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2005年10月11日

『アンコールの人々』(リティ・パニュ)。監督がなぜわざわざ、誰もが感情移入できるような貧しい美形の物売りの少年や、遺跡で働く老いた労働者たちに語ることを強いるのかといえば、それはひとつの絵解きを行っているからにほかならない。前作『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』でも非常に重要な小道具として存在していた写真は、今回もまた大きな役割を課されている。母を失った少年は、見知らぬ女性が写った写真の中に母の姿を見出すのだ。だが今回、写真以上に作品全体に影響を与えているのは、遺跡の壁に刻まれた彫像たちである。その遺跡があるために集まってくる観光客にみやげものを売ることで少年は生計をたて、労働者たちはその遺跡を修復する作業によって日々の糊口をしのいでいる。彼らはそれなしでは生活することができない。そして思い思いにそこから物語を汲み取っていく。片膝をつき額に手を当てた男の絵は、病に苦しむ姿なのだとも、妻を殺そうとした罪の意識にさいなまれている姿なのだとも語られる。「いくつもの異なるヴァージョンがあるからな」と、彼らは異なった解釈をもさらりと容認するだろう。
前作『クメール・ルージュ』で人々が見つめていたのが、虐殺の犠牲者たちという非常に限定された対象だったとすれば、この映画に出てくるのはもっとあいまいな図像である。アンコール・ワットが写っている以外に、どのようなコンセプトで撮られたかわからない写真、巨大すぎてそのひとつひとつの細部がどんな物語を語っているかはもはやわからない壁画、国旗の変遷の中で変化する塔の数。ここで監督が目にしているのは、カンボジアという視界に入りきらぬまでに大きなひとつの絵なのである。このようなやり方がいくつもの亜流、異なるヴァージョンを持たなければ完成しないのだとしても、「正しい歴史」には決してならないやり方で、彼は絵解きを試みる。
先日の日記で渡辺が「衣食住」が大事だと書いていたが、彼がまったく山形らしい食い物を食っていないようなので、市役所の裏にあるそばやへ連れて行く。その後上映時間の合間を縫って『ルート181』の一部分を見る。またしても「住」の問題だ。48年の分割線上に沿って移動し、ときにそこで出会った人々を詰問し、ときに彼らに共感するカメラが、言葉を放つこともできずなすすべもなく人の波にもまれてしまうシーンがある。デモ隊と軍隊の衝突の場面だ。プラカードや横断幕を持ち、Tシャツにジーンズといった各人がめいめいの格好をしたデモ隊の人々は、「戦争はいらない、兵器もいらない、制服もいらない」と大声で叫ぶ。警察や軍隊との衝突はなしで、と前もって語っていた彼らはいつの間にか軍隊と向き合い、突破しようと試み、交じり合う。そんなとき彼らと軍隊との間に明確な分割線があるのだろうか。走り抜けようとする女性を引きずり倒す制服の人間たちを好きになれようはずもないが、私には思い思いのTシャツとパンツもまた別種の制服なのではないのかという気がしてならなかった。
昨日上映された『白塔』(スー・チン、ミー・ナー)。スケジュールの関係で明日の上映を見ることができないためビデオにて視聴。全世界の聾者の実に1/5を抱える中国における、彼らの恋愛と結婚をめぐるドキュメンタリーだ。『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー)が探偵映画だとすれば、こちらは疑いもない恋愛映画に仕上がっている。何がそんなにいいのかというと、ひとえに手話がこれほどまでに恋愛を描くのに適したものだということをこの映画は教えてくれることだ。彼らはコミュニケーションをとるために必ず向き合わなければならない。対話におけるイマジナリーラインを現実に結ぶことによって意思が伝達される。自分の話を聞いてもらうために相手の体に触れたりする、そんな親密な距離感もひとつのフレームに収まっている。聾者と健常者の間の溝、中国と台湾との経済格差、田舎における老いた親との関係、そんな問題をはらみつつも、この映画はあくまでひとりの男とひとりの女を捉え続ける。
この映画のラスト近く、それまでこの映画が保持していた直線的な視覚のコミュニケーションが一瞬にして奪われるシーンがある。街頭で女が歌っている。その歌の歌詞は互いにこれまで恋愛相手を見つけることができなかった男女の出会いの物語である。そんなまさに主人公の男の物語そのものな話を、彼はその場にいつつ耳にすることはない。カメラはふらふらと不連続な映像をつなぐ。
そして音のない世界を描いてきたこの映画は、最後に音だけになって終わる。周りは敵ばかりの世界と、音という失われた手段でコミュニケーションをとろうとする男の姿は、不器用だが勇敢で感動的だった。(結城)

投稿者 nobodymag : 2005年10月11日 18:01