October2002
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□30日(水)『The NEWBORN』刃頭
■29日(火)みかんぐみ『団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ』
□29日(火)『はじまり』羅針盤
■28日(月)「BRUTUS」11月1日号『団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ』
□27日(金)『コードネイム・サッシャ』ティエリー・ジュス
■23日(水)『アカルイミライ』黒沢清
□18日(金)10/16、日本VSジャマイカ
■18日(金)カーサ ブルータス11月号
□16日(水)『コードネイム・サッシャ』ティエリー・ジュス
■16日(水)ナンバー・ガール@天神警固公園(9月29日)
□15日(火)F1日本グランプリ
■13日(日)本屋さんに行く
□13日(日)『Sea Change』BECK
■13日(日)『チョムスキー 9.11』ジャン・ユンカーマン
□12日(土)『BACK TO THE FURNITURE』佐藤公昭
■9日(水)『サイン』M・ナイト・シャマラン
□9日(水)『グレースと公爵』エリック・ロメール
■7日(月)『ザ・ロイヤル・テネンバウムス』ウェス・アンダーソン
□2日(水)『サイン』M・ナイト・シャマラン
■2日(水)セバスチャン・サルガド写真展「EXODUS」

 

 
 

 

■30日(水)
『The NEWBORN』刃頭

 「ごらん1歩も引けない道楽が刃頭のトラックの上を前へ前へともがく」(「野良犬」)
 今から5年ほど前、刃頭が所属していたILLMARIACHIが『THA MASTA BLUSTA』で名古屋弁ラップを東京のシーンに叩き付け衝撃を与えていた頃、YOU THE ROCKは近田春夫の「HOO!EI!HO!」をカヴァーし「日本でヒップホップをやっても語ることがないんだよ」みたいに嘆いていた。語ることがないのに言葉を畳み掛けてゆかなくてはならない日本のヒップホップ(のMC)は、要するに「道楽」なのだ。だから「道楽」が「道楽」でしかない悲しみをかき消すように、日本のヒップホップはトラックに磨きをかけてきたし、そんなわけで日本のヒップホップのトラック・メーカーは充実しているし、刃頭もそんなトラック・メーカーのひとりなのだ。
 だが「道楽」であることをかき消すどころか、刃頭の新作『The NEWBORN』は日本でヒップホップすることが「道楽」であることを忘れないための1枚になっている。「自分が好きでいっしょにやりたいと思ったひとたちに片っ端から声をかけて」作ったというアルバムは最高に「道楽」の音楽で、曰く、名古屋人は何にでも味噌をかけちゃうそうですが、刃頭のトラック味噌もどんなMCにでもぶっかけられちゃうのだ。それも、盲滅法に味を誤摩化しているのではなく、十分にわくわくする味覚の探究になっている。「道楽」であることを忘れて「なんちゃってヒップホップ」(「サイゾー」11月号)を続ける今の日本のシーンとは当然一線を画すし、「道楽」が自己目的化したようなYOU THE ROCK(「めちゃくちゃみんなで歌って踊って騒ごう騒ごう」な「Monster Rock」!)とかとも確実に違う。『The NEWBORN』では「道楽」は単に「1歩も引けない」だけのものなのだ。確かに近年SHINGO 02とかTHA BLUE HERBとか見事に「道楽」を打ち破った日本語ヒップホップも出てきているが、彼らのシリアスな作品ではちょっとないような、ある種「道楽」のみが産み落とすことのできる豊かなファンキネスといったものがここにはあるのだ。

(新垣一平)
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■29日(火)
みかんぐみ『団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ』

『団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ』は最も悪質な形で、リノベーションという意志を侮蔑し、重量を奪い取り、それらを非現実の次元へと押し込んでいってしまう。スーパーフラットとはよくも言ったものだ。包囲下のサラエボをジャーナルし、マシンガンで撃たれないために140qの速度で車を運転し、市で唯一残ったパン屋が圧倒的な資材不足や爆撃のなかで百万個のパンを焼き、滑走路の地下に掘られた長大なトンネルには「パリまで3750q」と書かれる、そんな事実をあえてコミカルなイラストで紹介した『サラエボサヴィバルマップ』とは完全に異質なカタログなのだ。もちろんバックミンスター・フラーから派生した『ホールアースカタログ』とも違う。リノベーションとはおそらくはレボルーションに相違ないと私は確信していて、物事や出来事にあらかじめ仕組まれたヒエラルキーからの自由運動を求める、はかなくとも力強い個人の意志において全てが実行される以外はありえず、「みかんぐみ」も実はその一個人の小さな小さな集まりにすぎないはずなのに、なぜ個人の尊い意志や自我の投影ともいえるべきアイデアを、網羅的にフラットに「仕組み」として示そうとするのか、そこで全ては死ぬ。あらゆる色は失われる。
ただただ運動すること。本当に団地を再生したいのであれば、そうすればよい。カタログとは非行動の宣言と同様である。

(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所))
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■29日(火)
『はじまり』羅針盤

 羅針盤の4thアルバムということで、レコード店にて迷わず手に取る。帰宅してさて早速聴いてみようかと、ふと裏ジャケに目をやると、なんとクラゲが浮いているではないか。しかも赤く光ってるし。そういう私は『アカルイミライ』を見たばかりだったわけで、ついびびってしまったのだった。ただしこちらはカタカナでなくひらがなにて『はじまり』なるタイトル。「うーむ、『アカルイミライ』の主題歌が羅針盤だったらどうなっただろうか……」などと余計なことを考えながら、プレイボタンを押す。……いやー、それはやっぱさすがにやばいか。
 別に羅針盤のこれらの歌が主題歌なんかにするにはキテレツすぎるってわけではない。むしろアルバムを重ねるごとにだんだんと「シンプルなもの」の方へその歌は向かっているような気すらする。微妙な変調とかは相変わらず多いしサイケな香りもするにはするのだけれど、なんと言えばいいのか、音の起伏が不安定なまま緩やかに流れ得ているというか。悪く言えばメリハリがないっていうことになるのかもしれないが、音に限らずメロディはたまた歌そのものが先へ先へと引き延ばされているような感覚に襲われる(先を急いでいるのではなくね)。こういう観点で見ると先日出た山本のソロ『Crown of Fuzzy』にも何かしら共通するところがあるのではないか。山本精一が実際に音楽するのを初めて目の前で見たのは、ROVOのライブのときだったが、突っ立ってひたすらぎゅいぎゅいギターを鳴らしていた彼が、ライブの後半いきなり真顔でぐいと片手を上に掲げたときに変に興奮してしまったのを覚えている。それは明らかに我々オーディエンスを煽ろうとしてのものではなくて、やっぱライブだからこれぐらいしなきゃ的なものでもなさそうで、ちょっと挙げてみましたとでもいうような動作だった。その何気ない動作は、無意識的な部分を纏いながらも、その奥底には何ともつかぬ確固たる意志のようなものを感じさせた。そういう動作を実は確信犯と呼ぶのだろうが、このゲンジツという世界にはそれすら言わせてくれないようなものがあるのだ。羅針盤における「うた」というのもまたそれなのかもしれぬ。

