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2005年10月 9日

ここまでに7、8本の映画を見ただろうか。それらの映画の多くを見ていると既視感が襲う。手法やカメラの向ける対象がすでに他の映画で見たような気になる。決してつまらないわけではない。だが、情報を交換しようと知り合いに見ていない映画の感想を求めると、「いたってオーソドックスな手法で……」であるとか、「○○みたいな映画だった」といった言葉が返ってくる。また自分もそんなことを言っているような気がする。何か物足りない気はするが、しかしそれは同時にひとつひとつの作品の水準が上がっていることも意味しているのではないかとも思う。
そんななかコンペ部門『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー)は他の映画とは毛色の違う映画であった。ひと言で言ってしまえば、まるで探偵映画のようなのである。湖の上を低空で飛行機が飛んでいる。大きな唸りを上げて一日に何度も上空を飛ぶ飛行機。それはナイルパーチを外国へと輸送する。アフリカ第一の湖タンザニア湖では50年前にはいなかったはずの魚ナイルパーチが在来魚200種の魚を食いつくし大繁殖している。そしてその魚はヨーロッパや日本などに輸出され、現地で大きな産業となっているらしい。漁師、加工業、そして加工の段階でごみとして出る魚の骨や身などが現地の人向けの食料としてまた新たな産業となっており、現地の80%の人間がナイルパーチに関わる職業についているという。この地域から魚を運び出す飛行機だが、その飛行機はこの地域に来るときにはいったい何を運んできているのか。監督はそこに武器密売の気配を感じひとり調査を始める。その姿はフィリップ・マーロウのような探偵の姿を思い起こさせる。監督の周りに集まってくる人々もあたかも探偵小説の登場人物のようだ。ナイルパーチで一大財産を築いた社長。現地の様々な情報に精通している絵描きの男。彼は監督に情報を提供する。兵舎の警備をしていて戦争が再び行われることを期待している男。この男は監督を毒矢で挑発する。「この矢が当たればおまえなんてすぐに死んでしまう」と。ロシア人パイロット相手に身体を売る女たち。そのなかでもとびきり美人のエリザはあたかもファム・ファタールのような印象さえ受ける。甘い声でタンザニアの歌を歌う。監督は彼らに対していったい飛行機は何を運んでいるのか問いかける。その質問に対して狂ったように笑い出す者も沈黙する者もいるが彼らの答えは一様に同じである。飛行機の中は「空っぽだ」と。しかし監督だけがその背後に何かがあることを確信しているのだ。この映画の舞台となっている場所にはある産業の光と影がある。魚をそのまま映画に、ハリウッドをそのままタンザニアに変えればかつての探偵小説そのままの世界だ。監督は必ずしもフィリップ・マーロウではなかったようだったが、この映画はこの日まで見た映画の中で一番の発見であった。
リティ・パニュの新作『アンコールの人々』はやはり記憶を扱った映画であった。彼の前作『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を見た人はあまり納得していないような感想が聞かれたが、一番安心して見られる映画ではあった。登場人物は観光客相手に物を売り、母親を探しにアンコール・ワットに来ている『誰も知らない』の柳楽君を思わせる風貌の少年と、アンコール・ワットの修復に携わる男たち。彼らはアンコール・ワットの石に刻まれた壁画から、少年の持つ写真から、そしてこれまでのカンボジアの国旗が書かれた写真から物語を話し始める。またイタコや古僧などが現れ、それを装置に物語が発動していく。そこからアンコール・ワットの作られた当時からのカンボジアの歴史そのものが姿を現してくる。見ていて流石という印象は受けたが、リティ・パニュの映画に特有の、人々があらかじめ決められたせりふを話しているかのような棒読みのしゃべり方や、演出の介在を強く感じさせる部分が前作に比べるとあまりうまい方向に向かっていないのは否定できない事実ではあった。(渡辺)

投稿者 nobodymag : 2005年10月 9日 11:06