『偶然と想像』濱口竜介インタヴュー

偶然とは、我々が生きていく中で起こりうるものであり、同時に起こりえないものである。また想像とは、起こりえないものをまるで起こりうるものとして立ち上がらせることを可能とする。こうした事象をめぐる『偶然と想像』は、収められた3つの短編(「魔法(よりもっと不確か)」「扉は開けたままで」「もう一度」)を通じて、本来存在する側の我々の世界だけでなく、映画がもたらす偶然性や想像力として結実し、見事なまでの豊かさを提示する。そして濱口竜介が偶然に端を発し、想像の名のもとに映画を撮ることは、訪れるべくして訪れた境地だと言っても過言ではないだろう。このたびの公開にあたり、映画の中の偶然を描くこと、あるいは分かちがたく隣り合わせに存在する想像の可能性を中心に詳しくお話を伺った。

起こるべくして起こる、ささやかな偶然を捉え続けるために

2021年、12月8日(オンライン)
取材・構成:隈元博樹、梅本健司、鈴木史、安東来
協力:荒井南、作花素至

——『偶然と想像』は元々企画されている7本の短編のうちの3本であり、今後もその他の4本へと連なる短編集であると伺っています。そのことを踏まえた上で、どのような方向性でキャスティングやスタッフィングを進められていったのでしょうか。

濱口竜介(以下、濱口) 行き当たりばったりというのが正直なところではあります(笑)。ただ基本的にこのプロジェクトは、そのとき何となくやりたいことをやろうというもので、キャスティングの基準としては今まで仕事をしてきた中でなかなかガッツリと仕事をすることができなかった方々ともう一度やる機会にするのか、もしくは全く新しい方々と会う機会にするのか、そのどちらかです。実際にメインキャストは8名いらっしゃいますけど、初めて仕事をする方が4名、今までも仕事をした方が4名います。このバランスは非常によかったな、と思ってます。スタッフに関しても一緒で、撮影の飯岡幸子さんもずっとちゃんと組んでみたいなと思っていた方でした。ドキュメンタリーのときや『親密さ』(2012)『ハッピーアワー』(2015)のBカメで来ていただいたことはあるんですけど、最近の杉田協士さんとのお仕事も素晴らしいですし、仕事をしたいという気持ちは高まっていたのでお願いをしました。撮影者というのは作品全体の目なので飯岡さんには今回の3本を通しでやっていただこうというのが企画の始まりからあったんですが、その他のスタッフに関しても今までやった方と新しい方が半々ぐらいの割合です。その際にプロフェッショナルとしての実力は勿論なんですが「人柄の良い方」を、というのはすごく大きな要素ですかね。

——人柄の良さというのは、その方々から滲み出てくるものを通じてご自身が汲み取っていくものだったりするのでしょうか。

濱口 たとえば高野徹さんは『ハッピーアワー』でも助監督をやっていただいた方で気心も知れているし、今回も3本を通して助監督をお願いしました。ただ、彼だけでは人手が足らないので、他の人も「人柄の良い方をお願いします」っていうことで紹介してもらいました(笑)。単純に映画の現場では、まだまだ怒鳴ったりする人はいるわけで、怒鳴らないまでも非常にパワープレイ的に物事を進めていこうとする人は現状としてたくさんいます。それは時間がないことともすごく繋がっていると思うんですけど、その中で「自分がどう失敗しないか」という観点から仕事を進めていくスタッフはたくさんいる。でもそうではなくて、ごく単純に周囲に対して気を遣えたり、周囲の人間性を尊重できるような方たちとやりたい。そうじゃないと単純に自分自身もつらくなるので、そういう方にできるだけ、会ったうえでお願いするようにしています。

©2021 NEOPA / fictive

——タイトルにある「偶然」ですが、小誌が2010年に刊行した「nobody issue33」(「特集 エリック・ロメール、不純な映画のために」)の『ロメールと「死」にまつわる7章』という文章の中で、すでにロメールの映画にまつわる「偶然」やその他の事象などに触れて書かれています。また前作『ドライブ・マイ・カー』(2021)の公開時には、「文喫 六本木」で開催された「ある映画のための補助線 映画『ドライブ・マイ・カー』をめぐる複数の本」というフェアの中で、「必然」について叙述されたバルーフ・ド・スピノザの『エティカ』(中央公論新社、2007)や九鬼周造の『偶然性の問題』(岩波書店、1935)について取り上げていらっしゃいます。

