6話

誰も代表できず

梅本健司

 コッシーガのものだとひとまず考えられるモーロが救出される幻想とじっさいにモーロが発見される映像との違いはなにか。言うまでもなくモーロが生きているか死んでいるかという大きな違いもあるが、もうひとつ重要なのはコッシーガの幻想に民衆がほとんど映り込まないのに比べて、現実の映像ではモーロの死体を目撃する多くの民衆が映り込んでいることだ。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 赤い旅団のファランダを除いて、本作で焦点が当てられる人物は基本的に普通の人々から隔てられており、彼らとの関わりがほとんど見せられない。たとえば3話冒頭でローマ教皇が演説するとき、聴衆たちは彼の肩口から豆粒ほど小さく映るだけであり、バルコニーに立つローマ教皇が下から見上げられるショットに関しても、カメラは教皇と聴衆の間にある空に位置しているため、地に立つ人々の視線を代行しているわけではない。そのショットは教皇の見掛け倒しの荘厳さを演出するばかりで、民衆との距離を見るものに測らせることはないのだ。一方、1話冒頭でモーロがキリスト教民主党の建物からその前で起こる暴動を見下ろすとき、明らかに暴動の渦中にいる誰かのものだと思われる視線もまた、モーロを見上げている。共産党党首との密会でモーロが互いの護衛たちが分け隔てなく世間話をしている様子を「われわれより進んでいる」と指差すように、本作においてモーロは唯一民衆との繋がりを意識した政治家として描かれている。
 民衆を見つめ、彼らの声を聞くモーロは、しかしながらこの映画において民衆の代弁者として存在できているわけではない。あるいは複雑に絡み合う政治勢力を巧みに取り持つ調停者としても結局は存在しえない。モーロが十字架を背負う姿はキリストを想起させるものの、そのイメージ自体ローマ教皇の妄想であって、2話から5話を通して複数の人物たちが思い描くモーロ像のひとつにしか過ぎず、じっさいのモーロがキリスト的な英雄として想定されているのかは疑わしい。ユダヤ教とキリスト教、家族とより大きな共同体との狭間で自らを見失うエドガルド・モルターラもそうであったように、他人が抱く異なるイメージを受け入れるだけの包容力をモーロも持ち合わせておらず、むしろそれらのイメージによって彼らはボロボロに引き裂かれていってしまう。民衆を意識するモーロにとって、彼らの声や視線も自らを揺さぶるひとつの要因となるのである。

©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.

 だからこそ、このエピソードの序盤における、狭い部屋に囚われたモーロの告解は胸を打つ。様々な勢力の思惑に散々利用されてきた末に、他人がみだりに共感する余地のない彼の個人的な怒りと恐怖が吐露されるのである。息を切らしながら紡がれる恨み節は、1話の淀みないスピーチのように周囲を丸め込むのではなく、これまで周囲から重ねられてきたイメージを撥ねつけるかのようだ。「何もかもグロテスクで間違っている」。モーロの怒りの矛先は特定の政治勢力だけに留まらず、全方位に向けらており、そのモーロを見て「お元気そうです」「普通ですよ」と微笑む神父にはとても受け止められそうもない。むしろ彼が晒された徹底的な無理解を際立てるだけだろう。それゆえにモーロの死体が衆人環視のなかで発見される場面も、多くの民衆に愛されていたなどというようにはもちろん見えてこない。それまで一方的に市民の声を盗み聞きし、姿を現すことのなかったコッシーガに彼らの感情は向けられるばかりだ。
 はたしてここまでのモーロを連れ戻そうとする諸々試みがひとつたりとも歴史的に正当化されないまま、映画は終わる。

←戻る