『クリーン』 オリヴィエ・アサイヤス interview

オリヴィエ・アサイヤスの傑作『クリーン』が、この日本でもついに2009年の“8月の終わり、9月のはじめ”に劇場公開される。5年という月日は経っているが、この『クリーン』の主人公たるマギー・チャン=エミリーが生きる世界の過酷さは、そしてそこにある希望は、決して過去のものなどではない。むしろ私たちはこの現在においてこそ、このエミリーの弱さと強さを、絶望と希望とを再び見つめる必要があるはずだ。 『NOISE』という挑発的な音楽ドキュメンタリー、そして『夏時間の庭』という「かつて」と「その後」を結びよせるフィルムを経由した現在のアサイヤスに、いま再び『クリーン』について話を聞いた。

――『クリーン』(04)は、『デーモンラヴァー』(02)と『レディ アサシン』(07)を加えた3部作の1本だと、そう言えると思います。変容する現代世界における女性たちを描く3部作です。あなたの映画にとって「女性」とは、いったいどのような存在なのでしょうか。

オリヴィエ・アサイヤス(以下OA):たしかに、私が作りたいと思うのはつねに女性たちが中心にいる映画だ。この質問は度々投げ掛けられるが、いつも答えるのに苦労する。というのもこれはインスピレーションに関わる事柄だからだ。「三部作」について語られるときでさえ、実のところ、どちらかといえば自分はただインスピレーションの流れに運ばれただけのような気がしている。1本の作品を終えたとき、次の作品がどうなるかなんて、あるいは次の作品を作るのかどうかさえ実際は分かっていない。とはいえ何かが自分を衝き動かし、シナリオを書かせ、そして1本の作品へと導く。そしてそれが、女性の登場人物たちの探求というかたちをとる。要するに今日の女性性、つまり「現代的な」女性性という問いが私を虜にする。女性たちは自らの役割を再発明せねばならない。現代世界に彼女たちが占める場所とは、彼女たちがごく最近自らの手で勝ち取った場所に他ならない。今日変容しているのは、世界というよりアイデンティティの方だ。アイデンティティこそが世界の構造に、世界のアルカイスムと対峙している。そこに関わるのは自己の探求ばかりではない。女性という観念そのものの探求なんだ。
私の意見では、映画とは大昔からずっと、つねにアイデンティティの探求のためのメディウムなんだ。私にとっての「物語」は、まさにそのことだけを語っている。この世界で、この人生で、そして様々な状況で、自己へと至る道をどのように作り出すか……。現代世界は以前よりさらに硬直し、いまや恐ろしいほど経済や権力が中心に居坐っている。『デーモンラヴァー』(02)で描いたのは、性的な関係性がどのように、ときに抽象化を被りながらも「進化」したかだった。その問いの中心に位置するのが女性性というものだ。世界は暴力によって決定付けられ始めている。たとえ内面化された暴力だとしても、それはほぼ物質的価値の勝利という暴力を意味する。女性性がそれにどうやって適応し、あらゆる月並みな考えに対抗しながら、どうやって自らベクトルになるのか。これが私の問いだ。もちろんまだ決着は付いていない。この問いは、ある意味謎めいた引力でこれからも私を惹き付けつづけるだろう。

――『クリーン』は、ある意味で伝統的なメロドラマに属するように見えます。しかも「女性のメロドラマ」とでも言うべきジャンルの存在を改めて確認させるような、そんな作品です。

OA:メロドラマという観念は私にとって、何と言えばよいか……。そう、世の中には多くのメロドラマがある。それらが多く語るのは、日常生活の苦悩だったり、その苦悩がいかに普遍的かということだ。もちろんエミリー(マギー・チャン)の物語はメロドラマ的だ。彼女は夫を失い、またかつて子供を見捨てながら再び出会おうとする。自分は彼を育てられる存在なのだと、そう自らを証明せねばならない。たしかにそれを映画ジャンルとして見ることもできる。だが他方で別の見方も可能だ。つまり、残念ながら現実において、この種の物語はもはやありふれたものとなり、ゆえにあまりに残酷すぎる。子供の保護権を失い、また夫も失い、生きるための仕事を見つけるために闘わねばならない女性たちとは、いまこの世界に数多く溢れており、かなり日常的な事態だ。メロドラマと呼ばれるものは、こうした物語に、ある種の詩的な魅力や厚みを与える映画形式だ。だがこの物語は、いまや現実の至るところに存在し、観客にとってあまりに悲痛なものとなった。つまりロマネスクな側面をもはや欠いてしまったんだ。 だから私はエミリーをマギー・チャンというスターに演じさせることで、そこにグラマラスな部分も与えながら、彼女の物語にはメロドラマ的な側面以上に、よりロマネスクな側面、すなわちより物語的な、より小説的な側面を与えようとしたんだ。

――その意味で、ある作品が思い出されます。クリント・イーストウッドの『センチメンタル・アドベンチャー』(82)です。あなたの仰るロマネスクな側面、そしてまた「歌の誕生」こそを、この2本はともに語っています。

