ジャン=クロード・ビエット

1942年、パリに生まれる。早熟のシネフィルで、22歳で「カイエ・デュ・シネマ」の批評家としてデビュー。1965年から4年間、アルジェリア戦争への徴兵を逃れるためローマに移住、ベルトルッチやパゾリーニと知り合う。特に後者と親しく、その作品のフランス語版作製に携わった。この間、『出発』(1968)などの短編を監督している。1969年、パリに戻る。ヴェッキアリの『女たち、女たち』に衝撃を受け、ヴェネツィア映画祭での上映を成功させる。同作の女優ソニア・サヴィアンジュを主演に迎え、ディアゴナル製作で『物質の演劇』(1977)と『マンハッタンから遠く離れて』(1980)を発表。並行して批評活動も続け、1991年にはセルジュ・ダネーとともに映画雑誌「トラフィック」を創刊した。ロメールの『冬物語』(1991)やストローブ=ユイレの『オトン』(1969)など、俳優としての出演作も多い。また、長年ラジオ放送局「フランス・ミュジック」でクラシック音楽番組を担当した音楽愛好家でもあった。チェルノブイリ原発事故後を舞台に、不可視なものの恐怖と魅惑を描くSF『カルパットの茸』(1988)、最高傑作との呼び声も高いJ・ターナー流フィルム・ノワール『禁猟区』(1989)、恋人関係にあったマチュー・アマルリックとジャンヌ・バリバール共演の「再婚喜劇」『河に架かる三つの橋』(1998)など、マクマオニアンと呼ばれる一派の映画美学を批評的に継承する厳格にして精妙な諸作品は、批評家として残した数々のテクストと併せて、「ラ・レットル・デュ・シネマ」の批評家出身の若い世代の監督たちに決定的な影響を与えた。2003年、パリで死去。同年『サルタンバンク』が遺作として公開された。2013年パリのシネマテーク・フランセーズは、ほぼ全ての監督作を批評家として論じた映画とともに上映する特集を組んだ。

