5話

不始末の眠れない

五所純子

 岡田美里が堺正章との離婚をふいに告白したのはある記者会見の席だったが、彼女は離婚理由のひとつを、中元のシーズンに山ほどの宅配便が送られてくるからだと語った。一日に何度も伝票に判をつき、梱包を解いては箱を畳み、差出人にお礼状を書き、膨れあがっていく食材を毎日どう消化していくかに頭を使い、食材が腐敗すると心が傷むので、本当に食べたいものは先延ばしにする、その明け暮れ。わりと不幸だな、とわたしは思った。けれどおおかたの視聴者やメディアは正反対で、高級食材たらふく食えるならいいじゃん、恵まれたひとのワガママでしょ、という反応だった。富裕層や支配階級は少数派だ。少数派の悩みは理解されにくいらしい。『夜の外側』第5章でわたしははじめて見た。告解室でみずからの罪を告白した信徒が、ちょっとなにいってるかわかんないですけど、というふうに神父から返されるのを。告白したのはアルド・モーロの妻・エレオノーラ、第5章の主人公。仕事にかまける夫の愛情のありかがわからない、と彼女も言う。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

『夜の外側』は、首相、内務大臣、書記官、ローマ教皇、テロリストをはじめ、主要人物たちの顔から社会的威信を剥がしていく。けれど、第5章のエレオノーラだけは異なる。ただひとり威厳のようなものが高まっていく。
 夫が誘拐され、妻は家から出ないように政府から命じられる。ある意味で妻も「不当な囚われの身」になるわけだが、当初は妻のほうでも幽閉にも甘んじ、夫の誘拐にかんして(自分たち家族は静観し)「内務府に任せる」つもりでいた。けれど家には一人、また一人と、政府関係者や警官がやってくる。一匹見つけたら百匹いる虫のように黒づくめのひとらが家のなかに増殖していく。私的領域が公権力に侵犯されていく様子が黒の配分で描かれる。黒いひとは、すべからく私的領域では気を緩めるものなのか、はたまた公的領域とちがい私的領域において最有力な制御手段は〈涙〉か〈抱擁〉と考えているようで、妻よりも早く泣いてみせ、妻を抱きしめては、妻から協調や懐柔を引き出そうとする。(対して、殉職した護衛警官の妻が「泣きたくない」とつぶやくカットや、エレオノーラが抱擁のくりかえしに辟易とするカットが置かれる。二人の妻の背後にはそれぞれ、他章と同じように絵画が架けられているが、〈御心のイエス〉〈聖母子像〉は小ぶりでひっそりしている。)政治家たちにとって〈誘拐されたモーロ〉は政争の具でしかなく、エレオノーラがしだいにそれを悟っていく過程が第5章だ。別の言い方をすれば、公的領域と化した家で、自分や構成員の心理的動揺を睨みつつ、夫であり国家的要人である最愛のひとの奪還に向けて、じしんの考慮や判断が政治化していく、家族という組織の運営責任者・エレオノーラが突出していく章である。(あるとき、エレオノーラは激昂してわめく長女を家から追い出す。その直前にはエレオノーラこそ激昂してわめいていたにもかかわらず。けれどエレオノーラの理路は正しく、采配は確かだ。)リビングで、寝室で、夫の書斎で、妻は電話で内々に働きかけ(その姿は内務大臣に重なり)、声明を出して世に問いかける(その姿は教皇に重なる)。
 私的領域とはなにか。第5章の家族たちが他章と異なるのはなんだろう。それは〈誘拐されたモーロ〉について、持薬をきちんと飲めているかを真っ先に心配してしまうことだ。衣服に気をまわしてしまう、排泄を気にかけてしまう、潔癖症をこじらせていないかと気を揉んでしまう、そういう習性の域だ。たとえば同じ薬でも、他章で内務大臣が頼みにした予知者が「モーロは麻薬を飲まされている(から政府与党に不利な発言もするだろう)」と主張するような、自分らの利害にかかる危惧ではない。ひとえに相手の安寧に尽き、そこに関与できない自分に悶える。