濱口 挙げていただいたnobodyに書いたロメールの文章は超元ネタですね(笑)。そのときにロメール映画における「偶然」「欲望」「倫理」「陰謀」「待機」の見取り図みたいなものは自分の中で結構できたので、今回もある程度それに従ってつくっているというところはあると思います。まあそのままというわけではないですけど。ただ、実際にロメールの映画ほどあっけらかんとした偶然を取り扱うということは難しい、というか恐いことなんですよね。リスクが高いと言い換えても良いかもしれない。本当に手酷い失敗をする可能性もある。ただそれも含めて今回は短編ということなんだと思います。短編であれば試すこと、チャレンジをすることもできるっていうことですかね。偶然というものの取り扱いを色々と試している感じです。

——一方で想像とは内部から誘発されるものとして偶然を引き寄せるための演出、もしくは役者が演じることにおいて生まれてくるものなのではないかと思います。この偶然と隣り合わせにある想像に関してはどのようにお考えでしょうか。

濱口 このシリーズに関して言えば、最初は偶然にまつわる物語として構想していましたが、あるときから何だか「偶然と想像」という言葉の語呂が良いような気がして、そのふたつについて考え始めました。ただ、それが一体どういう関わりになっているのかっていうのは、そんなに判然としなかったところがあるんです。ただ、制作に入る少し前に九鬼周造の『偶然性の問題』を読みながら考えたのは、偶然は現実に存在するものであり、想像というのは必ずしも現実には存在しないものであるという点です。九鬼は偶然について「存在(有)に食い入る無」であると言っている。素晴らしい定義だと思います。言い換えると、偶然とは「稀(まれ)」なものであり、あるとしても非常にありえないものだと。ありえない、にもかかわらずそこにあるものが偶然であると言っているわけです。つまり本来存在しないはずのものが、因果関係もなしに突然ポンッと現実の中に現れてしまったように感じられるものが偶然です。偶然とは無と有の境界面に位置していると言ってもいい。でも、それはスタティックなものではなくて、無から有へと飛び出す非常にダイナミックな運動としての側面を含んでいる。偶然の起こらなかった世界と起きた世界は全く違うものであるわけです。このときに偶然と想像の役割は表裏一体という気がしました。我々は偶然が起きたとき、どうしても「その偶然が起こらなかった世界」のことも考えてしまう。だからこそ不思議な気持ちにもなるわけです。「もしこの偶然がなかったら…」と想像するように誘われる。
このことからわかるように、何かを想像することの条件は「想像の対象が存在しないこと」です。想像は無の領域から生じる、と言ってもいいでしょう。自分の中にしかなく、現実にはないものを自分の身体を依り代にしてある種の虚構という形で現実にあらしめる。つまりは想像は虚構において、偶然は現実においてともに無から有へ向かう同種の運動なんだと考えられます。一方で偶然は現実に、つまりは存在するものの側にありますが、想像はあくまで「現実にはない」という性格を保ちながら生じてくるものです。同方向の運動だとしてもそれらは、虚実を軸に反対の性質を持っています。想像は個人のうちに属し、偶然は現実世界の側に属すると言ってもいい。想像は個人の身体に宿るものなので、どこかその人の欲望と強くつながっているし、だからこそ想像は嘘やたくらみにも発展しやすい。でも、「虚」に属するものは現実の確かさを前にしては吹けば飛ぶような儚いものだとも思います。個人による嘘やたくらみは一方で、現実世界に生じる偶然によって簡単に破壊されてしまうことが往々にしてあります。そういう偶然と想像の力学は映画をつくるうちに段々と腑に落ちていった感じです。

——『偶然と想像』はどこか『PASSION』(2008)の会話劇を想起させられたりもするのですが、偶然と想像のテーマを前にしたときに、過去のご自身の作品の中で立ち返って考えたもの、あるいは通底しているものはあったりするのでしょうか。

