エンディングテーマ曲であるももいろクローバーの「行くぜっ! 怪盗少女」が気持ちよく終わった瞬間、42分の中編映画を見たとは思えないほどの充実感と疲労感がおそった。真利子哲也監督の最新作『NINIFUNI』は42分間をフルに使い、一寸も休ませてくれない。
1. 予測のつかない男
何かしでかしそうな殺気立った男がふたり国道沿いを歩いていくところからこの映画は始まる。そして彼らはこちらの思った通り、行動を起こす。
その次のショットで男は宮﨑将ひとりになる。彼は先の殺気とは違った、ネガティブでもやっとした危うさを身にまとっていながら、亡霊のようにフラフラと歩きまわり始める。すると、こちらは先ほどのように何かが起こるのではないかと緊張を張って待ち構える。国道を渡ろうと中央分離帯に立つ彼を見て、向こうからくるトラックに飛び込むのではないかとハラハラし、コンビニで棚の前にじっと立つのを見て、万引きするのではないかとドキドキする。さらにそこで異常なほど轟くトラックの走行音が加勢し、直前に見た空のペットボトルや紙袋に冷めたポテトを食べる姿が脳裏をよぎる。内部からも外部からも強いられてどんどん高まる緊張。そして次の瞬間、男の動きがはたと止まる。何かが起こる……。固唾を飲む。が、何も起きない。轟音を立てながらトラックは目の前を先で通り過ぎていくだけ。コンビニもカットが切り替わった瞬間、停車した車内に移り温かいお湯が注がれたカップ麺をすすっている。
まあ、こちらの勝手な緊張損、期待損でしかない。しかし、そんなことを自省する間もなく、また次のシーンで思わせぶりな態度をとり、内外から煽ってくるので、次こそは、と懲りずに再度、勝手に緊張と期待を高揚させて固唾を飲む。が、こちらのそんな行為を嘲笑うかのごとく、いっこうに何も起こってはくれない。その繰り返し。そして、そんなこちらの緊張の緩急なんかお構いなしに、気づけば何も起こさずに、男は人気のないさびれた海岸の一角に車を停めて、静かに車内に身を落ち着かせてしまうのだった。
©ジャンゴフィルム、真利子哲也
2. 予測のつかないアイドル
その後、登場するのは男とはまた違う意味で予測がつかない少女6人組みのアイドルグループ、ももいろクローバー(通称「ももクロ」)である。男がネガティブな危うさならば、こちらはポジティブでバイタリティに満ちあふれた底なし感だ。枯草がまばらに生えた寒空の海岸でジャージとベンチコート姿にもかかわらず、ロケバスを降りた瞬間から笑顔とはしゃぎ声が絶えることはない。メイキングのカメラに向かっても元気よく自己紹介。「釣りしたーい」「海に入りたーい」というこれまた驚きのコメントまでつけてくれる。
そして気温一桁と思われるにもかかわらず、防寒具を脱ぎ捨てて半袖ミニスカートの戦闘服に。メロディが鳴りはじめ、マイクを片手に歌い踊りだした途端、彼女たちを中心に膨大なエネルギーがそこに渦巻き、熱量がみるみる増幅していく。毒々しく不気味なバルーンも一舞台セットに早変わり。体感温度も10℃ばかし上昇。さびれた海岸もビーチと呼びたくなってくる。もちろん画面を少し外れたところにいるはずの宮崎将演じる男の存在なんて微塵も感じさせないし、あんなに執着していた男の印象すらも薄くなってしまう。彼女たちにただただ圧倒されるばかり。誰がこんなことを予測していただろうか。
いまや、真利子監督も圧倒されたという彼女たちのパワーによって映画は占拠されている。草陰の隙間からその姿がのぞいただけでも目に留まってしまうほどだ。
3. ふたつの間を浮遊するもの
男とモモクロ。真利子監督はこの異なる予測のつかないものたちを画面上で出会わせてしまう。それが多くのものを魅了したあのシーン。赤と青のグラデーションに染まった空を背景に、車に収まった男と車の窓越し見えるモモクロのコラボレーション。画面に映った壮絶さに畏怖の念を抱かずにはいられない。ただただ驚愕するしかないのだ。
そこでこの両者を並べて二項対立で語りたくなってしまうのだけれども、そこをぐっと抑えて思い返してみると、ひとり忘れていたことに気がつく。撮影のプロデューサー的ポディションにいると思われる山中崇演じる男性だ。彼も数少ないこの映画の登場人物のひとりなのだが、彼は予想もつかないというよりも、とくに気を引くこともない、いわばエキストラに近い存在だったため、あやうく忘却の彼方へと消してしまうところだった。
しかしあらためて考えてみると、あのプロデューサーの存在はかなり謎めいている。彼は撮影場所の海岸をとりとめなく動いているだけで、とくに作業という作業は何もしていない。あえていうなら挨拶まわりくらいだろうか。彼の動きを見ているとピンボールを思い出す。仕事というフリッパーに打ち返されながら、挨拶したらきびすを返して歩き出し、また挨拶をして……と海岸じゅうを時間切れになるまで止まることなく転がり続けている。そして、どうやらあのプロデューサーは球として優秀なようだ。宮﨑将演じる男が乗った車を発見しても、一般的に考えれば多少なりとも驚きや動揺はあるだろうに、撮影の邪魔にはならないという判断だけ下し、やはり留まることなく、別な場所へと転がっていく。彼からしてみれば男もももクロも仕事の一要素として同等であり、共存する。つまりは、あのシーンのようなことが男のなかではすんなりと起きてしまうのだ。
とはいえ、実際に映画を見ているなかで気になるのは、彼のそのとりとめのない動きではなく、彼の動きの先にある、視線の先にあるもの、車とモモクロである。なので、いわば彼は視線を誘導する媒体でしかないのだが、それを上手くいいかえると、彼は観客の役割を引き受けているとも受け取れる。現に、カメラは彼に合わせて動くため、画面もそれを見ている観客も彼とともにピンボールのように浮遊する。そしてまた、彼同様に対極だと思われるふたつのものを映画の一要素として受け止め、共存させてしまう。
対極に位置すると思われるふたつのものと、その間を浮遊するもの。その3つがそろっているならば何か起こってもいい気もするが何も起こらない。そして何も起こらない、起こさないのに、3つを画面で共存させてしまう。それこそ『NINIFUNI』の恐ろしいところではないだろうか。これが90分以上の長編ならばどうなるのだろうか。それを考えると、勝手ながらに想像を膨らませずにはいられない。そして、その裏をかかれるのを今か今かと待っている。