OA:そう、この作品こそ私にとって大きな存在さ! 実はかつて「カイエ・デュ・シネマ」で記事も書いたんだ。とても大きな影響をもらったし、『夏時間の庭』(08)でカイル・イーストウッドを起用した理由のひとつもこの作品だ。彼はクリントと一緒に旅をする少年役を演じているからね。だから『夏時間の庭』は『センチメンタル・アドベンチャー』へのオマージュだとさえ言える。とにかくこの映画のエクリチュールでもっとも重要なのは、いま君が言ったように、どうやって、どこから音楽は生まれるのかという問いだ。音楽に命を与える様々なものが、秘密めいたやり方で、どうやって積み重なっていくのか。音楽とは、非物質的な何かと一緒に人間が自分自身から抜け出す方法なんだ。
クリントが演じる登場人物も、『クリーン』のエミリーも、ある意味で時代から取り残された人間だ。だがそれでも、いやだからこそ、彼らは何かを運ぶ媒介者でもある。彼らを通じて、彼らが探し求めるものを通じて、その「何か」は示される。

――あなたの映画ではつねに「嘘」というものが重要な役割を果たすのではないでしょうか。たとえば『冷たい水』(94)でヴィルジニー・ルドワイヤン演ずる女性は、嘘をつき続けることがアイデンティティのような女性です。そして『クリーン』のエミリーもまた、ひとつ決定的な嘘を付きます。夫を死なせたヘロインは彼女が買って来たものかと尋ねられたとき、彼女はノーと答えるのです。

OA:嘘というのは私の映画で、現実におけるのと同じく、ある状況から逃走するための役割を持つ。現実そのものから、この世界から脱走すること。とりわけそれは、もはやオルタナティヴな選択肢がない瞬間や状況において為される。嘘とはつねに逃走の手段だ。だが本当の問いとはこうだ。嘘が招くのはいかなる結果なのか? 嘘とは初歩的なドラマツルギーの要素だが、同時に、果たして嘘が何か結果をもたらすのか、もたらさないのか、またもしイエスならば、それはどのような性質の結果となるのか、という問いが重要なんだ。おそらくこれはモラルの事柄なのだろう。たしかにそうだ。だが結局のところ、これは世界そのものと関わる何ごとかなんだ……。そう、嘘には代償が支払われる。そしてそこには当然、嘘から真実への道筋が生まれる。いずれにせよ、ひとは嘘によって現実から逃走しようとするが、この試みは必ず代償を伴う。なぜなら現実や世界の特性とは、「変質しない」という点にあるのだから。それが真実だ。ゆえにそこから逃走することはナンセンスというわけだ。

――この作品で使われたブライアン・イーノの曲は本当に美しいと感じました。どのような経緯で彼の音楽を使おうと考えたのでしょう。

OA:『クリーン』の音楽はかなり興味深い。私には事前にアイデアもなかったし、どんな曲を使うかもまったく決まっていなかった。そんなとき、ふとブライアン・イーノのアルバムを手に取り、再発見したんだ。若いとき随分聴いたアルバムだったが、その後関心が薄れ、ほとんど忘れ去っていたものだった。だが突然、再発見した。一種の歓喜を感じ、もうそればかりを聴くようになった。ちょうど編集作業の最中で、その存在は大きくなる一方だった。じゃあこれを使おうと考えたんだ。ここには非常に視覚的で、しかも強烈な、無限の多様性がある。それが映像にぴったりくると確信した。ほぼこの音楽だけで、説話の雰囲気=環境を作ることにしたんだ。本当に彼の音楽は重要だった。もちろん交渉などは大変だったが……、とにかく彼のこの音楽には、現代的なメランコリィとでもいうものがある。と同時に軽さと、そして恩寵や優雅さの絶え間ない探求があり、それが極めて微妙なかたちでいつの間にか映像に忍び込むんだ。これこそ自分が映画音楽に探し求めるものだと確信した。たとえば会話のシーンで、彼の音楽は小さなヴォリュームで背景に存在するが、そのときでさえ、それは人物の発する言葉のなかや、彼らのいる環境そのもの、また彼らを取り巻く様々なノイズのなかに見事忍び込む。つまりそこには音楽と、言葉と、そして都市的な環境とが同時に存在している。これを可能にする音楽は、本当に稀にしか存在しないだろう。

(インタヴュー後半をnobody issue31にて掲載予定!)

8月29日(土) シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー

http://www.clean-movie.net/

『クリーン』

2004年/111分/シネマスコープ/カラー
監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス
撮影:エリック・ゴーティエ
音楽:ブライアン・イーノほか
出演:マギー・チャン、ニック・ノルティ、ベアトリス・ダル、ジャンヌ・バリバール

(c) 2004 - Rectangle Productions / Leap Films / 1551264 Ontario Inc /Arte France Cinema

電話取材・構成:松井宏
取材協力:株式会社トランスフォーマー