2003/02/21(fri)
『青の稲妻』ジャ・ジャンクー

 

 

 銀行の前からバイクに乗ってシャオジイが逃げ出した後、空が曇っていた。稲妻が光り、雨が降った。ただ曇っているだけだと思ったら、雨が降っていた。降っている雨がよく見えなかったので、よくわからなかったが、あの道路をクルマが向こうから通り過ぎたとき、タイヤがバシャバシャと水を撥ね上げる音がした。バイクに乗っていたときは、バイクの音でその雨の音はわからなかった。それまでも道路をクルマが通るシーンはあったが、主人公たちが薄着だからか、雨が降る前だったからか、木が生えてないからか、瓦礫が多いからか、暑そうで、埃っぽいように見える。ダンプカーが通るのも、バイクの音も、乾いている。それとも、沙漠だから乾いているのか、郊外だから乾いているのか。郊外なのか、沙漠なのか。ずっと同じ日のように、「いま」は「いつ」なのか。日付はテレビが与えてくれる。工場の爆発なんて見えない。閃光も見えない。
 道路は整備されているようだし、高速道路ももうすぐ通る。看板もある。クルマがたくさん通っている。バイクは速く走るために乗っているのではなく、どこかへ移動するためでもない。道路を走っているクルマとは違う。道路のクルマは近隣の住民のものだろうか、北京へ行くのだろうか。街中の通路は壁で囲まれていて、広いところは、コンクリートの破片の地面か、土ばかりの空き地だ。道路の先は見えないし、バス・ターミナルの放送しか聞こえない。遠くに見えるのは、工事現場の土の山か、工場か、ショベルカーか。主人公たちは、そこで働いているわけでもない。「世界」というのは、「ここ」ではなく、「道路」や「貿易」や「オリンピック」や「米軍機」や「法輪功」や「コーラ」や「1ドル札」、とかだろう。「銀行」はワープゲートではないし、1ドル札は換金できない。ヤクザは死んでしまうし、軍隊には入れない。クルマに乗れば何かできるのだろうか。クルマのなかに聞こえてくる外の音は、ガラスを震わす。北京はどこにあるのか。

(清水一誠)

 

2003/02/19(wed)
『パンチドランク・ラブ』ポール・トーマス・アンダーソン

 

 

 赤から紫へと徐々に変化していく色彩の帯である虹は、雨があがり日光が強く射しはじめるその変化の過程に、姿を見せる。この映画の冒頭、倉庫のシャッターを開けると見える夜明けの空にも、それに似た色彩の帯が浮んでいる。雨から晴れ、夜から朝。フィルムの要所要所に導入されるジェレミー・ブレイクの色彩の帯によるアートワークも虹のようで、『マグノリア』の天候は「雨ときどきカエル」だったが、『パンチドランク・ラブ』では「雨のち虹」か、と思ったりもする。
 思ったりもしている目の前で車がいきなり横転し、ガラスが割れ、トイレが荒らされる。その爆音が不意に襲う度に、音の所在の在り処が曖昧になっていく。ハーモニウムの音はBGMの中に紛れ込んでいくし、アダム・サンドラーが便器を殴る音はどう考えても増幅されたバスドラの音か、おもいっきり歪んでハウったベースの音だ。受話器から聞こえるエミリー・ワトソンの甘い声は、ここではないどこかから聴こえてくる。寄りに寄った狭い構図のどこから音が聴こえてくるのか。すべての積み重なり、くぐもり、加工され、行方しれずになった音の向こう側で、フィリップ・シーモア・ホフマンの「シャ、シャ、シャ、シャ、シャラップ!!」という声だけが生で響く。
 もはや、雨の降った地域を調べて虹の出現を予測するなんてできない。というかこの虹は、大気中に自由に散乱した水滴が織りなす光の屈折の、きれいではかないスペクタクルなんかではない。重油の表面できらめく光のように、行き場のないところに閉じ込められた光が運動して、自らを構成するいくつかの色彩の束へと分解されていく。何度か画面を横切ることになる、ハレーションをおこしたような光は、そんなヘヴィな虹だ。