(黒岩幹子)
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■28日(月)
「BRUTUS」11月1日号『団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ』

 集合住宅特集。「21世紀、日本の集合住宅はどうなる!?」という特集では、11組の若手建築家の集合住宅をとりあげるのだが、その中で唯一、みかんぐみは具体的な建築ではない。1970年代までに全国各地に建てられた団地をいかに再生するかというアイデアがイラストと共に掲載される。
「ブルータス」では8つの例が載っているが、『団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ』には77の「アイテム」が提出されている。それぞれの「アイテム」の下には「インデックス」(対象となる団地の形態)「オペレーション」(施す具体的な作業方法)「ジャンル」(再生内容のタイプ)のそれぞれを分類する「アイコン」が表示されている。総数24の「アイコン」によって表現されるそれぞれの「アイテム」は互いに組み合わされる可能性もあり、また未だ見ぬ「アイテム」とぶつかる可能性もあり、この本に収録されている椹木野衣の言を待つまでもなく「サンプリング」「リミックス」という言葉がすぐに思いつく。そしてイントロダクションで語られるように、「行く予定もないのに旅行ガイドを眺めていたり、つくる予定もないのに料理の本を眺めていたりする」感覚で、つくる予定もない団地をつくった気になるのがこの本のひとつの楽しみ方なのである。この本は住み手とつくり手を何の困難もなく滑らかに繋いでくれる。みかんぐみは親切だ。
 今回の「ブルータス」の「約束集合住宅」も基本的に『団地再生計画…』と似通っていると思う。果たして「こんな企画があるから集合住宅つくってもらっちゃおう」と思う一読者がどれだけいるのかはわからないが、すくなくとも雑誌の上では安藤忠雄やジャン・ヌーヴェルにあれこれ注文をつけることは出来のである。
 住み手=つくり手となった私は、どこにでもある場所といくつかの「アイテム」で理想に近い空間を思い描く。それはそれで楽しいのだろうが、住宅建築をわざわざひとに依頼することの魅力は、住み手≠つくり手となる「≠」の部分にこそあるのではないだろうか。例をあげれば隣のページの<市川アパートメント>。どうやって住めばいいのと言いたくなるような空間となんとか折り合いをつけたり、住んでる間に自然となんとかなってしまう。そんな時に「住み手≠つくり手」であった私が同時に「住み手=つくり手」でもあるようになってしまうんじゃないか。
 余談だが、数ある「アイテム」のなかに「シイタケウォール」というのがある。要するに「団地の日陰で椎茸栽培すりゃいい」っていう話で、これを現在自分の住んでる家で実行し、椎茸にアタるとかナメクジがいっぱいでて困るとか、そういう間違った「アイテム」の使い方を推賞する。

(結城秀勇)
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■27日(日)
『コードネイム・サッシャ』ティエリー・ジュス

 「あっ、ケネス・アンガーじゃん」なんて、冒頭のシーンを見て思い出してしまった人はきっと凄く不幸なんだろうな。アダルトクラブか娼婦だかの女の子のストリップ、身体を包むボンテージ・ファッションの黒い革たちを滑る赤い光線、徐々に見えてくる肌のペラペラな表面を滑る赤い光線、イカついバイクに跨がって『スコルピオ・ライジング』、さあお決まりの(「ディディンッ!」)、最後に見なきゃいけないのはもちろん彼女の性器(「ディディンッ!!」)、なんだよね。
 「ムッシュー・カトリーヌ、あなたの欲望はどこにあるの。ムッシュー・カトリーヌ、私の性器が好きかしら。ムッシュー・カトリーヌ、精神分析なんてもうやめましょ。ムッシュー・カトリーヌ、私の映像はとっくに壊れてるのよ、あなたの視線もとっくに壊れてるのよ。ムッシュー・カトリーヌ、そんなこと分かってたじゃない、『スコルピオ・ライジング』でお終いにしましょ」
 もちろんこんな歌誰も歌ってなかったけど、もうやめよう、神話なんてとっくに崩れてるんだし。視線の精神分析(これだって神話)も視線の神話も、たまには忘れてみてもいいんじゃないかな。頼りがいなくユラユラ揺らしておけばいい。バルトに任せておけばいい。
 だからムッシュー・カトリーヌは、自分の作った音楽というちょっとした規則の中でもう一度演じ直してみる。ムッシュー・カトリーヌの偽物は規則をちょっとずつ変えながらその都度演じ続ける、偽物になり続ける。サシャだっておんなじだ。頼るべき神話も物語も喪くした2人は、自分達の偽物とそのまた偽物との間でずっとずっと何かが生まれる瞬間を生き続ける。夢を夢として認識する力があるように、偽物を偽物として生きる力がある。偽物ムッシュー・カトリーヌの音楽から偽物サシャが作られて、それがきっと「対話」と呼ばれるようなもので、時には「ミラクル」って呼ばれるもの。「私にも昔好きだった女の子がいたの、振り向いてくれなかったわ、彼女ナント出身で…」、ムッシュー・カトリーヌの歌詞を音楽を聴きながらサシャが紡いだ偽の物語で、でもそれで初めてムッシュー・カトリーヌには初めて「対話」すべきムッシュー・カトリーヌっていう偽物が生まれるわけで…。
「commen je me suis deispute…(mon amour, sacha)」、だからこのフィルムを見て『そして僕は恋をする』を思い出してしまった人は、ちょっと小躍りするくらいにちょっとだけ幸福なんだろうな。