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 しまいまで純粋に私的領域として映されるのはキッチンだ。かつて夫が妻に、モーロがエレオノーラの安寧に尽くした、象徴的な場として選ばれている。誘拐事件が起こる前日まで、昼にエレオノーラが閉め忘れがちなガス栓を、夜遅くに帰宅したモーロがそっと閉めてまわっていた。誘拐後、モーロの愛情を見失いかけていたエレオノーラは、夜、すべてのガス栓を開いてまわる。それはモーロの愛情のありかが確かめられた瞬間であり、モーロの帰還を呼びこむ呪術である。しかし遅い。ただでさえ、ガス栓を閉めるモーロの姿をエレオノーラが見たことはなかった。それはいつもエレオノーラが眠りについた後だったから。さらにモーロが誘拐されたいまとなっては、エレオノーラはモーロを幻想で見るほかない。キッチンはただ記憶の保存庫になりかけている。
 幻想を見る。『夜の外側』各章の主人公はそれぞれにモーロの姿を幻想で見る。その虚実の入り混じった映像表現が見どころのひとつでもある。ただし第5章が特異なのは、エレオノーラが見る幻想が、妄想でなく、回想であるところ。他章が超現実的・非現実的な水準でモーロの〈死〉を想起し、ときにはその妄想に苛まれるのに比して、エレオノーラには過去の現実にあったモーロの、穏やかな〈死〉にまつわる記憶を呼び起こされる。この違いはどこからきたか。ひとつには役柄の設定として、それぞれのモーロにたいする後ろめたさの多寡によるものかもしれない。(他章では人物たちの後ろめたさからくる幻想はモーロを陰惨な状態におくが、エレオノーラの後ろめたさは、エレオノーラ自身を鎖につなぐ自罰的かつ抵抗的なデモンストレーションとしてあらわれる。)またひとつには物語の運びとして、すでに公共化されてきた〈モーロの死〉をあらたに描き直す最終章へ、いよいよモーロの私秘性に触れていく最終章へと向けて、直前の第5章ではモーロの私的領域をなるべく開いておいたのかもしれない。しかしながらもうひとつ、作家のフィルモグラフィを眺めると、作家の創作上の信条がやはり大きいのではないか。政治家であろうとマフィアであろうと、ひとの安寧が通いあう大いなる場所として、家および家族という私的領域をとらえるということ。
 エレオノーラが家から出る。そこで直面するものは、ずば抜けて皮肉で、骨身にこたえる。事件が起これば怪情報が飛び交い、政治事件ともなれば策謀が巡らされるもので、それらが威信あるひとびとを翻弄するというのが筋書きとして各章で活かされている。けれど第5章にあっては、さながら一方的にエレオノーラにくだされた平手打ちだ。モーロに似て非なるもの。悪意なく、政治的な意図もなく、宗教的な信心もなく、法を犯すことなく秩序を乱すことなく、痛んでも病んでもおらず、正気で、冷静に、真面目に、みずからの正しさを疑わずに嘘をつき、嘘を生みだす意義を恥じることなく告白する、確信犯たち。エレオノーラを前にしては、本作も、あらゆる映画も、どちらかといえば、その確信犯たちと同じ側にいる。それが最終章の直前に示されることの強烈さである。
 エレオノーラは片側が空いてしまったベッドでなにと眠っただろう。アルド・モーロの死の真実、ある国家的な不始末とともに眠ることにきめただろうか。——いや、それとも、それよりも。夫を殺害するひとに、とっさに詫び、お礼すら言ったこと。その不始末が燻る。想像を絶する。

五所純子(ごしょ・じゅんこ)

作家、文筆業。単著に『薬を食う女たち』(河出書房新社)、共著に『本に出会ってしまった』(ele-king books)、『レオス・カラックス 映画を彷徨うひと』(フィルムアート社)、『心が疲れたときに観る映画』(立東舎)など、文芸・映画を中心に多数執筆。

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