉から再度「入ってくる」ことをわざわざ演じてみせる光景や、捜査に行き詰まったコッシーガが一人うなだれる個室の扉から大した用もないのにその顔をひょっこり覗かせてみせるアルド・モーロの振る舞いなどを目にすると、単にそれが室内劇だからであるとか、ベロッキオその人が演劇や精神分析的なコンテクストに造詣が深いからといった理由だけには還元しきれない何かがそこで起こっているように思えるのだ。では、この 『夜の外側』の始まり=入口は、一体どこにあるのか。
作品の始まり、つまり、「1」から「6」までの数字が律儀に振られた各話のうちの「1」の冒頭で展開するのは、赤い旅団から無事に解放されたというアルド・モーロのもとをコッシーガ(と、のちに了解される男)を始めとする政治家たち(と、ほどなくして了解される男ら)が訪れる画面である。ここではたしかに、縦構図で捉えられた病院の長大な廊下を神妙な面持ちで歩いてきた政治家たちが、「今は絶対に安静です」という医師の制止にもかかわらず「一目だけ」と横手にある病室に「入っていく」様を見ることができる。ただ一人コッシーガだけが少し躊躇するような様子を見せるものの、結局は彼も他の政治家たちに続いてその病室に入っていき、そうして対面するまでにいたったベッドに横たわる男こそがアルド・モーロその人であることが、解放されたことに対する謝辞を述べたモノローグが聞こえてくるあたりで人々にも了解される。その一連の流れが、この作品の始まりであり入口であると、ひとまずは看做すことができる。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 しかし、結論から言えば、そうとは限らないのだ。ひとつの入口だと思われた場所には、まるで二重、三重、……n重にも扉が設置されているかのように、その位置を容易に断定することができなくなっている。それは何も、現実にはアルド・モーロは生還しなかったからとか、のちに展開されるように、この一連の場面自体が、自身の死を予感するアルド・モーロをして「双極性障害」と言わしめるコッシーガがモーロ殺害の直前に見ていると解釈することができるそもそもの幻想であるからという意味合いではない。そうではなく、始まり=入口として見たはずのこの一連の場面における光景や身振りそのものがすでにして、前も後もなければ始まりも終わりもないような反復としてあるということが言いたいのだ。すなわち、何らかの開口部をくぐり抜けていき、それが現実であるか幻想であるかにかかわらず、何事かを見聞きすること。そうした瞬間を、扉や窓がそこかしこに立ち並ぶベロッキオの作品の中へと入っていった人々は、幾度となく経験してきたのではなかったか。実際、第2話で怪しげな霊能力者めいた人物からモーロの居場所を告げられたコッシーガは、とある精神病院を訪れることになるのだが、そこで人が目にするものは、第1話の冒頭における場面がほぼ正確に繰り返された光景と身振りなのである。縦構図で捉えられた病院の廊下から、横手の病室へと入っていき、ベッドに横たわる一人の男をコッシーガは見る。その男はアルド・モーロに似ているようにも見えるし、まったく似ていないようにも見え、それがより一層のことコッシーガのみならずこの作品の画面を混乱させるかのようでもある。「先生、俺はなんでこんなところに?」と男は傍らの医師に言う。その言葉は、コッシーガにも見る者にも、どこか共有できるものとして響く。「なんでこんなところ」にいるのか?ベロッキオの作品はいつだって、そこが入口であるという確信を抱いて入ろうが、あやふやなままにして入ろうが、ともすると歴史のうねりの真っ只中がそうであるかもしれないように、気がつけば無数の出口らしきものが立ち並びつつしかしどれひとつとして出口たりえない(なかった)ようなわけのわからない時空の方へと人々を連れ去ってしまう。少なくとも、そうしたあるかなきかの入口/出口は、明確な始まりも終わりもないまま不断に繰り返される「夜」の気配を宿した、「夜の外側」とも「夜のロケーション」とも呼ばれうるこの作品には相応しいものであるように思える。あるいは、その正確な位置取りの掴めなさとは、イタリア国内に留まりながらも、そこが内なのか外なのかさえ定かではない場所から絶えず映画を揺るがし続けるマルコ・ベロッキオという存在にこそ、当てはまることなのかもしれない。

←戻る