(松井宏)
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■23日(水)
『アカルイミライ』黒沢清

 映画とは決定的に都市のものだ。フリッツ・ラング『M』のベルリン、小津安二郎『東京の合唱』の東京、『大人は判ってくれない』や『勝手にしやがれ』などのパリ、スコセッシ『ミーン・ストリート』のニューヨーク……。都市のランドスケープと都市に蠢く人々がそこにあって、不定形に運動する都市の姿がフィルムに定着される。そのフィルムが撮られた同時代、人はそこにある都市に違和を感じたかも知れない。だが、歴史は、事後的に、それらのフィルムの示した都市が、歴史の遺物ではなく、今、私たちが住んでいる場そのものをあることを証明してしまう。
 そして今、黒沢清が『ニンゲン合格』、『回路』に次いで『アカルイミライ』で東京を、現在の東京の人と音響とランドスケープを映画としてつなぎとめている。前2作と『アカルイミライ』を隔てているもの、それは、前2作が、東京よりもときには「映画」が深く影を宿していた──『ニンゲン合格』には西部劇があり、『回路』にはホラー映画の残滓があった──のに対して、『アカルイミライ』は、他の何よりも東京を写し込んでいることだ。私は、このフィルムに「在る」東京に愕然とし、動揺した。東京を撮るのに別のやり方はない。そう感じられるほど『アカルイミライ』の東京は決定的であり、浅野忠信もオダギリジョーも藤竜也もその東京をただ生きている。現在の都市での行動に何らかの「動機付け」をすることなどできない。私たちは、理由も知らずに単に行動の強度に晒されるだけだ。「動機付け」も「理由」も「原因」も宙吊りにされたまま、この映画の出現する無数の強烈な毒を持つクラゲのように私たちは都市の中を彷徨するだけだ。「クラゲのように」と私は書いたが、この映画でクラゲは隠喩ではない。黒沢清のフィルムほど隠喩から遠いものはない。クラゲはクラゲだ、そして、同時に、私たちもクラゲだし、都市(東京)もクラゲだ。クラゲはかくも繁殖し、神田川にも出現する。ボヴァリー夫人は私だ、と発言したギュスターヴ・フローベールのように、私はクラゲなのだと言える。そして私はまた浅野忠信であり、オダギリジョーでもあり、藤竜也でもある。都市を異化することに腐心したこのフィルムを前に、何の理由もなく──否、私の眼差しと私の聴覚に誠実になればなるほど──、私はこのフィルムの都市(東京)に同化する。
 このフィルムの試写が行われた銀座ガスホールに向かう途中、銀座の真ん中の大きな空き地に出くわした。ここにはかつてモダン建築の粋を集めた銀座交旬社ビルがあった。このビルが保存か建て替えかに揺れたのはわずか数ヶ月前のことだ。告知板には設計施工・清水建設とあった。金属の大きな塀に囲まれた空き地の中には水たまりができていた。そこにもクラゲたちが出現しているにちがいあるまい。『アカルイミライ』は2002年の東京であると同時に都市の持つアモルフな運動そのものでもある。

(梅本洋一)
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■18日(金)
10/16、日本VSジャマイカ

「黄金のカルテット」と呼ばれる4人のボックスがこの日最大の注目とされていた。ボール支配率を高めることが主眼としてあるわけだが、実際のゲームでは(親善試合らしい大味なゲームだったということもあるが)その高支配率が全く有効に活かされていなかった。
 さて、ジーコ・ジャパンうりの「黄金のカルテット」が、嘗てのブラジル代表のそれになれるはずがない。今日の試合での攻撃と言えるべき攻撃はほとんどカウンター・アタックによってだ。ジャマイカ相手に中盤を支配できでも、敵ゴールへと迫る危険なシーンは予想通り少ない。これはジーコが高原ではなく中村を選択した時点で決まっていた。4人の中で最も自由に動く権利を与えられた中村は、高原のスペースを見事に奪った。高原がジュビロで見せている高いパフォーマンスは、西野朗も言うように、自らボールをゴールへと運んでいける点にある。中山、藤田らと左右上下(特に藤田との縦の関係)チェンジしながら、ポストとポイントだけではない日本で希有なフォワードへとなりつつある高原。
 前半7分敵陣のハーフライン近くで小野、中田、高原が敵ボールを囲む、当然仕上げは稲本の左足だ、そしてそれを受けた中田を追い越しながら横パスを敵前で<さらってゆく>高原、ここでほぼジャマイカ・ディフェンスは崩壊した。あとはセオリー通り。鈴木が左へ流れる、ディフェンスもつられて流れる、大きく開いた右スペースには中盤から小野が走り込んでいる(ただ残念なことに、高原はアウトサイド・キックではなくインサイド・キックでラストパスを出してしまった。パスを出す時点での高原の開き過ぎた身体に一瞬不安を覚えたのは私だけではないはずだ)。これが本日唯一の得点、これ以外高原はほとんど消えていた。それもそのはずで、中盤の選手と混じり合いながらリズムを作る高原のスペースを中村が中途半端な動きで埋めてしまったからだ。結果高原はディフェンダーからの不正確なロングフィードを前線で待つか、ボール欲しさに過度に下がり過ぎるか、つまり単なる悪循環。
 ちなみに中村の中途半端な動きは中盤とディフェンスとの間でも度々くり返された。稲本、小野程の構成力を持たない中村は、守りのリズムと攻めへのつながりを悪くした。
 もちろん中途半端な地域での効果的な動きと、中途半端な動きとは決定的に異なる。ただ中途半端な地域(敵陣ペナルティライン2、3メートル外あたり)では、例えばユヴェントスのデルピエロのように、フォワード(高原)こそが効果的な仕事を可能とする。この地域でキープ力のあるフォワードが前を向いた時、攻めは一気に厚みを増す。安易なポストプレー(柳沢)はもはや得点へと結びつかない。もし中村がこのチームで生き残るとすれば、グランパス時代のストイコヴィッチのようにフォワード登録するしかないだろうが、残念ながら彼はピクシーではない。だったら高原を選択するべきだ。
 そうすればボール支配率の高さよりも、得点の多さと特権的な瞬間を今よりは期待できる。対ジャマイカ戦唯一の得点のように。確かに速効による得点が増すだろうが、世界最高峰の技術を持った選手たちがカウンター中心のサッカーをすれば世界最強だってことは2002ワールドカップで証明されたわけで・・・、でも日本代表は2002年ブラジル・チームにはなれないし、第一私個人としてはあのブラジル・チームに否定的なわけで・・・。
 結局ジーコにとって理想のフォワードとは柳沢であり、「選手たちに自由にやらせる」と言いつつも安全牌としてはアントラーズの規則を考えているようだ。しかしそこに伸びしろはない。
 ジーコが選択すべきなのは、もちろん柳沢でも中村でもなく、高原である。