(結城秀勇)

 

2003/02/19(wed)
『ロベルト・スッコ』セドリック・カーン

 

 

 ロベルト・スッコはもちろん謎そのものだ。この男に「幼少期のトラウマ」だとか何とかの言葉を当ててもどうしようもないし、「生き残りの革命家」などもまた然り。
 彼の走らす車が必ず行うUターンは、この男がアクションに留まるために必要だったということだ。ハンドルを握ればアクシデントを起こそうと必死だし、上空を飛び回るヘリコプターもアクションへのオブセッションだ。しかしスッコはアクションに失敗し続ける。そして、ヘリコプターとは、アクションが飽和する境界線にホントかウソのように登場してしまうのか?
 もちろんスッコは暗闇で、そこから生まれ続ける男なのだが、実はもっと恐ろしいのが、薄暗闇でにらみをきかす子供だ。母親とともにスッコに誘拐され後部座席に乗せられた子供は薄暗闇のなかでスッコを睨む。憎しみとも軽蔑とも、あるいは絶望ともいえるこの顔に彼は恐怖を抱き、この子供に引っ張られるようにしてアクションとは違う次元に向かう。望む望まないに関わらず。
 ただ、そろそろ「海」はいいかな、という感じ。海岸の暗闇で波音とともに生まれたロベルト・スッコよりも、脱獄して登った屋根で「オレはマルクス主義者だ!」とかペラペラ(『かごの中の子供たち』のジャン=ロジェにすら、スッコはもうなれません)叫ぶ、あの薄っぺらな「ロベールトッ!」がこれから必要だろう。セドリック・カーンもきっとそれを知っている。

(松井宏)

 

2003/02/11(tue)
『オールド・ルーキー』ジョン・リー・ハンコック

 

 

 家族には会話が大切だ。これを野球で言うと、キャッチボールというやつである。
 映画で会話といえば、切り返しである。対話するふたりを同じ側から斜め45度で撮影し編集で積み上げていくこの手法は、会話のシーンを撮る際に最もスタンダードなやり方である。原則的には、ふたりをいちいちパンして撮ったり、初めからふたりが映るようにヒキでカメラを据える方法でも、同じシーンが撮れるはずである。しかし切り返しはストーリーを語るのに最も効率的なやり方だとされる。つまり、速い球でのキャッチボールが可能になるということか。
 ジミー・ルイス(デニス・クエイド)は中年の理科教師でありながらも156km/hの速球を投げる。彼が初めて人前で投げる、手を抜いた速球はヒキで撮られ、柵越えの打球を教え子に打たれる。彼が本気を出すに連れ、彼の投球はパンで、続いて切り返しで撮られる。投手と捕手の間の距離を喪失させる速さへとボールは近づいていく。
 このボールの速さと会話は関係がある。ジミーが全力で速球を投げることに反対する人物がふたりいて、ひとりは妻、もうひとりが父である。妻は文字どおり女房役を演じなければならないことにうんざりしている。ソファに腰掛けた彼女を夫が見下ろして会話する姿は、マウンド上の投手としゃがんだ捕手の位置関係である。一方的に投げられる球を捕るだけの会話を断ち切り、彼女がポーチに腰掛けた夫を見下ろして放つ言葉が、速球での会話を可能にさせる。あとはもう幾らふたりの距離が離れようが、電話という距離を無効にする道具によって速球でのキャッチボールは成り立つ。
 最高の舞台、メジャーリーグのマウンドでジミーは最高の速球を投げる。カメラは正面から投手の顔をアップで捉え、続いて二塁側からミットに収まるボールを追う。それを3回。バッターはアウトになり、速さの徴のそのボールは老いたルーキーからその父へと手渡される。会話が始まる。
 156km/hの直球にはちょっと感動した。でも本当は変化球投手が好きだ。

