恵比寿ガーデンシネマにて絶賛公開中の『あの夏の子供たち』。フランス映画祭にて来日していたミア・ハンセン=ラブ監督にインタヴューを行った。
彼女の長編処女作である前作『すべてが許される』は、みずみずしさとともに古典的な風格さえも備えた作品であり、新たな若い才能が登場したことを高らかに宣言するものであった。『あの夏の子供たち』は、その処女作のプロデューサーを務めるはずだったアンベール・バルサンというひとりの男をモデルにしている。だが、ハンセン=ラブと彼の共同作業は、彼が自ら命を絶ったため実現しなかった。
『あの夏の子供たち』における、父親の死と少女たちの成長といった題材は、前作から共通して彼女が描き続けているものだ。散在する細やかな断片をつなぎ止めるようにしてひとつの世界を構成していた男が、その作り上げた世界から姿を消してしまうとき、残された者たちはそれをどう受け止めることができるのか。安易な解決など見いだせないテーマだ。
しかし、揺るがしがたい現実の重苦しさだけでなく、どこか清々しい思いすら彼女の映画に見いだしてしまうのは、一回限りの喪失でさえもが、それを包む大きな流れの一環であるかのような気がしてしまうからだ。季節が繰り返すように、淡々と時間は流れていく。あるいは歌い継がれてきた古い歌が、もう一度歌われることで新たな生命を持つように。
冒頭、パリの街路を映し出した短いショットの連鎖から、『あの夏の子供たち』は始まる。主人公グレゴワール(ルイ=ドー・ド・ランクザン)は週末に家族と過ごす別荘へと向かう途中だ。その最中でさえ、彼は仕事の電話を続けている。グルジア人との会合のこと、待機中である韓国人監督の作品のこと、進行中の映画のこと。彼の関わっている仕事ーー映画の製作ーーについての部分的な情報が矢継ぎ早に提示されるが、観客がその全貌をうかがい知ることは出来ない。そこに妻から一本の電話がかかり、彼の家族との生活へと映画は移行する。そこまで非常に速いテンポで展開する。
MHLまず私が望んだのは、登場人物のリズムにぴったり寄り添うことでした。そもそも『すべてが許される』はかなりゆったりしたリズムの作品でした。なぜならメランコリーについて語っていたからです。『あの夏の子供たち』のシナリオを書いているとき、こう考えました。これはまたしてもメランコリーについて語る作品だが、同時に速度(速さ)についても語るのだと。つまり普通は正反対だと思われているものを選択して、メランコリーについて語るわけです。とはいえ実際ふたつの作品は結局のところ通じ合っています。根を張ることや両足を大地から離さないことの難しさ、乗り越えられない苦しみ、時間の推移など、多くの共通したテーマを持っています。そして、速度や同時代の世界についての作品によってそれらを語ることが、私には非常に興味深いと思えました。
グレゴワールが我が家に辿り着いたとき眼にするのは、その日子供たちが作り上げた花壇である。幾種類かの植物によって作られた花壇。その全体をではなく、それを構成する部分のひとつひとつを観客は眼にする。ひとつひとつの植物の名前を末娘が呼ぶごとに、父は手に持った懐中電灯の灯りを、その名指されたものに投げかける。ここではまるで、娘がそこにあると指示したものを、父親の視線が追いかけているかのようにも見える。
MHLそもそもこの作品は父親の視点も子供たちの視点も、どちらも採用していません。言うなればこの作品は父親を「追いかけて」いるのです。これは視点を採用することと同じではありません。つまり彼はある世界の軸として存在しているのです。重要なのは彼が全エネルギーを使い、生涯をかけて何かを創造する姿を見せることです。彼が全速力で走り、最後には崩れ落ちる姿を私は見つめるのです。だからこそずっと彼を「追いかけ」るのです。また同じく重要なのは、亡くなった後の彼が、それでもその不在によって強く存在するのを見せることでした。それもまたこの作品の主題です。
あと、これはあるシネアストが言ったことですが、映画における子供たちというのは他の俳優たちや、ときにシネアストさえも脅えさせま す。彼らは一瞬にしてスターの座を奪ってしまうのです。ひとりの子供の存在はとてつもなく大きくて、すぐさまそのシーンの中心になってしまいます。もしそ うならなければ、逆にその子供は作品に道具化されているのでしょう。しかし生き生きした存在と自由とを愛する子供であれば、かならず中心になれるのです。 だからこそ子供たちのシーンでは即興演技にかなり力を注ぎました。しかも即興で勝利を収めるのはルイ=ドーではなく、いつも子役の女の子たちでしたね。
さっきあなたがおっしゃったシーンは、ルイ=ドーと子役たちが一緒に出る最初のシーンのひとつでした。ルイ=ドーは台詞ーーとはいえ通常のシナリオで はなく一種の土台のようなものですーーを完全に覚えてきました。 でも私は子役のひとりには、台詞を覚えて来ないようにと言っておいたのです。だから彼女は書かれたこととはまったく別のことばかり口にしました。ルイ= ドーは即興に慣れた役者ですが、それでも最初はかなり困ってしまって、彼女に本来の台詞を言わせるよう苦心していましたね(笑)。彼女の自由さには本当に 驚きました。彼女はルイ=ドーよりものびのびしていました。しかも徐々に彼に影響を与えていき、最終的に彼を自由でファンタジーに溢れた場所へと連れていってくれたのです。