批評家としてのビエット
ジャン=クロード・ビエットはフランスでは監督というより批評家として知られている。理由は単純、彼の撮った映画は見られないからである。現時点でDVD化された作品は一本もない。もしソフト化され、世界的に知られるようになったならば、ビエットはゴダール以後、ファスビンダーに匹敵する唯一の映画作家と認められるかもしれない。もっとも、日本では批評家としての仕事も知られていないので、ここでごく簡単にではあるが紹介しておこう。
ビエットは自らを「マクマオニアンの劣等生」と呼んだ。マクマオニアン(les mac-mahoniens)とは、1960年代初頭の批評家たちの一派で、名前はパリ凱旋門近くに今でもある映画館マクマオンに由来する。当時レアでマニアックなB級アメリカ映画を輸入し好事家たちを喜ばせていたのがマクマオンだった。そこに集ったシネフィル出身の批評家たちの一部がマクマオニアンで、ミシェル・ムルレ(Michel Mourlet)、ジャック・ルーセル(Jacques Lourcelles)、ピエール・リシアン(Pierre Rissient)らが代表的論者である。ヒッチコックやヌーヴェル・ヴァーグ、あるいはウェルズやカザン、アントニオーニやフェリーといった知性派監督を嫌ったマクマオニアンは、ラオール・ウォルシュ、フリッツ・ラング、ジョセフ・ロージー、オットー・プレミンジャー、アラン・ドワン、アイダ・ルピノらを擁護した。監督のエゴを排した演出によって観客を描かれた世界と一体化させ、恍惚とした「魅惑(fascination)」の境地に誘う、そんなタイプの映画を評価したのがマクマオニアンである。マクマオニアンの美学(マクマオン主義)とビエットの関係は簡単には要約できないが、彼や彼に兄事したピエール・レオン、「ラ・レットル・デュ・シネマ」の批評家たちが常に、演出された映画の世界と観客との関係を問題にした点にはその影響を見ることができる。
ちなみにマクマオン主義に関しては、現代フランスを代表する理論家ジャック・オーモンが、モダニズム以後の映画演出論の核心として「マクマオンのボワロー」ことムルレの有名なテクスト「知られざる芸術」(1959)を詳細に論じる一方(註3)、元『カイエ』誌の編集長アントワーヌ・ドゥ・ベックは、批評言説史の観点からそのファシズムやフランス右翼思想との関係を強調している(註4)。やはり『カイエ』誌の批評家だったパスカル・カネの監督作『リバティー・ベル』(1983)では、マクマオニアンがアルジェリア独立に反対するインテリでダンディな極右青年として描かれていた。
ビエットが上記の監督たちにも増して愛したのは、ジャック・ターナーである(このフランス人アメリカ映画監督はなぜかフランスでは紹介が遅れ、マクマオニアンの全盛期には知られていなかった。ちなみに、ヴェッキアリはジャックより父のモーリス・トゥールヌールの映画、しかも歴史的に重要なサイレント作品ではなく、30年代以降フランスで撮ったトーキー映画の方を高く評価している。二人の作風の違いを物語る一エピソードである)。同時代の映画作家に関しては、マノエル・ド・オリヴェイラやジョアオ・セザール・モンテイロ、アドルフォ・アリエッタらを「発見」した。なかでもオリヴェイラは生前、「自分の映画を初めて理解してくれた人」として、三十歳以上年の離れたフランス人批評家への感謝を隠さなかった。
数多い著作のなかから三つのテクストを紹介しよう。最初の二つは『トラフィック』に発表されたもので、いずれも映画について思考する際の分類法を提案している。まず、「映画作家とは何か」(1996年)。ビエットは映画を監督する人間を「監督(réalisateur)」「演出家(metter en scène)」「作者( auteur)」「映画作家 (cinéaste)」に分類する。乱暴にまとめれば、「誰かの注文をこなす人」、「注文をこなしつつ自分の映画を撮る人」、「自分の映画しかつくらない人」、「自分でもわからないものを産み出してしまう人」である。最後の、偶然の奇跡を起こしうる「映画作家」が一番の関心になるが、決して他が否定されているわけではない(註5)
次に「フィルムの統治形態」(1998年)。ビエットはフィクションとドキュメンタリーの違いを問わず、映画の要素を「話(récit)」「ドラマトゥルギー(dramaturgie)」「形式的企図(projet formel)」に分け、それらの競合として作品を読み解く方法を例示する。例えば、「ミネリの映画では、本作[『走り来る人々』(1958)]のようにドラマトゥルギーと形式的企図の間で闘いが起こってしまうと、話はマイナーな要素になる」といった具合である。ビエットが本稿で語る映画の生成論、いかにして物語(histoire)から「話」が生まれ、それがさらに「ドラマトゥルギー」に引き継がれるのか、プロであれ素人であれ、俳優が登場人物になるのはどのような瞬間なのか、といった問題に関する繊細な議論は、結果としての「形式的企図」の偉大さを崇める演出至上主義とは一線を画している(註6)。ちなみにセルジュ・ボゾンはビエット自身、あるいはディアゴナルの作品を、「ドラマトゥルギー」と「形式的企図」の陰に押しやられていた「話」の復権、あるいは「エクリチュールの趣味」の見直しとして特徴づけた(註7)
そのボゾンら、「ラ・レットル・デュ・シネマ」の批評家たちのバイブルになったという評論集『作家の詩学』(1988年)からは一本だけ、「グリフィスの蝶々」(1986年)。『カイエ』誌に寄稿したこの短いテクストでビエットは、表現に関わる様々な手段を一元化して完璧さを目指すがゆえに偶然性──例えば、グリフィスの映画で画面に写りこんでしまった蝶々のような──を締め出す映画、あるいは「人物と俳優の間にありうる分断の可能性を一切示唆しない」アラン・レネの『メロ』(1986)のような作品を批判している(註8)
ビエットの文章は、ともに「トラフィック」を立ち上げたセルジュ・ダネーの、直観的に鋭い洞察を連発するそれとは対照的に、明晰な論理を重んじるフランス芸術批評の伝統に属している。ポレミックで、いかにもジャーナリストらしく時代に殉じたと言えなくもないダネーの批評に対し、友人だったパゾリーニの書評集『描写の描写』(1979、Descrizioni di descrizioni)を愛読書とし、ロバート・スティーヴンソンのフィクション論、レッシングやブレヒトの演劇論、スタンリー・カヴェルの哲学などからも影響を受けたビエットの批評は、長く読み継がれるに値する古典的な価値を有しているように思われる。近年、ダドリー・アンドリューとともにアンドレ・バザンの再読解に取り組んでいるフランスの研究者エルヴェ・ジュヴェール=ローランサンは、映画に関する書き手として、ビエットをバザン以後最高の文章家と考えている。