(松井宏)
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■18日(金)
カーサ ブルータス11月号

 カーサ ブルータス11月号の特集のひとつは、恒例となった感のある4度目の「建築とファッション」特集である。バルセロナ・パビリオンとファッションだとかガウディとファッションだとかそんなことどうでもいいじゃないかと思うのだけれど、その中で僅かなページではあるが表参道ネタについて触れられている箇所がある。
 青木淳のルイ・ヴィトン、SANAAのディオール、安藤忠雄の同潤会青山アパート、黒川紀章の日本看護協会本部、隈研吾のLVMHファッショングループ表参道プロジェクト、ヘルツォーク&ド・ムーロンのプラダ、加えてトッズビルと、大量の建築プロジェクトが表参道では進行中である。
 カーサ ブルータス11月号52〜53ページには、上記したうちで唯一完成しているルイ・ヴィトン表参道ビルの写真が載っている。ケヤキ並木の上に頭を突き出して光るビルの写真である。しかし昼間のルイ・ヴィトン表参道ビルの表情は、道路を挟んだ向こう側からではケヤキに阻まれその姿が隠れて見えず、かといって真下から見上げればファサードにはまたもやケヤキが映りこみ自慢のモアレも確認できない。ブランドのイメージが写りこむファサードには、同時に木々が映りこんでもいるのである。都内有数のファッションエリアである表参道における、はたから見ればとても幸せそうな建築とファッションの結婚は、それでいてじつはケヤキ越しにちらちらとお互いのいいところだけを見合うような関係ではないだろうか。
 道と建物の間には木があって、建築とファッションの間にも木がある。それはなにもルイ・ヴィトンに限った話ではなくて、明治通りから青山通りに出るまでの間、表参道の風景を支配するのはケヤキなのである。例外としてもうひとつの風景をつくっていた同潤会アパートも建て替えされる。安藤忠雄ははたして道との間に木々をはさまないような「表参道の」建築をつくるだろうか。SANAAのディオール ビルディングも、近くのキャットストリートにあるhhstyleと同じふうに道に面することはきっとないだろう。
 表参道は「ストリート」ではなく、あくまで「ミチ」だ。

(結城秀勇)
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■16日(水)
『コードネイム・サッシャ』ティエリー・ジュス

『コードネイム・サッシャ』は本当に愛らしい小佳作だ。このフィルムにはフィリップ・カトリーヌ──主演──やアンナ・カリーナが実名で登場するし、ふたりはふたりの過去をそのまま背負ってフィルムに出演している。別の何かになるのではなく、彼らは彼らのままでそこにいる。フィリップ・カトリーヌは、あの色気たっぷりの声でストリップ・ダンサーをナンパするし、女が住むアパートの下の道でアンナ・カリーナに偶然会い、「僕のピアニストと約束があるんだけど、いないんだ」と見え見えの嘘をつき、アンナと路上で"Qu'est-ce je peux faire?"のナンバーを唄ってしまう。ありそうなことだ。否、そんなことは現実には起こらないとも言える。カトリーヌがギター一本と甘い声で彼の私生活で女の子をナンパすることなんてないかもしれない。このフィルムは決してドキュメンタリーではない。否、正確に言えば、カトリーヌやアンナについてのドキュメンタリーでもあるけれども、おそらく精緻に書き込まれたシナリオがあるだろうし、ふたりは「カトリーヌ」と「アンナ」を演じているにすぎない。目の前のライヴで唄うシンガーが、私生活の彼や彼女ではなく別の存在であるように。その意味で、このフィルムのタイトルは示唆的だ。ストリップ・ダンサーは「サッシャ」と呼ばれている。でも、それは「芸名」(コードネイム)で本当の名前は「マリー」なのだ。「私自身」なんていない。誰でも、いろいろな「コードネイム」を持っていて、人は複数持っている「コードネイム」の「間」を生きているだけだ。だから、このフィルムの監督の、ティエリー・ジュス本人が、「サッシャ」に、人前で裸になる決意をしたときについて、インタヴューをするシーンはとても大切なものになる。「私自身を危険に晒したいの」という台詞は、インプロヴィゼイションではない。ティエリー・ジュスが精緻に書き込んだこのフィルムの台詞であるはずだ。そして、このフィルムの通奏低音にもなっているカトリーヌとマルゴ・アバスカルがデュエットする「カトリーヌさん、英語をお話しになる?」という歌もまたこのフィルムのモーターになっている。「あなたってロマンティック、カトリーヌさん?/あなたって、英語をお話しになる?/マリファナを吸う?/……/どうだっていいじゃない、僕らはもう会わないんだから/……」ふたりの声が少しずつ重なるようになり、ふたりは唇を合わせることになる。
 だから、このフィルムの構成は、ティエリー・ジュスの前作『ノエルの一日』とまったく同じだ。ミュージシャンについてのドキュメンタリーであるがゆえに精緻なフィクションであるという構成は同じだ。ではこの2本の相違は? それはノエル・アクショテとフィリップ・カトリーヌの相違だ。大きく音楽へ開放されていく『ノエルの一日』も好きだが、僕は、『コードネイム・サッシャ』のサントラを「愛聴版」にしていて、この文章もそれを聞きながら書いている。

(梅本洋一)
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■16日(水)
ナンバー・ガール@天神警固公園(9月29日)

 この日は「Music City Tenjin」というイベントの一部として行われたフリー・ライブであり、同時に解散告知以来初めてのライブでもある。前日、Jude、thee michelle gun elephant、Joe Strummerという濃すぎる面子のライブをこなし、挙句朝まで飲んでいた私がフラフラと会場につくと、普段ならカップルや家族連れがちらほらいるだけのさして大きくない公園は、タオルを巻いた若人で埋め尽くされていた。
 最新アルバム「NUM HEAVYMETALLIC」の曲を中心に、過去の人気曲が挟まれていく。アルバム発売に合わせた、極当たり前のライブ構成。いつも通り向井秀徳は酒をあおり、不可解なMCで笑いを取る。田渕ひさ子も又、いつものようにジャズ・マスターをかきむしり、客をあおる。
 恐らくナンバー・ガールのようなバンドは、好き嫌いが激しい分、一旦好きになると熱烈に追いかけてしまうのではないだろうか。加えて福岡は彼らのお膝元だ。正直、もっと感傷的なライブになるのを覚悟していた。ところが会場全体の空気は、まるで解散など風聞に過ぎんと言わんがばかり、普通に熱くなっている。「解散」の事実を避けているわけでもない。感傷も無いが、嘘寒さも無い。
 売れ線からは程遠かったが(椎名林檎や浜崎あゆみ程ではないにしろ)それなりのセールスを残した。と言うよりも「売れ線」という言葉が効力を無くしていく流れの中に彼らもいた。聴取不能な向井の歌が街のそこここに流れ、ライブのチケットはプレミア化していた。90年代の後半に大きく細分化した日本のシーンの中でも特異な存在だったこのバンドは、来月30日の札幌公演でその活動を終了する。