前述の花壇のシーンとよく似た場面がもう一箇所ある。イタリアへの家族旅行で訪れたラヴェンナの古い聖堂。父娘は並んで腰掛け、天井に描かれた華麗なモザイク画を見上げる。父は娘たちに、なにが見えるか言ってご覧と呼びかける。娘たちがそこに描かれた細部を読み取る。彼女たちが見た部分をカメラは追う。まるで、この映画はここに登場するモザイク画のように構築される。その家族や、仕事仲間、それぞれに異なった関係を持ち、互いには無関係であるような細かな断片が組み合わさることで、グレゴワールという男の生は(その死後を通じてさえ)ひとつのモチーフとして描き出される。
MHLモザイク的というのは、この作品で私がやろうとしたことを言い表すのに的確な表現だと思います。前作では主にひとりの登場人物を扱い、また物語もシンプルに一本のラインに沿って進みました。逆に今作では、たしかにひとりの男性が中心にいるとはいえ、登場人物たちをより豊かにしたいと考えました。それによって自分自身を多様性へと、また世界へと開くことができました。ここで言うのは旅や外国という意味での世界であると同時に、多様な人間たちの関係が存在するという意味での世界です。つまり私は前作に比べてよりルノワール的な作品を作ろうとしたわけです。
多額の借金とそれによる製作の難航から、グレゴワールは拳銃自殺を遂げる。いや、この言い方は適切ではなく、彼が死んだ理由などここでは描かれていない。それは突発的な事件であるかのように起こる。彼の死によって周りの人間には劇的な環境の変化が待っている。それでも、彼の死の後も、残された者たちにとって時間は同じ速度で流れていく。
残された家族がすべて女性であることは、この映画の後半におけるある種の力強さを決定づける要素に思える。三人の姉妹と母親。なぜ残された家族は女性でなければならなかったのか。
MHLまず単純な理由として、私は男の子よりも女の子との方が楽に仲良くなれるのです。だから女の子たちを演技指導する方が心地良いのです。それに自分にはどこか子供たちに近い部分があると思います。たとえば女の子たちが遊んでいるシーンで、私は本当に彼女たちと同じ目線で、彼女たちが理解できる言葉でコミュミケーションを取れました。それが男の子となると……、できるかどうか不安ですね。
また他にも理由があります。アンベール・バルサンにも女の子の娘たちーーもちろんもっと大きな娘さんたちですーーがいます。バルサンはこの作品のインスピレーションとなった人物です。一度だけ彼の娘たちを見かけたことがあります。彼の葬儀のときでした。彼女たちの姿は動揺に近い感動を私に与えたのです。彼女たちなくしては、この作品を作ろうと思わなかったはずです。
それからもうひとつ、ちょっと些末な理由もあります。前作『すべてが許される』では16歳の少女と、彼女の6歳の妹に出演してもらいました。ふたりに歳の違う同じ役を演じてもらったのです。ほとんど奇跡でしたね。というのもまず最初に16歳の少女を見つけたのですが、彼女にはよく似た妹がいることがわかって、すぐに妹にもオファーしたわけです。彼女たちと多くの時間を一緒に過ごして、すごく仲良くなりました。彼女たちの家族はミリー・ラ・フォレに住んでいて、家族全員と本当に素晴らしい時間を共にしました。この家族のおかげで、ロケ場所となったチャペルも発見したのです。この家族には調和や陽気さ、そして生きる喜びが満ちあふれていて、その姿はとても感動的でした。実は彼らこそ、今作の隠されたインスピレーション源なのです。
父親の死をきっかけにして、娘たちは彼の残した作品を見、彼が仕事をしていた人間と知り合う。そこには何かが生まれつつあり、しかし一方で困窮する状況を好転させることも出来ない。家族は遂に住み慣れた街を去ることになる。
そこでドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」が流れ出す。それは「なるようになる」という無根拠な楽観主義に裏付けされたものではない。
MHLこの歌が存在していること自体、私にとってはまるで奇跡のようでした。もちろん何十年も前から存在している歌ですが、撮影の準備段階で偶然久々に耳にしたとき、これはこの作品のために書かれたとすら思ってしまったのです。その歌詞、曲のトーン、世代から世代への移り変わり、子供たちに向けて母が歌っているということ……、すべてがこの歌のなかにあります。メロディ自体も『あの夏の子供たち』にぴったりだと思いました。ヒッチコックの『知りすぎた男』のなかで聴いたときすぐに好きになった曲でしたし、そもそも私の母が小さいころに歌ってくれた曲なのです。
よく周りから「あの曲で、あの終わりは良かったね。すごく陽気な感じだよ」と言われますが、実際私はあの曲を聴くと、心が揺さぶられて涙が出てしまいます。と同時にあそこには、一種の透明な穏やかさ、聡明さ、運命を受け入れること、それから……、時間の推移があります。そうですね、なぜこの曲かというのに完璧な答えは言えませんが、まさに「時間の推移」にこそ、私は心震えるのだと思います。
2009年/110分/ヴィスタ/カラー
監督・脚本:ミア・ハンセン=ラブ
撮影:パスカル・オフレー
編集:マリオン・モニエ
出演:キアラ・カゼッリ、ルイ=ドー・ド・ランクザン、アリス・ド・ランクザン
オフィシャルサイト:http://www.anonatsu.jp/
1981年、パリ生まれ。オリヴィエ・アサイヤス監督の『8月の終わり、9月の初め』(98)、『感傷的な運命』(00)への出演をきっかけに、国立高等演劇学校で演技を学ぶ。その後カイエ・デュ・シネマにて批評活動を行いながら、短編映画を監督。長編処女作『すべてが許される』(07)はカンヌ国際映画祭監督週間にて上映され、ルイ・デリュック賞を受賞。
二作目となる本作『あの夏の子供たち』にて、カンヌ映画祭《ある視点》部門の審査員特別賞を受賞。
取材・構成=結城秀勇、写真=鈴木淳哉