不確かさの感染

S.M.:父親と息子のやりとり、たとえばまさに二人がキッチンでただ一緒に歌う姿もまさにそうなのですが、ギヨームさんの映画では、俳優たちはあたかも自由に動いているように、「いきいきとして」みえます。はたしてそれは俳優自身によるものなのか、あるいはギヨームさんの演出が導いているものなのか……? 彼らとの間ではどんなやりとりがあるんですか。

G.B.:うーん、やっぱり大部分は俳優たち自身からきているものだね。とくにヴァンサン・マケーニュのような俳優がそう。『女っ気なし』で母親役を演じたロール・カラミーも同じタイプだけど、つまりとても創意に溢れていて、絶対に真実であろうとし、存在そのものであろうとする俳優たちだ。彼らはどちらも舞台出身だけど、いわゆる「演劇的な」演技はいっさいしない。そもそも俳優を選ぶ時点で、演技しすぎる俳優、自分で構成しすぎたり、つくり込みすぎたりする俳優は避けている。話し方でさえ、気にするようにしている。最近気づいたんだけど、たぶんこれはぼく自身と話し言葉との付き合い方に関係しているんだ。普段のぼくの語り口はどこかぎくしゃくして、カオスな感じがあって、かなり生き生きしているからね。だからそうやって生きた言葉で表現できる俳優を選ぶんだ。『やさしい人』のソレーヌ・リゴもそう。彼女には演技の教育がいっさいないけど、とにかく生き生きとしゃべるし、つっかえたりすることだってある。言葉の発音がハッキリ聞き取れないこともときどきある。でもとても生きた話し言葉なんだ。ベルナール・メネズなんて、数多くの舞台に立っているけど、彼の話し言葉との関係はかなり特殊だ。ジャック・ロジエの『オルエットの方へ』(71)や『メーヌ・オセアン』(86)をみればすぐにわかる。途中でコントロールを失って、話がこんがらがって、どこか混乱して、言葉がつっかえて……。それによってひとつのシーンが、書かれたものから少しずつズレ始める。書かれた台詞が、俳優たち自身から出る言葉や身振りに置き換えられてゆく。そうすることでひとつのシーンは、より生きたシーンになる。俳優たちには、ある瞬間に自分でなにかを加える可能性を残しておかないといけないんだ。

 ぼくは特別な俳優指導者でもないし、もし自分の映画内で「俳優たちの演技が良い」と思われるなら、それはそもそも「良い俳優たち」を選んでいるからさ。ある俳優たちのためにシーンを書き、彼らのことを思い浮かべながらダイアローグを書く。でも撮影現場では特殊なメソッドなんてない。現場ではただたんに自分は優柔不断で、かつ直感的だ。予定されていたものを変更したり、意見を変えたりして、俳優にとってつねに不確かな状態をつくりだす。彼らが居心地良い状態にいられないように、「普通の」やり方で事が進められないようにするんだ。不安定さ、不確かさというのが、彼らのあり方になる。それによって演技もシーンも生きたものになると思う。もちろんときには逆に、それが演技やシーンを弱いものにすることだってある。だからこれは良いとか悪いとかの問題じゃなく、存在の仕方そのもののことだ。この存在の仕方が俳優やシーンに影響してゆくんだ。

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 そうだね……、これは「感染」なんだ。もしぼくの映画の誕生証明みたいなものがあるとしたら、それは『遭難者』のとき、小さな村の住民たちのなかにふたりの俳優を飛び込ませるという、その直感だったと言える。住民たちの、まさに「現実的な」存在の仕方が、俳優たちに感染して、彼らは演技が薄まってゆき、より強く現実との相互作用に入るようになった。その後の作品でも、ヴァンサン・マケーニュはすでにぼくの探し求めていることを理解していた。『遭難者』があったからこそ、理解してくれたんだと思う。だから『女っ気なし』も『やさしい人』でも、ぼくは彼に寄りかかることができた。それからロール・カラミーは『女っ気なし』のとき、『遭難者』をみて「あなたの求めていることはわかったわ」と言ってくれたね。まさに彼らの知性のおかげだよ……。

S.M.:いまの話を聞きながら、「感染」への直感といい、俳優を不確かな状態におくことといい、繰り返しになるけれど、やはりリスキーな挑戦がギヨームさんの映画づくりにあるし、でもそこには「知性」への絶対的な信頼、つまり彼らへのリスペクトがあるからこそ挑戦できるのだ、と感じました。今回もまた、地元の人々だろうと思われる方たちがとても魅力的で、ぜひぼく自身もそのように映画を作ってみたいなと強く思います。

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