(中川正幸)
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■15日(火)
F1日本グランプリ

 レースの内容としては、近頃というか今年の多くのレースとさしたる違いのない、順当な、言い換えれば面白みのないレース運びだった日本GP。しかし、ひとりのドライバーの活躍によって、その事実は多くの人にとって忘れ去られることになるだろう。もちろんそのドライバーとは佐藤琢磨のこと。99年以来の日本人ドライバー参戦ということで、しかも彼の場合いわゆる「海外での実績」というやつがあったためか(前年英国F3で勝ちまくってチャンピオンになった)、ジョーダン入りが決まった当初はかなりの期待も込めて騒がれていたが、蓋を空けてみると御存じの通りこの1年決してその期待にかなったレースはできていなかった。もちろんジョーダンのマシン、ホンダエンジンの問題も大きかったわけだが、それでもチームメイトのフィジケラとの結果には差がありすぎたし、実際「ルーキーらしい」ミスも繰り返してしまっていた。また、彼の場合、例えば参戦2年目のマクラーレン、ライコネンのようにその「才能」を取りざたされるよりも、「努力」の人というイメージが優先していたのも事実で、それ故にそういったミスは余計にマイナスのイメージとなったに違い無い。
 しかし、今回のレースでは彼の「才能」が証明されたことになるだろう。ではここで私が言う「才能」とは何か。ここでやるしかないという時に自分のベストを尽くせるか、そして同時に運を引き寄せられるか、単純なことだが結局人はそれを「才能」と呼んできたのだ。佐藤はそういう意味での「才能」でこのレースを自分のものにした(って5位なんだけど)。例えば土曜の予選で7番手に入ったことが大きかったわけだが、それは通常1時間のセッションが中盤に突如1時間以上中断された、あるいはその後のアタックがシューマッハーのすぐ後だったという外的要因、つまり運によるところもでかい(今まで彼が予選結果を伸ばせなかったのは、たぶん1時間という時間の中での戦略が、決してうまくいっていなかったからというのもあるだろう)。昨日のレースにしてもマシンとしては、後に続くルノーのほうが明らかに良かったわけだし(解説では「コーナーでのマシンバランスが」と言われていたが、どう見てもストレートでもやや劣っていた)、実際佐藤の走りにゾクゾクさせられる瞬間もなく、親が子供の運動会を見るような気分だった人、つまりゾクゾクというよりもヒヤヒヤしてそれを見ていた人が多かったに違い無い。何だかなあという感じではあるが、現在のF1においては見る側も、そしてマシンに乗る側もその状態に耐えうるかどうか、ということが何よりも重要になってしまったのかもしれない。佐藤はたぶんそのことを十分理解しているし、そして昨日の彼のレースはそれを体現してみせたのだ、しかもどういうわけか「感動的」に。1度目のピットストップで佐藤の前に出たルノーのバトンが2度目のピットストップに入る直前に自身のファステストラップを出して前に出る、あるいは他のホンダ勢は全てエンジン・トラブルでリタイアしたのだから、佐藤のマシンもいつ止まってもおかしくない中で完走すること、地味ではあるがそういった走りをやってのけること、それはやはり才能以外の何ものでもない。
 今年のフェラーリの常勝を受けて、先日FIA会長エクレストンがウエイトハンディ制などの案を各チームに提示したそうだが、チームの開発力、そしてそれ以上の財力が物を言う現在のF1において、ドライバーの才能や真価が二の次となるのはそういうスポーツなのだからどうしようもないのだろう。しかし、だからこそ佐藤の才能はF1においても生かされるものであるかもしれない(来季は走れるだろうか)。まるで優勝したかのように騒ぐテレビやチームを見て、「何もそこまで…」と思いつつも、「日本人ドライバー」だからという理由ではなく、ひとりのF1ドライバーとして彼を見続ける価値はある、そう思ってしまった。

(黒岩幹子)
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■13日(日)
本屋さんに行く

 本屋さんに行く。ファッションコーナーでも美術コーナーでもいいけど、あなたは赤地に緑色のクロコダイルが口を開けてる表紙を見つけるはず。そう『ラコステの歴史』。1920〜30年代に活躍したテニスプレーヤー、ルネ・ラコステの物語から始まり、現在のディレクター、クリストフ・ルメールの新ラコステまで。例えば「何故ワニなのか?」とか、定番のポロシャツモデル誕生秘話だとか・・・、まあ一体誰がこんな分厚い本を買うんだって疑問はとりあえず措いておく。
 表参道の坂下近く、大手メゾンの建設ラッシュに無視されながらヒョッコリとラコステの路面点がオープンしたのは一体いつだったろう。数シーズン前から発表されてきたコレクション、そのイメージチェンジに伴いできた路面店。しかしラコステはどうも日本における戦略に失敗しているようだ。
 さて、「プレタポルテ」という言葉が誕生したのは1945年だと言う。戦後の物資不足の中で豪華なオートクチュールを展開できなくなったがため、「既製服」という言葉と概念が誕生したとのこと。この時から「モード」とはオートクチュールではなくプレタポルテを徐々に指してゆくようになったんだろう。プレタポルテ=近代、オートクチュール=前近代。資料によれば、その近代を解体したのがヨウジだったりギャルソンだったりする。服そのものの起源を反射板にしたり(平面か立体か)、東洋(ジャポン)の文脈を持ってきたり・・・、当然「ストリート」ってものも使われるだろう。だからパンクでもなんでもいいけど、モードにおいて「ストリート」って概念は実際あるようで、ない。それはモードのなかのひとつの差異として便宜的に名指されたわけで、「ジャポネスク」なんかとほとんど同じだ。そういう様々な要素のある世界を「自然」とみなして出発したのが、例えば「アントワープ6」だったりする。ここで重要になるのは当然「スタイリング」や「コーディネート」になるわけだ。
 さてさて、ではモードに名指されるそれではない「ストリート」なんてものが本当にある(あった)のか。実はよく分からない。もし仮にあったとしても、モードに名指された時点から、「ストリート」が無意識に「ストリート」でいられるのはもはや不可能となったはずだ。戦略が必要なのだ、「頭と手とセンス」。
 ここで日本の具体的な状況。ラコステは日本における「ストリート」の戦略のひとつだったはずだ。つまりデパートのラコステコーナーではなく、「古着」としてのワニはまだまだ「ストリート」の可能性を持っていた(いる)はずだ。アーノルド・パーマ−もかつてはそうだった。しかし、日本の某セレクトショップによって復活させられたアーノルド・パーマ−はもはやモードです。アーノルド・パーマーとカサは幸福な結婚を遂げた。
 ではルメールの新ラコステ。表参道のショップに行っても分かる通り、個々のアイテム自体はほとんど変わっていない。それもそのはずで、ルメールがコレクションでやったのは「古着」としてのラコステの組み合わせ(スタイリング)でしかなかったのだ。またもやモードによる「ストリート」の名指しか?というとそうでもない。彼は名指しを意図的に失敗している。つまりワニはワニでしかないんだよと、「ストリート」の可能性を慎ましやかに応援している。ワニは「ラコステ」にならない、ワニのワニ性ここにあり。これはルメールの倫理とでもいおうか。
 ルメールの新たなワニたちは日本のファッション・ピーポー達に見事に無視され続けるのだろうか、あるいはアーノルド・パーマーのように・・・。とりあえず私達に出来ること、田舎のお爺ちゃんお父さんに新ラコステをプレゼントしてあげること、つまりワニのワニ性をこつこつと進行させること。とりあえず表参道のショップに足を運んでみましょうよ。