『物質の演劇』
旅行代理店に勤める中年女性ドロテはある日、ふとした偶然から舞台演出家ヘルマンと出会う。女優に憧れていたドロテに、ヘルマンはシラーの『メアリー・スチュアート』(1800)にカトリーヌ・ド・メディシスの役を付け加え、それを彼女に演じさせるプランをちらつかせるのだが…。ドロテを演じるのは『女たち、女たち』のソニア・サヴィアンジュ、ヘルマン役はハワード・ヴェルノン。ジャン=ポール・メルヴィル監督『海の沈黙』(1947)でのナチス将校役で知られるヴェルノンは、ビエットやギゲといったディアゴナル作品の他、ラングの『怪人マブゼ博士』(1960)やゴダールの『アルファヴィル』(1965)などにも出演したが、何と言っても一連のジェス・フランコ作品における厳めしい容貌を活かした怪演が有名だろう。
「物質の演劇」とは、ヘルマンが主催する劇団名であると同時に、彼にとっての演劇、そして監督のビエットにとっての映画の理念を表してもいる。すなわち、演劇/映画における材料(マチエール)とは物理的存在としての俳優である、ビエット自身の言葉でより精確に言い直せば、「監督が、自分の思い描く映画が要求するドラマトゥルギーを構築する際にその最初の材料となるもの」は、「フィクションの俳優であれ自分自身の生活を生きる俳優[ドキュメンタリーで被写体となる人間]であれ、フィルムに収められた存在によって表現される、内在的な『ドラマ性dramatisme』」(註9)だという考えである。
俳優の容姿や表情、身振りもさることながら、音楽愛好家でもあったビエットの映画でとりわけ重要なのは、声や台詞回し、会話のリズムといった音楽性である。言ってみれば、役者は一人一人異なる楽器奏者であり、それを束ねるオーケストラの指揮者こそ演出家にほかならない。この理念が、主役の二人や、以後ビエット映画の長い常連となる実の親子、ポーレット・ブヴェとジャン=クリストフ・ブヴェら出演俳優によって、作品内で具体化される。と同時に、それは映画の物語としても語られる。すなわち、戦争中ドロテはロジェ・デゾルミエール指揮するフランスのオーケストラでハープを、ヘルマンはヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮するドイツのオーケストラでヴァイオリンを弾いていた。二人のキャラクターや演技は両指揮者の音楽、あるいはそれに対するビエット自身の批評を演劇化したものとも言える(二人の指揮者の録音を事前に聴かれることをぜひお勧めしたい)。
こうして、ジャンル的に言えばメロドラマに属する『物質の演劇』は、映画に関する映画という自己言及的な側面をもつことになる。一方で、本作は歴史的、あるいは政治的な内容を孕んでいる。ヘルマンとドロテ──言うまでもなく、フランス革命を背景にドイツ人青年がフランス人の少女と結ばれるまでを描くゲーテの叙事詩『ヘルマンとドロテーア』(1797)を踏まえている──の関係に、第二次世界大戦中のフランスとドイツを重ね合わせて見ることが可能だからである。デゾルミエールはレジスタンスに加わった共産主義者、精確さと透明性を重んじ、古典と現代音楽両方を得意とした。一方フルトヴェングラーは、20世紀最高の指揮者とされながらナチスとの微妙で複雑な関係について、いまだに議論が絶えない人物である。ベートーヴェンやヴァーグナー、ブルックナーで聴かせる緩急を伴ったドラマティックな表現には、魔術のような魅力がある。こうした経歴や音楽的個性の違いも本作の前提を為す。ところで一つの疑問が浮かぶ。ならばユダヤ人はどこに?──。
20世紀のヨーロッパ史に対する問いかけという点で『物質の演劇』は、例えば『映画史』以降のゴダールを遥かに予告する作品とも言える。ただしゴダール、あるいは赤坂太輔氏の言う「戦争に駆り立てることに一役買ってしまった過去の歴史と自己を反省し自らの存在と手捌きを明らかにすることで、観客に自分が見聴きしつつあるものへの疑いを喚起し、映画それ自身を解体させる視線を授ける」「メディア批判としての現代映画」において、登場人物たちはどうしても、裁判所で陪審員が被告に向けるような疑惑の眼で見られがちである。「ゴダールとは反対に」とピエール・レオンは言う、「ビエットは人物を、とりわけドラマトゥルギーを産み出す人物の力を常に信じていた。この力はあくまで人間的存在・演者・役柄という三位一体によって増大するものであり、彼にスターや人気俳優への不信感を抱かせる原因でもあった」(註10)