濱口 ちろん『PASSION』に出演された俳優の方々にもう一度出演していただいているので、そういう点では通底しているとは思います。ですが、会話劇は『PASSION』だけでなく結構ずっとやってきたところもあるので(笑)。むしろそこから離れようとしても、結局ここに戻ってきてしまうところとして、自分にとっての会話劇はあると思います。ただ、結局は偶然というテーマを自分の中で発展させ続けていると言えるかも知れません。根本として映画は現実における偶然を捉える必要があります。撮影現場における偶然を捉えようとはずっとしていて、ただそのレベルがどんどん細かなものになってきているという感覚はあります。
そもそも偶然というテーマが自分に降って湧いたのは、『PASSION』で河井青葉さんと岡部尚さんが演技をしている港の埠頭の場面でトラックが入ってくる瞬間でした。あれは偶然なんですよね。トラックがUターンして動くと、河井さんの動きと全くシンクロして見える。よくあんなことが起きるものだなと。何かそういうものを実際に捉えたときに、偶然を現実において捉えることがいかに映画にとって本質的であるか、映画にとって力になるのかを実感するわけです。あれは2テイク目だったんですが、撮りながらずっと「奥から前に向かっていくけど、何か横の動きを入れときゃ良かったな」と思っていた矢先にああいうことが起きたので、「これが演出か!」という気持ちになりました(笑)。『PASSION』の撮影を通じて、演出とはこの偶然をどう配置するのかなんだなと世界の側から教わるところがあって、それ以降、どうやって自分の演出を通じてああいった偶然を起こし、かつ記録していくのかを考えています。たとえばそれは『親密さ』のラストの電車のアプローチにもなっていく。『THE DEPTHS』(2010)のラストもそうですね。またこれも九鬼周造の秀逸な定義だなと思うんですが、偶然性とは「独立なる二元(二者)の邂逅」だと言っていて、ふたつの独立した事象が因果関係なく出会うことこそが偶然なんだと。『PASSION』で起きていることも、『親密さ』で起きていることもそのバリエーションです。2本の電車は別々の行き先に向かっているのだけれど、並走しているそのときにスピードが同じになるとか、縦軸で来る人と横軸で来る車が画面上に重なってしまうのは、まさにそういうものだと思います。ただ、偶然を捉えることが単純な見せびらかしみたいなものにもなってしまうと良くない。見せることで観客は説得できるんだけれど、そのためのツールになってしまうとしたら、それは問題だと思うわけです。実際にひと目で人を説得してしまうような偶然は大仕掛けで何度も起こせない、という制作上の問題もあります。
それもあって今捉えようとしている偶然は、もっと微細なものです。役者の身体とテキストがあり、これは全く別のふたつのラインであると考える。この役者の身体とテキストがたまたま出会う瞬間を記録すること。それは、多くの人に偶然として認識されるものではないかもしれないけど、自分自身はそういうものを段々と感知できるようになってきた気はしているし、微細だからこそ持続的に起こすことが可能なようにも感じてます。その微細さは結局のところ、「えも言われぬ」ものとして観客に働きかけるものになるとも信じています。なので今は役者の身体とテキストとの間に起きる偶然を捉え続けることに興味を持ってます。おそらく『ハッピーアワー』くらいからこの方向に軸足が移ってきていて、そのささやかな偶然を何度でも起こせるように発展させている感じが、今じゃないかな、と。

——『PASSION』のトラックが横切るショットのように、今回も物語とあまり関係のない人が画面を横切るということがありました。第1話ではつぐみ(玄理)が自宅に帰るところで通行人とすれ違ったり、第2話では開けたままの扉の向こうの廊下を多くの人が通ったりします。これらは偶然ということにも関連した演出だったのでしょうか。