(松井宏)
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■13日(日)
『Sea Change』BECK

 これまでのベックの音楽はそれを評して「ディタッチメント」とか「パッチワーク」とか言われていたように、それは物事の表層だけを乖離させ、そしてつなぎ合わせ、厚みのない薄っぺらな膜をはり巡らしたようなものだった。そしてひとつひとつの切れ端はぼろぼろのままなのだけれども、次第に安っぽい宝石でそれをあまりに飾り立て過ぎて、その重みで縫い目が裂けていく様を見ているような、そんな感覚を覚えたのが前作『ミッドナイト・ヴァルチャーズ』であった。
 あれから3年。「次の作品がより純化され、ダイレクトなものになるだろうということは、前作を作り終わった直後から明らかだった。(略)変化をすることは確かに必要だけれども、それ自体が僕の主要なモチヴェ−ションというわけじゃない」、ベックはこう語る。アコースティックなサウンドに改めて感じるソングライティングというしっかりとした横ベクトルと共に、彼はひとつひとつの音の配置に奥行きを与える術を獲得した。そう、この作品で何が変わったのかというと、その音の奥行き、深さなのだ。
 きっとベックは自らがつくったブラックホールの入り口から「向こう側」が見たくなってしまったのだろう。けれども彼の音が鮮明さを増していけば増していく程、それと同時に彼は混沌の中に身を置くことになってしまう。ブラックホールは今も拡散し続けているから。

(中根理英)
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■13日(日)
『チョムスキー 9.11』ジャン・ユンカーマン

「制作期間中、この映画の仮タイトルは『Chomsky Talks――チョムスキーは語る』だった」と監督は発言している。実際、この70余分の映画では、(とりあえず忌野清志郎の歌のことは忘れよう)、チョムスキーが語る姿と声としか記録されていない。たしかに、この映画の中でチョムスキーが語る、普段マスコミが語らない世界の事件や、それら時事に対する彼の聡明な見解は、非常に刺激的なものだ。だが、この映画が端的に示すのはチョムスキーがまさに語る人であるということだろう。
 彼は、カメラの向こうのインタビュアーに語り、講演で語り、講演後その観客と壇上から降りて語る。いずれの場合も、彼の語る身ぶりや態度は同じ調子を保ち、その姿は何かを諭そうとしているというより、ただ自らの語る姿を露呈させようとしているようである。「世界は確実に良い方向に向かっている」と彼は言う。だが、そうした彼のあまりに楽観的な信念が感動的なのではない。「チョムスキーはネガティヴなことばかり言っているのに、何故かいつもポジティヴなのだ」というようなことが映画の中のある男性によって言われていたが、まさに彼は、彼の語る身振りと態度によって、自らの信念を表明している。
 そして、映画は、彼の主張を教条的に普及させることよりも、彼の身振りのみをただ単に提示することによって(しつこいが忌野清志郎のことは忘れよう)、彼の世界に対する態度を、少なくとも彼の発言や著作によってとは違うアングルから、捉え指し示すことに成功している。つまり、この映画もまた、「9.11」とか「世界平和」とかいった主題によってではなく、その身振りと態度によって、控えめに自らの立場を表明しているのだ。

(新垣一平)
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■12日(土)
『BACK TO THE FURNITURE』佐藤公昭

 はじめに断っておくと、この作品は一般公開する映画ではなく、現在会期中の東京デザイナーズブロック(TDB)の一環として製作されたドキュメンタリーである。一般公募で選ばれた3人の若者が、それぞれの家具デザインを形にするために、地方の職人のもとへ行き、家具を完成させる。出来上がった家具は、TDBの会期中、表参道のAURA SCREENING ROOMの1Fに展示されている(http://www.tokyodesignersblock.com/2002/bttf/)。
 いま、時間をかけて原宿から表参道を抜けて青山、六本木へ歩いてみるというのは、とても面白い。ひとつの潮流が終り、様々な企業の計画とその間隙を突こうとする個人の実践が、混沌と混じり、目に見える形で動いているからだ。もしかしたら2年後には人の流れがまったく変わっているかもしれない。そう思わせる萌芽があの地域には存在する。
 だから人の流れまで含めて、街の風景の変化を体験しに行くと考えれば、TDBというイベントに参加してみるのは面白いと思うが、ただ展示してある家具を見て回って、Tシャツを買ってというのなら、それはよくあるデザイン関連のイベントと変わらない。TDBプロデューサーの黒崎輝男が、「ロンドンのデザイナーズブロックの特色は、古いレンガの倉庫などを若いデザイナーたちが借り上げ、企業に依存せずに自己の表現の場所としているところ」と書いていたが、TDBにはそういった「若いデザイナーたちが自発的に行動している」という雰囲気が希薄なだけに(もしかしたらあるのかもしれないけど、見ている側に伝わってこない)、受け手としては「なんかでっかいイベントをやってるらしい」以上の感想を持ち難い。端的に言って企業色が強すぎる。
 その意味で『BACK TO THE FURNITURE』は、デザイナーズブロックの意義とTDBの現実のズレや可能性を改めて考え直させるものだった。若いデザイナーが地方で活動する職人のもとを訪ねて、家具を一から作り上げていくという企画を、映画を作っている側が自ら裏切っているといえばいいだろうか。「企業に依存せずに」という雰囲気はまるでないし(たとえばバイクで地方に行くという設定。「お金をもらってる」というのが、あからさま過ぎると思う)、映画のつくりとして若者の顔ばかりに寄っていて、どんな家具を作っているのか、その家具を実現できる技術はどんなものなのかがさっぱりわからない。「デザイン」ということを考えるなら、プロの技術こそ映すべきものだし、語られなきゃいけないのはひとつの家具をめぐっての職人と若いデザイナーの対話だと思う。プロの言う通りに作って、「出来ました、はい、終り」じゃ、ドキュメンタリーにする意味なんてない。
 ただ、ひとつとてもいいシーンがあった。遠野に住む職人たちが大勢で晩餐をしているときに、地方テレビで「TDBの企画で、大学院生が遠野に来て家具を作っている」というニュースが流れる。その場に主役の女の子はいないようで、カメラは職人たちの顔を捉えるだけなのだが、彼らは照れたような顔で楽しそうに話し、ニュースで「若いデザイナーが」というと、「何がデザイナーだよ」という感じで一斉に大笑いする。この遠野の老人たちだけは、「デザイナーズブロックの意義」も「TDBの現実」もまるで関係なさそうで、映画の中でアナーキーな異彩を放っていた。今年のTDBのテーマは「デザインに境界なし」だが、それをただのキャッチフレーズに終わらせないためにも、こうした職人たちと若いデザイナーと間にこそ「デザインに境界はないのか?」という問いが突きつけられるべきだと感じた。

