東京国際映画祭で大きな話題を呼んだホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』が、遂にここ日本でも一般公開される。
古都ストラスブールを再訪し、かつて出会ったシルビアの姿を追い求めるひとりの男。そして、彼がそこで見かけるシルビアによく似た女性。そんなシルビアに魅入られた男の視線のように、神話的なイメージに彩られたこの『シルビアのいる街で』は、わたしたちの視線をとらえて離さない。見るたびに姿を変えるかのようなこの映画に再び出会えることに感謝しつつ、「現代スペインで最も優れた映画作家」(ビクトル・エリセ)であるホセ・ルイス・ゲリンに話を伺った。
――この『シルビアのいる街で』には、ヒロインを演じるピラール・ロペス・デ・アジャラの他にも、もしかするとシルビアであるかもしれない数多くの魅力的な女性たちが登場します。彼女たちはあなた自身で選んだエキストラなのでしょうか。
ホセ・ルイス・ゲリン(以下、JLG) 登場するエキストラの女性たちは、この映画の舞台であるストラスブールに実際に住んでいる人たちです。私自身が現地で彼女たちを見つけ、この撮影に参加してもらいました。ピラールはスペイン人ですが、以前からとても撮りたかった女優ですね。まずピラールの存在があり、そして彼女と同じくらい魅力的な女性たちをストラスブールで見つけることにしました。私はいつもロケ現場近くに住んでいる人たちをエキストラとして使うようにしているのです。
――この作品を観て非常に印象深かったことは、エキストラである彼女ら一人ひとりの表情がとても豊かだということです。まるで、全員がこの映画のヒロインであるかのように美しく見えました。
JLG私にとって映画とは、登場人物ら一人ひとりの顔やその表情、そして彼らが持っている物語を映し出すことだと思っています。ときどき、観た映画のストーリーは忘れてしまっても、そこに登場していたひとりの女性の表情やしぐさなどはとても印象深く残っているということがありますよね。私はそれを小津安二郎の映画から学びました。彼の作品に登場する笠智衆や原節子たちを観ていると、本当にわずかな表情からでも彼らの物語を見ることができます。
登場する女性たちがとても美しく見えたというのは、シルビアを探す主人公の男(グザヴィエ・ラフィット)が主観的に見ている女性たちが美しいということです。実はこの映画には、その主観的な視線の他にもうひとつの視線があります。それはもっと客観的な視線です。その視線の先にはホームレスや物売り、あるいは顔に傷を負った女性などが出てきています。つまり、美しい女性たちだけを選びとって見る主人公の主観的な視線のまわりには、キャメラの客観的な視線で映し出される、決して美しいとは限らない現実があるのです。今作では、このふたつの視線の対比が重要だと思っていました。
また、主人公に美しい顔立ちのグザヴィエとピラールを使おうと思ったのにはもうひとつ理由があります。私の前作の『工事中』(01、原題「En construcción」)は、建築現場の労働者たちを撮ったドキュメンタリーで、そういった題材の作品としては珍しく当たった映画でした。でも、それによって世間から「社会派監督」のレッテルを貼られそうになってしまい、自分が今後撮る作品が制限されてしまうと思いました。なので、今作ではカフェ・テラスに集まるブルジョワ的な美男美女をたくさん出して、私が撮る映画は「社会派」だけではないということを見せたかったのです。
――映画の前半で、主人公の男がシルビアかもしれない女性をそのカフェ・テラスで見かけます。このシーンではたくさんの人々が画面内に登場するため、撮影も複雑だったと思いますが、撮ろうとするイメージやカットは事前に決められていたのでしょうか。
JLGそれはとても面白い質問ですね。この映画の撮影期間は5週間あったのですが、実はそのうちの2週間をあのカフェ・テラスの撮影に使いました。シナリオ自体はシークエンスも少なくとてもシンプルなのですが、カフェ・テラスの場面はとりわけ大部分を占めていて、それだけ撮影にも時間がかかったのです。
あのシーンでは、まるで視線が冒険をするかのように人から人へと移っていきます。ときに視線を遮るものがあったり、はじめ見ていたものから別のものに視線がそれてしまうこともあります。それ自体がまるでひとつのストーリーになっていて、主人公の視線が妨害されたり遮られたりしながら、最後にシルビアかもしれない女性に辿りつく。なので、撮影の際にはまずエキストラたちに集まってもらい、そこから私が小さなキャメラで構図を決めながら撮影をしていったのです。
――この映画のひとつの特色である、路面電車やガラスの反射を利用した撮影も素晴らしかったですね。
JLG視線の冒険として、私がもうひとつ考えたのはガラスに映る顔の表情でした。観客たちは路面電車のガラスなどに反射した顔を見つつ、その奥にある背景も見ることができます。そのようなガラスの特性を生かした撮影によって、そこにいる女性たちを、普通よりも少し現実離れした存在として見せたかったのです。この撮影はある程度計算して行いましたね。