濱口 第1話の場面に関して言うと、あれは本当に偶然です。おおっぴらに人を止めたりできない状況で、人通りが少ない場所で撮ってはいたのですが、今指摘された人がたまたま通られた。だけどそのとき我々は「すごくエキストラっぽくて良かったですね」ということでそのまま使いました(笑)。第2話の通行人の存在はもう少し映画の成立にとって本質的な部分ですね。カメラが扉の向こうから研究室を捉えていて、その手前を人物が通り過ぎていくというあのショットを最初に思いつきました。こういう状況は結構サスペンスフルなのではないだろうか、と。あそこは実際は東映撮影所内のスタッフルームなんですけれど、そこを研究室に見立てて、学生のエキストラを呼んで意識的に通り過ぎる人たちを配置しています。同じようにも見えるけれど、第2話は演出で、第1話はそうではない偶然ということになります。実際のところ、「通り過ぎるのか、過ぎないのか」が映画全体として重要なテーマにも結果的にはなっていると思います。

——また本作で印象的なショットとして、各話ごとにズーム・インが使用されています。第1話ではカフェの芽衣子(古川琴音)が顔を手で覆ったタイミング、第2話では間違ったメールアドレスを捉えるパソコンの画面、また第3話では仙台駅前での夏子(占部房子)とあや(河井青葉)のツーショットの場面です。

濱口 最初にズームを使おうと思ったのは、第1話のラストでふたつの時空があるようにしたいと考えたときでした。単にカットで割って提示したのではあまり面白くないなという気持ちになったからです。だけどズーム・インで画角を狭めることで、その間に一度出て行った俳優に戻ってきてもらえば、ワンカットですべて元通りになり、ひとつの強固な持続の中に相異なるふたつの時空があるように見せられる。ただ、このズームが全体通じてあまり浮き立たない方が良いとも思ったので、第2話、第3話でもやってみようということになり、それぞれの使いどころを考えながら進めていきました。考えていたのは、一番ばかばかしくてあからさまな感じで使いたいということで、それは偶然を取り扱っていることとも何か関連があるような気がします。「語り手がいますよ」とはっきりわからせておく。そのダメ押しのようなところですね。それは観客の体験を破壊するかもしれない。でも、その先があるような気がして使っています。

©2021 NEOPA / fictive

——ご自身の映画の中で、これほどズーム・インが使われたのは初めてなのではないでしょうか。

濱口 実はこれまでも結構使ってはいるんです。『PASSION』や『親密さ』『不気味なものの肌に触れる』(2013)でも使ってはいるんですが、意外とあまり指摘されません。ただ、今回のようなあからさまな形は初めてだと思います。おそらく「偶然」というテーマが含むある種の不条理感とズームの相性がよいんだと思います。それに呼ばれた部分があるなと。『ドライブ・マイ・カー』でもよく見ると一箇所だけ使っていますね。手持ちカメラなども普段は使わないけれど、全く否定的に考えているわけではなくて、ズームも手持ちも隙あらば使おうとはずっとしています。

——第2話で奈緒(森郁月)が研究室で小説を朗読している後半部分ですが、彼女を外から捉えるショットがあります。このとき朗読している奈緒の姿は、肩が見切れているだけで顔は見えません。そのあたりが『ドライブ・マイ・カー』の冒頭のシーンとどこか似ていて、まるで音声だけが身体から引き離されて聴こえてくるような印象を受けました。それはむしろビジュアルの問題だけでなく、音声による出会いや運動が起きているとも言えるかと思うのですが、映画の偶然性と関連してどのように考えていらっしゃいますか。

濱口 これは『ドライブ・マイ・カー』に関する野崎歓さんとの対談だったと思うのですが、そのときに「あそこ(冒頭のシーン)は視覚と聴覚が切り離されて聴こえますよね」と指摘されました。現場では視覚と聴覚が切り離されたものとして体験してはいないので、「そうか、ここはそういう可能性があるんだな」っていうことを指摘されてから気づく、というのが正直なところです。確かに実作業として口元がわからないから別のテイクの音を差し替えてみたりしているので、ここはまさに視覚と聴覚のあり方が切り離されている場面だとは思いますが、あまり自覚的ではなかった。こういったことをちゃんと自覚的に扱えるようになると、おそらくゴダールみたいな作品ができるんでしょうが、自分の感覚としては現実同様に画と音のシンクロした世界が基盤としてあるので、それを切り離し、ズレや一致を操作することはあまり自由にやらないようにしています。そういう、視覚と聴覚が切り離されてまた一瞬出会う手付きはゴダールのいわゆる*註1「ソニマージュ*1」でよく感じられるものですが、そういうことはなかなかできない。たまにチャレンジすることもあるんですが、やはり相当なセンスがないと十分に力強くはならない。
自分が唯一狙い定めているものがあるとすれば――これは結局繰り返しになりますが――ある瞬間の声が身体から一段深く響いてくるように感じられるその瞬間かなと。演技の際に役者の身体とその声音はシンクロしている。これは現実では当然だし、映画の画面と音響の構築の仕方としても一般的なことです。ただ、実はその人の内部では、テキストと感情がズレて存在している、ということが往々にしてある。というかそれが基本的な状態なわけですね。ただ、そのズレが解消される一瞬に、「テキストを通じてその人自身が表現される」ような声が響くことがある。その瞬間が、今のところ自分の視聴覚的なズレと一致から求めていることなんだとは思います。そういう一致の瞬間があれば、他のズレた瞬間まで含めて力づけられます。虚実の境界がそこでは揺らいでいて、その揺らぎが非常にダイナミックなものに感じられるからです。