(志賀謙太)
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■9日(水)
『サイン』M・ナイト・シャマラン

『シックス・センス』で恐怖映画を再構築してみせたシャマランの新作は、50年代のSF映画の風貌である。ただしそれは、物語や舞台設定がそうした印象を与えるというより、むしろ「見せない」ことを基調とする演出によってではないだろうか。つまり、50年代SFのリメイクものが意図的に回避・刷新しようとしてきたように思える「見せない」演出が、『サイン』では積極的に選択されていて、そのことがそれらリメイクものと『サイン』との差異なのである。
 ただ、『サイン』の「見せない」演出にはどこか強迫観念めいた雰囲気がある。というのも、(「見せない」とは、この作品の場合、第一にそれは「宇宙人を見せない」という意味なのだが)、50年代と今は違い、今ではテクノロジーが簡単に「見せて」しまうこともできるからだ。つまりシャマランは「見せられないから見せない」のではなく、「見せられるけど見せたくない」のである。だから、メル・ギブソン一家が屋内に立てこもり、地下へと逃げ込むストーリー展開は、「見せたい」テクノロジー(=宇宙人)と「見せたくない」シャマラン(=ギブソン)の攻防のストーリーのようでもある。
 などと思っていたら、いやいや、最後に宇宙人はその姿を堂々と見せるのである。もちろん、このこともまたシャマランの演出に織り込み済みであったはずなのだから、実は「見せたか」ったのはシャマランのほうだったという逆転がここで生じてしまうのである。だとすると、ストーリーは「見せたい」シャマランから逃げる「見たくない」ギブソン、であったのだろうか。つまり、ついに宇宙人と対峙したギブソンは、宇宙人の存在を恐れていたというよりも、(シャマランの前2作の主人公たちと同じように)「見たくない」ものを「見てしまった」ことに身をすくませ苦悩を強いられたようにもみえる。だとすると、彼もまた『ビューティフル・マインド』のラッセル・クロウや『バニラ・スカイ』のトム・クルーズと同じ病理の持ち主なのだろう。

(新垣一平)
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■9日(水)
『グレースと公爵』エリック・ロメール

 CG技術やフランス革命だとかいった前知識に騙されてはいけない。『グレースと公爵』は決して壮大な映画などではなく、これまでのロメールの作品がそうだったように徹底して慎ましやかな映画なのだ。一方で、ロメールの新たな作品に出会う度に、私はいつも「今度こそはその慎ましさに騙されるものか」と用心するのだが、これまた今までの例に洩れず、うっかり騙されて、度重なる不意打ちにあってしまうのだった。
 例え歴史(しかも動乱の時代だ)に基づく物語だとしても、やはりロメールの作品に奇想天外ということはありえない。だが、何が厄介かと言えば、奇想ではない、あるいはそう思わされてしまうところで、ロメールの映画においてその不意打ちは何気ない瞬間にやってくることを、どうしたって私は学習できないのだ。例えば、主人公グレースが審判において証拠となるイギリスからの手紙を読み上げる瞬間。ただ、それまでフランス語を話していたグレースが緊張の中英語を発語する様に何故こうも驚かされねばならないのか。冷静に考えればグレースは英国人なのであるから、英語を発したからといって何も驚くべきことではないし、しかもそもそもグレースがその手紙を読むことになったのも、翻訳者が「偶然にも」席を外している(そしてまた彼女が手紙を読み終わる前に「偶然に」のこのこもどってくるのだ)という理由からなのが、またロメールの策略にまんまとはまってしまったようで悔しい。しかしいくら悔しがったところで、彼女の読む英語はどうしたって我々の心を打つのだ。
 結局、この映画の目玉とされる絵画でつくられた風景もまた、グレースの英語と同じことなのだ。どうしたって絵画でしかないことを分かっているのに、それに背を向けて立つグレースは、遠くパリで起きている争乱に背を向けて立っているのであり、その風景の中に立っているのである。小さく見えるセーヌ河の水面がいくら実線を描いて揺れていても、それはやはりセーヌ河でしかないのだ。
 グレースが動乱の中振り回されながらも、逃げることなくじっとその風景を見続けたように、我々もじっと見続けるしかない。

(黒岩幹子)
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■7日(月)
『ザ・ロイヤル・テネンバウムス』ウェス・アンダーソン