では、ビエットの映画に特徴的なのはどのような登場人物か。それは、最も典型的には1950年代B級アメリカ映画の一部に見られるような人々である。例えば、ターナーの『星を持つ男』(1950)の最後で、教会の窓越しの遠くに消えていく黒人男性、アラン・ドワンの『対決の一瞬』(1955)で、自分が命を犠牲にして救った主人公テネシーから本当の名前を知らなかったと言われる「テネシーのパートナー(映画の原題)」、エドガー・G・ウルマーの『セイント・ベニー・ザ・ディップ』(1951)で、本当は泥棒の偽牧師に自分の金や所持品全部を預け、「私は地上の影だった」と言い残し自殺するために去っていく老人…。
こうした影のような存在への思慮を観客から引き出す方法が、ビエット映画に遍在する謎や秘密にほかならない。もっともそれは、登場人物の誰かが仕組んだものではない。また、すべてをコントロールしようとする尊大な映画作家が与えたものでもない。同じように謎めいていると言っても、人物を豊かにすることなく複雑に描くだけのアルノー・デプレシャン流「隠匿の詩学」は(註11)、そこでは無縁である。

「ビエットの映画に外側から糸を引く者はいない。俳優たちは皆孤独に、来たるべき物語とともに歩む。私たちはただひたすら、信頼のもと彼らを追わなければならない。なぜなら、彼らが導いたのが行き止まり(あるいは作り話)だとしても、私たちだけが取り残されたわけではないからである。[ビエットの映画において]脚本上の束縛がないだけになおさら未来を不確かなものにする諸々のアクシデントは(…)登場人物と観客、両者に対して同時に起こる。平等に。落とし穴は全員に仕掛けられている。いずれにせよ誰もが話し、誰もが勘違いをする。見えないことは見まちがえであり、聞きちがえは聞かないことになる。誰にでも言い分がある、ということは誰の言い分も通らない。ルノワールの映画同様、人間は万物の尺度ではない。なぜなら、人間は万物の尺度をもたないから。そこで必要なのは無防備になること、すなわち、十分な光に照らされ、自らが見られたり聞かれたりされるのを受け入れること、そして主役でいるのをあきらめることである。このユマニスムともロマン主義とも異なる概念にこそ、ビエット映画の起源を探らねばならない。それは、観客と登場人物の間で交わされる眼差しという試練においてのみ命が通い出す映画であり、映画作家の視点は、この眼差しを自らのそれに代えることなく動かさなければならない。「結末は観客に与えられない。それは観客がつくるものである」[ジャン=クロード・ビエット]」(註12)

Jean-Claude Biette

短編

1961 Poursuite (La)
1966 Ecco ho letto
1968 Attilio Bertolucci
1968 La Partenza(『出発』)
1968 Sandro Penna
1970 Ce que cherche Jacques
1973 Sœur du cadre(La)
1983 Archipel des amours(L') : Pornoscopie(『愛の群島』より『ポルノスコピー』)

長編

1977 Théâtre des matières(Le)(『物質の演劇』)
1980 Loin de Manhattan(マンハッタンから遠く離れて)
1988 Champignon des Carpathes(Le)(カルパットの茸)
1989 Chasse gardée(禁猟区)
1994 Complexe de Toulon(Le)
1998 Trois ponts sur la rivière(河に架かる三つの橋)
2002 Saltimbank(「サルタンバンク」)

【註】

  • 3. Jacques Aumont, La Mise en scène et le cinéma, Armand Colin, 2006, pp.73-106.
  • 4. Antoine de Baecque, La Cinéphilie. Invention d'un regard, histoire d'une culture 1944- 1968, Fayard/Pluriel, 2003, pp.214-219.
  • 5. Jean-Claude Biette, «Qu'est-ce qu'un cinéaste?», Qu'est-ce qu'un cinéaste?, Éditions P.O.L, 2000, pp.15-31.
  • 6. Jean-Claude Biette, «Le gouvernement des films», Ibid., pp.109-123.
  • 7. Serge Bozon, «Diagonale», Catalogue d’Entrevues, festival international du film Belfort 2006, p.87.
  • 8. Jean-Claude Biette, «Le papillon de Griffith», Poétique des auteurs, Éditions de l'Étoile, 1988, pp.146-149.
  • 9. «Le gouvernement des films», op.cit., p.119.
  • 10. Pierre Léon, Le Sens du paradoxe, Capricci, 2013, pp.31‐32.
  • 11. Pierre Léon, «L'ordre du jour», Trafic, n°53, 2005, p.9.
  • 12. Pierre Léon, Le Sens du paradoxe, Capricci, 2013, pp.32-33. 末尾の引用は、ビエットがシャーリー・クラークを論じた「カイエ・デュ・シネマ」1965年1月号の記事から。

新田孝行(にった・たかゆき)

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