——第2話では作家で大学教授の瀬川(渋川清彦)が受賞する芥川賞や、「佐川」や「ヤマト」といった実在する宅配業者の固有名が登場します。その一方、第3話では冒頭からXeronと呼ばれるウイルスが蔓延しているという大きなフィクションが位置付けられています。本作においてそうした何かを信じさせるためのリアリティラインは、どのように配置されていったのでしょうか。

濱口 リアリティの問題はいまだに難しくて、この間の万田邦敏さんとの対談では「万田さんはリアリティはどう考えているのか」と尋ねたりしました。でもこれは本当に正解はない。ひとつの基準として、「どの程度観客に受け入れられたいか」ということはあると思います。現代においてはコメディでない場合には特に、リアリティがないかぎりは観客との関係が非常に絶たれやすくなるし、つまりは映画を継続的につくり続けることも難しくなります。リアリティというのはどこかで処理しておかなくてはならない問題だとは思っています。そうでなくては観客が現実で使っているタイプの想像力を頼りにすることもできない。特に今回のような低予算映画では、観客の想像力は大きな力になっているという感覚を持っているので、そういった力を駆動させるためのある程度の現実感は手続きとして必要になると思っています。
『偶然と想像』の現実感は、その都度決めていきました。たとえば第1話で言うと、冒頭からファッション写真の撮影をしていますよね。あれは実際にカメラマンの玉越信裕さんに入って撮っていただいて、ファッション撮影の段取りを実際に再現してもらいながらやっています。撮影場所も実際によくそういう写真が撮られているところです。スチールカメラマンの身体性とそのリアリティは、この短い映画の中で「社会」や「職場」を示す上で必要なものでした。また第1話の地理的なリアリティで言うと、物語はほぼ渋谷とか青山界隈の話に完結させていて、その地域を知っている方にとっては「あのあたりね」という感じで見てもらえるものとしてやっています。この地理的な狭さが起こる偶然もある程度正当化してもくれます。
第2話で出てくる固有名ですが、これは単純にそのぐらいの賞なんだということを説明せずとも一瞬でわかってもらうためです。「〇〇賞」っていう架空のものだと、それが一体どの程度権威のある賞なのかっていうラインをまずは観客が探らなきゃいけなくなったり、新たに説明が必要になったりしてしまう。「佐川」「ヤマト」に関しても、日本全国の誰もがその宅配業者を知っている。そこに「〇〇急便」みたいなものを作ってしまうと一個余計に考えなきゃいけないところが出てくるので、すんなりそこを通していくために配置しました。
第3話に関しては、コロナ禍という状況を入れ込むか否かということを選ばなくてはならない状況が撮影するにあたってありました。脚本自体は2019年のうちに書いていて、9割ぐらいがそのままの話なんですけど、仮にコロナ禍という設定にしてしまうとできないことが多くなってしまう。家に呼ぶとか触るとか、何かそういうことのリアリティが一気にぐっと下がってしまう。この物語を保ちたいと思えば、コロナのない世界としてやるしかないけれど、目の前の状況を全く無視するのも何だか気持ち悪い。なので現実の状況を反転させたSF的な設定を加えました。つまり我々は当時ロックダウン的な状況下にありオンラインでのみコミュニケーションできたけれども、この物語世界ではインターネットがシャットダウンされたなか、オフラインでのみ自由に会えるような状況にしている。これは『ドライブ・マイ・カー』でやっていることに近いのかもしれませんが、物語冒頭で大きく嘘をつくことでリアリティの線引きを観客と共有した状態、つまり「これはそういう世界なんですね」っていうところから物語を始めています。第3話は、全体の道具立てとしてはかなりリアルな世界でもあるので、その設定との落差を楽しんでもらうようにしました。今の世界とちょっと前の世界を二重写しにできるように、ということですね。ただ、何であれリアリティは観客にフィクションへという船に乗ってもらうためのタラップみたいなものでしかなくて、それはゴールでは全くないと思っています。