 テネンバウム家の屋敷の間取りがわからない。いったい何部屋あるのだろう。ずいぶんたくさんの客を招いていたようだが。ではそんなに複雑な構造をもった家なのか。そうではない。というか構造なんてない。外から見た通り、三人の兄弟の部屋が縦に重なっているだけである。いくつかの部屋が階段によって繋がれている。人は階から階へ移動する。自明のことだ。「迷宮」なんかではない。ただ、私は何階に誰の部屋があるか忘れてしまった。
 隣人がこんな人だったら嫌だな、て感じに変な人が変なことをする。登場人物は画面に正対してシンメトリックな構図にすっぽりと収まる。絵に描いたような(そして実際絵に描かれている)人が絵に描いたような構図で。
 だがある瞬間から、ロイヤル氏はそんなに変な人ではなくなる。曰く、「クズではなくて、悪たれなだけ」の人に。ホテルの屋上でジーン・ハックマンは言う。「好き同士なら案外うまく行くものだ」。ズームアップの後、言い直す。「いや、私は娘のことなどわかったためしがなかった」。左右対称の構図からズームアップして再び左右対称の構図へ。そのズームの後は前と何が違うというわけでもないが、少し違う。シンメトリーを破壊するズームの過程は、エレベーターで階と階の中間地点を移動している途中の時間なのである。そういえばロイヤル氏はエレベーターボーイの仕事に就いたのだった。
 私がある階とある階の関係を見失ったのは、階と階との間に途中など無いからだった。そこにエレベーターボーイが中間地点を導入する。そんなことを考えるとありもしないのに、『フェイシズ』のラストの階段の踊り場のような空間があたかもあったような気がする。『フェイシズ』にシーモア・カッセルは出演していないが、この映画では彼もまたエレベーターボーイなのだ。

(結城秀勇)
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■2日(水)
『サイン』M・ナイト・シャマラン

 これは多分、侵略しにきた宇宙人との地球の存亡を賭けた戦争の話のようなのだが、実際に行われる地球人と宇宙人の対決は1対1で、しかも宇宙人が一方的に殴られてるだけなのでそれを戦争と呼ぶのかどうかは甚だ疑わしい。
 しかしある戦いについての映画であるのは間違いないようで、どうやらそれは宇宙人よりひとりの死んだ地球人のほうに関係があるらしい。こちらは上記の対決のように「いかにも宇宙人です」という緑色のつるつるした人型の生き物をバットでたたけば済む、という話ではなくて、わかりやすい敵はいない。宇宙人の件は、アメリカの一民家で起こっている出来事は全世界でも同時に起こっています、ということがテレビを通して(コーラのコマーシャルとともに)語られるのだが、ある家庭の母性の不在の問題は、全世界に薄まりながら広がっていくことはせずひとつの家の屋内に沈殿しつづける。
 『シックスセンス』に、少年が見た少女の幽霊が生前に撮ったビデオ映像を、少女の父親が見て死の真相を知る、というシーンがあった。それと同等に扱うことが出来るかはわからないが、地下室でひとりが懐中電灯を向け、向けられた相手が手に持つ懐中電灯を向けた先に宇宙人がいた、という場面が『サイン』にはある。そこで視線の玉突きはいったん中断するのだが、ラストに一箇所だけ宇宙人の見た目ショットがあって、そこではゆっくりと降りかかるコップの水が映される。それまで家中のいたるところにおかれ沈殿していた水がぶちまけられて降ってくるというのが、家族のひとりひとりの視線を経由した先の結末だというのは言いすぎだろうか。
 映画の中でたったひとりだけ死んだ地球人は「見ろ」と言って、たったひとりだけ姿を現した宇宙人は見た。「すべての現象は偶然ではない」そうだから、きっとそうなのだ。

(結城秀勇)
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■2日(水)
セバスチャン・サルガド写真展「EXODUS」

 ここに展示された写真すべてを合わせてもたかだか1秒から10秒の出来事です。シャッタースピードが350分の1、その一瞬の断片たちがこの世界を構成しているのです−確かサルガドはそんなようなことを言っていた。
 44年ブラジル生まれのセバスチャン・サルガドは60年代の軍事政権下の母国からフランスへ亡命。写真を撮り始めたのはそこからだという。今回の写真展は「難民、亡命、移民」がテーマ。
 「午後遅く、三人の男がぬかるんだ道を歩いている」。3人とも黒く重そうな外套を着込み、肩には何か重そうな麻袋を担いでいる。人参、玉葱、じゃがいも・・・ではないことだけは確かなようだ。土と小石と、ラテンアメリカのある国で土地を追われた彼等にとって土も小石も武器にはならないし、果たしてその麻袋がどんな役に立つのか、彼等にも一向理解されていない。なあ、おふたかた、これから俺達どこに行くんだい?ステッキの代わりに持った麻袋を左肩に持ち替えながらそう言ったのは一番左端の男(聞き間違いだろうか、もしかしたら真ん中の男かもしれない)。兄弟、俺達は舞踏会へ行くんじゃあないんだぜ、革命会議だよ、革命会議。でもよお、革命会議と舞踏会ってどう違うんだい、「会議は踊る」なんて小学校の教科書にも書いてあったぜ。黒いハットとありもしないステッキに誘われて彼等は結局舞踏会へと重い足を運ぶのだが、実のところ目下の3人の最重要懸案はつい先程すれ違った男の視線である。ろくに視線も交わさなかったその男は、同じラテンアメリカ風の顔立ちを持っているにも関わらず、その他に麻袋ではなく写真器を持っていた。カシャッ、カシャッ。350分の1秒を背後から切り取る器械の音と共に、左端の男(間違いだろうか、右端の男だったかもしれない)は記録と記憶の違いについて書かれた書物を玉葱のような頭で思い出していた。ツァンダー、ツァンダー、アウグスト、ザンダー・・・。玉葱の皮が剥がれてゆくように言葉が剥がれ、ふと自分達の名前を思い出す。そうだ、<舞踏会へ向かう3人の農夫>だったっけか、俺達。
 こうして書かれた伝記によって、彼等は(知覚の)ヒエラルキーを一段階ジャンプする。それは1秒と1時間とが相互に交感することでもある。よって、300枚の写真を1時間かけて見た私もジャンプする。だからこれは私の伝記でもある。第16章「私は可能性に住む」からの引用。
 「我々は前向きに思い出す。自分自身を、未来の自分に向けて、他人に向けて、電送する。<これを救出せよ。これを認識せよ、いや、これをではなく認識そのものを>。」(『舞踏会へ向かう3人の農夫』)
 いわゆる「決定的瞬間」があるわけではないし、演出がされてる場合もあればそうでない場合だってある。クドイようだけどそんなことどっちでもいい。そうそうそれから。マフマルバフの新作に浅田彰が言葉を寄せてて、このフィルムが素晴らしいかどうかはおいておくが、私はこのプロパガンダを支持する(ちょっとうる覚えですが)みたいなことを書いてた。僕は<正しさ>よりも<大いなる勘違い>を支持したいと、ただ単純にそう思っている。

(松井宏)
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