しかし、事前に計算したとは言うものの、彼女たちは職業俳優ではありません。なので、まず彼女たちの座る配置などを決めて、小さなグループやカップルに分けます。そしてそれぞれのグループに簡単な状況だけを伝え、自分たちだったらどうするかを尋ねるのです。そこから自然に動きが出てきたところをキャメラに撮るようにしました。ですから、私は彼らに状況を投げかけるだけにし、ドキュメンタリー的に彼らの動きを撮ったということですね。私はいつも、自分が撮った映像を見て、自分が最初に驚きたいと思っています。私は映画を撮るということは、「発見」することだと思います。たとえとても良く出来た脚本があっても、それに束縛されながら次に何を撮るのかが事前にわかっていてしまうと、映画を撮る気がなくなってしまうのです。だから、私が映画を撮りたいという欲望を持つために、偶然性やコントロールできないものを常に大切にしているのです。
――この映画は、あなたが撮った写真で作られているドキュメンタリー『シルビアの街での写真』(07)を下敷きにしています。そちらの作品は写真のみで映画が構成されているということもあってか、まったく音がありません。それとは対照的に、『シルビアのいる街で』はとても特徴的な音作りをされています。
JLG『シルビアの街での写真』では、まず写真をたくさん撮ってから映画を構築していきました。そこに音がないのは、私がいつも無声映画を作りたいと思っているからですね(笑)。一方、『シルビアのいる街で』では、私はどちらかと言うと音作りのほうから作業に入っています。録音技師と一緒に街に行き、その場所の持っている音をすべて録音します。ある瞬間の音だけでなく、たとえば歴史の足跡のような音も録るために、とにかくあらゆる音を録音する。それによって、編集の際に構成の幅や自由が拡がるのです。
たとえば、主人公の男がシルビアらしき女性をカフェから追いかけていくシーンがありますよね。その場面ひとつだけでも、お店の中の会話が聞こえてきたり、遠くの路面電車の音が聞こえたりと、さまざまな音があちらこちらから聞こえてきます。それらを構成することによって、ドキュメンタリー的な街の姿が浮かび上がってくるのです。そして、それらの音は、女性たちを見る主人公の主観的な視線と対立するものとしてあると思っています。音によって、シルビアかもしれない女性と、彼女の周囲とのコントラストを生み出すことができるのです。つまり、彼の視線は彼女だけを見ているため、それだけ周囲の景色は抽象的になっていく。一方、その主観的な視線から客観的な視線に移ってみると、今度は街の姿がよりはっきりと浮かび上がり、彼女はその街の一部となっていきます。ちょうど、主観と客観のあいだを行き来する知覚の振り子みたいなものです。観客にもそういった体験をしてほしく、映画のストーリーのプロットは最小限に抑えて、見ること・聞くことに集中してもらうようにしました。
――あなたはこれまでに、『静かなる男』(53、ジョン・フォード)を題材にした『イニスフリー』(90)や、過去に撮られたプライヴェート・フィルムの映像を使った『影の列車』(97、原題「Tren de Sombras」)といった作品を撮ってきました。これらの作品や今作には共通する部分があると思います。それは、「すでに失われてしまったイメージ」をめぐる映画である、ということです。
JLG実は、私自身もそのことにはまったく気が付かなかったのですが、ある映画批評家が同じような指摘をしているのを読んだことがあります。それによると、私の映画には、現在という時間と共に、過去の神話的な時間がそこにはあって、常にそのふたつの時間が存在しているのだそうです。『イニスフリー』を撮影したとき、私は純粋にあのアイルランドの街のドキュメンタリーを撮ったと思っていました。しかし、ビクトル・エリセには「君は亡霊たちを撮ったのだ」と言われましたね。つまり、そのときはまったくの無意識だったのですが、私は『イニスフリー』の頃から死者が関係するような作品を撮っていたということになります。『イニスフリー』には、ジョン・ウェインが投げた帽子を、女の子が拾い上げるというシーンがあります。かつて出来なかったことをいま実現するという、映画の回復であり、復権のような瞬間がここにはある――そのような、自分では気が付かなかったことをビクトル・エリセに教えてもらい、次の『影の列車』では意識的にそれに取り組むことにしました。ジョン・フォードという口実ではなく、『影の列車』では本当に映画の中に住む亡霊たちを撮ってみようと思ったのです。
ですから、この『シルビアのいる街で』についても、本当にシルビアが存在するのかどうかは見る人が決めることだと考えています。そして、この映画の舞台はシルビアという<音>によって重力がかけられている――そのような街だと私は思っているのです。
8月7日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開後、全国順次公開 www.eiganokuni.com/sylvia
監督・脚本:ホセ・ルイス・ゲリン
出演:グザヴィエ・ラフィット、ピラール・ロペス・デ・アジャラ
原題:DANS LA VILLE DE SYLVIA
2007年/スペイン=フランス/カラー/85min/35mm/ヴィスタ
高木佑介、結城秀勇、菅江美津穂=聞き手・構成
鈴木淳哉=写真