——第3話の中で、夏子があやの夫について「夫さん」という呼び方をするシーンがありました。あまり聞き慣れた呼び方ではないかと思います。

濱口 これは自分が実生活で最近よく陥る問題でもあります。「他人の配偶者を何て呼べばよいか」問題が世の中にはある(笑)。「パートナー」が最もフラットな言い方になるんですけど、おそらく日本人の7、8割くらいは「パートナー」と言われると、きょとんとしたりぎょっとしたりするっていう状況がある。それで「奥さんが」とか「旦那さんが」みたいなところに結局流れるんだけど、抵抗もあるから「こういう呼び方が流行らないかな?」っていう気持ちでやっています(笑)。まあ「夫」だったら良いのかとか、「妻」だったら良いのかというのもまたありますが。占部さんが演じた夏子もそこに違和感を感じているわけです。だから最初に夏子は「パートナー」って言いますよね。けれどもその呼び方があやにはあまり通じてないことがわかるので、すかさず「夫さん」という呼称に切り替える。そういった微妙な感情の流れや関係性の変化があの呼び方に反映されています。

——「夫さん」と呼ぶシーンの他に、第1話から含めてそれぞれの登場人物がどこか相手のことを傷つけないようにするため、あるいは相手を傷つけてはいないためのポージングを意識しているように思いました。たとえば第2話の扉を開けたままにすることはアカデミックハラスメントを防止するためであったり、第1話の芽衣子はあえて相手を傷つけるような言葉を発します。とりわけズーム・インの場面は、相手を傷つけようと考えてやめるシーンですが、このことは今回の3つの短編の中で意識的に組み込まれていたのでしょうか。おそらく先ほどおっしゃっていた撮影現場の体制のお話にも繋がるのではないかと思います。

濱口 第1話が本当にそのような形で終わっているかは保留しますが、ポージングというよりは自分がどういう人かをプレゼンテーションしている、という感じですかね。そういう「傷つけないような」人との距離感を複数の人物が持つのは良きにつけ悪しきにつけ自分の感覚の現れと思います。撮影現場で見ても色々な関係の可能性があるわけです。ざっくばらんにやるのが良いとか、踏み込んだことで生まれてくることというのは多々あったりするので、そういう関係が望ましいという考え方は当然あると思います。でも自分自身としては、人との距離感は結構離れたところから始めたいので、スタッフのそれがあんまり違うとやりづらいということはあります。おそらくそれはキャラクターにとっても同じで、なかには芽衣子みたいにズケズケした存在もいますけど、『偶然と想像』は自分自身の他人との距離感を反映してそういった距離を測る人物たちが複数登場するのは確か、という気はします。ただ、別にそれが正しいと思っているわけでもないです。

——芽衣子の他に、第2話の佐々木(甲斐翔真)というキャラクターも本作においてある意味ズケズケした存在だと思うのですが、彼をラストに映すことで、どこか孤独を背負わせて終えているようにも感じました。

濱口 そこで表現されているものが孤独かどうかは、特に考えていません。脚本上誰で終わらせるのが妥当なのかということを考えたときに、ここは彼だろうという気がしました。ここでは彼の世界が一番揺らいでいるからです。彼が持っていたある種の確固たる世の中とはこういうものだろうという世界観が揺らいでいる。不意を突かれ、思い通りにならないものが現れた場面でもあるので、最も感情的なブレが大きくなっている人にフォーカスを当てた、ということなのだと思います。奈緒をあれ以上カメラで追っても観客に与えるものはもうそれほど多くはなくて、彼を最後に映した方が観客から引き出せるものがあるかな、と判断した結果だと思います。

——先ほどの「夫さん」の問題に関連して、第3話では非規範的なセクシュアリティを生きる女性について描かれています。またあるインタビューではご自身が男性であることを明言されていましたが、女性同士の関係をシナリオ上に書き起こすとき、あるいは演出される際に気を付けられていることはあるのでしょうか。

濱口 女性同士の会話は自分にとっては一番難しいところです。第1話のタクシーの車内の会話は、喫茶店の隣のテーブルから聞こえてきた女性たちの会話が参考にしてるのですが、大前提として女性同士の会話は想像するしかありません。女性同士が話している映像などを見たりすることはできますが、原理的に自分が生々しくそれを体験することは不可能です。だからあくまでその想像の拠り所を、できるだけ確かなものにしようとすることしかできないと思います。自分と話している女性のありようから、この女性が他の女性と話しているときはこんな風なのかもしれないって想像する。あるいは女性が多い場に自分も混ざって、相対的に自分が少数派になっているとき。そういうときに女性同士が話していることを「ふむふむ」と聞いた経験が元になっている。あとはひたすら想像するしかない。でも結局のところ、このことはすべてのキャラクターに言えることです。誰も自分ではないわけで、自分ではないキャラクターをできるだけその人が生きてきた状況や、いくつもの要素を抱えたこの人が今この状況でどうするか、を想像していく作業にはなってくる。ある時期から女性を描く際に――そういうことが暴力的になったりする可能性もありますけど――あまり「自分とは違う存在」と考え過ぎないようにしようとは思っています。正確には『ハッピーアワー』くらいの時期ですかね。自分と全く違うと考えてしまうと脚本が書けなくなってしまうので、究極的に通ずるところはあるはずだと思いながら書いていくしかない。一方で結局のところ他人であるし、想像なのだから、それがリアルでないのは当たり前なんだと受け入れることも必要です。なので、あくまで目指しているものとしては、いわゆる「リアル」ではないんだっていうことをちゃんと自分に言い聞かせる。あくまでその物語構造の中のキャラクターの行動原理を通すことに傾注する。ただ、究極的には、このテキストは映画のなかで自分が演じたり表現をするわけではない。それが肝だと思います。一人ひとりの役者の身体の方がより重要で、その身体にちゃんとテキストが受け入れられれば、その人の言葉として聞こえるものが必ず出てきます。それがフィクションに固有のリアリティになります。そのことは経験として知っているので、最終的に演者にとっての違和感がないようなテキストを書いて渡すことを心がけるようにしています。

——ご自身が脚本を書くとき、女性から意見を伺ったり、俳優に対して女性という立場からの意見を求めたりすることはあるのでしょうか。

濱口 少なくとも「(役者/役に対して)女性として」という聞き方はしません。「あなたはどう思っているんですか」という聞き方にはなると思います。それで「何か違和感はありますか」ということを聞いていきます。仮に違和感がないと言われたとしても本読みをしていてどうしても言いづらそうだなと思ったら変えていくとか、そういったアプローチになっていきます。性別はもちろん重要な要素ですが、それだけが決定的な要素だとは考えません。基本的にはあくまで個別の歴史を持った存在として、キャラクターのことも考えています。

——これから制作予定の4本の短編に向けて、ご自身の中で考えていらっしゃることを教えていただけますか。

濱口 プロデューサーの高田聡さんには「全7話でこういうものをやります」ということで最初に見せてはいるのですが、正直変わるかもしれません。ただ、やろうと思ったとき、今やるべきだと思ったときに、持っている話の種をそのときに向かう方向へ発展させてみることできれば一番良いのではないかなと。ちゃんと完結させることができれば、今後もシリーズ制作は、自分の実験の場になっていくのではないかなと思っています。

*1 ソニマージュ Sonimage:1972年にジャン=リュック・ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルによって設立された映画製作会社。また「ソニマージュ」とは音響(son)と映像(image)の対等な融合を意味する。

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