(結城秀勇)

 

2003/01/19(sun)
『スコルピオンの恋まじない』ウディ・アレン

 

 

 家族には会話が大切だ。これを野球で言うと、キャッチボールというやつである。
 映画で会話といえば、切り返しである。対話するふたりを同じ側から斜め45度で撮影し編集で積み上げていくこの手法は、会話のシーンを撮る際に最もスタンダードなやり方である。原則的には、ふたりをいちいちパンして撮ったり、初めからふたりが映るようにヒキでカメラを据える方法でも、同じシーンが撮れるはずである。しかし切り返しはストーリーを語るのに最も効率的なやり方だとされる。つまり、速い球でのキャッチボールが可能になるということか。
 ジミー・ルイス(デニス・クエイド)は中年の理科教師でありながらも156km/hの速球を投げる。彼が初めて人前で投げる、手を抜いた速球はヒキで撮られ、柵越えの打球を教え子に打たれる。彼が本気を出すに連れ、彼の投球はパンで、続いて切り返しで撮られる。投手と捕手の間の距離を喪失させる速さへとボールは近づいていく。
 このボールの速さと会話は関係がある。ジミーが全力で速球を投げることに反対する人物がふたりいて、ひとりは妻、もうひとりが父である。妻は文字どおり女房役を演じなければならないことにうんざりしている。ソファに腰掛けた彼女を夫が見下ろして会話する姿は、マウンド上の投手としゃがんだ捕手の位置関係である。一方的に投げられる球を捕るだけの会話を断ち切り、彼女がポーチに腰掛けた夫を見下ろして放つ言葉が、速球での会話を可能にさせる。あとはもう幾らふたりの距離が離れようが、電話という距離を無効にする道具によって速球でのキャッチボールは成り立つ。
 最高の舞台、メジャーリーグのマウンドでジミーは最高の速球を投げる。カメラは正面から投手の顔をアップで捉え、続いて二塁側からミットに収まるボールを追う。それを3回。バッターはアウトになり、速さの徴のそのボールは老いたルーキーからその父へと手渡される。会話が始まる。
 156km/hの直球にはちょっと感動した。でも本当は変化球投手が好きだ。

(結城秀勇)

 

2003/01/19(sun)
『K−19』キャスリン・ビグロー

 

 

 自分の10歳前後までの人格形成の過程の中で、藤子F富士夫の存在はいくら強調してもいい。何しろ性の目覚めは「エスパー麻美」、物語の理不尽さを悟ったのは「パーマン」だ。その影響は計り知れない。なぜにこんな話から始めるかというと、この映画を見ながら、ふいに長編「ドラえもん」の第4作に当たる『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』を思い出してしまったのだ。80年代の長編「ドラえもん」の中でも傑作のひとつに数えられるこの作品は、シリーズ中でもひときわ黒い魅力を放っていた。数千年前に滅んだ帝国の自衛装置が、海底火山の噴火に反応して世界を滅亡させるという設定だけで小学生の私は眩暈を起こしそうだったが、蛮勇のために深海で溺死するジャイアンとスネ夫の苦悶の表情、万策尽きたと見るやしずかのために特攻して果てるバギーちゃんの姿、そして何より全編を覆う圧死と爆死に対する恐怖は今でも私の心の奥深くで蠢いている、ような気がする。
 圧死と爆死。K19の乗組員が置かれた状況もまた、これらふたつの末路をいかに回避するかにかけられる。水圧に耐えかねて悲鳴を上げる装甲、ケロイドにただれた肌を引きずる乗組員、溶鉱炉の温度は上昇を続ける。絶体絶命だ。ハリソン・フォード演じる艦長が下した決断は、つまりその状況を転覆すること。圧死でも爆死でも構わない。これらを回避するのではなく、むしろ進んで引き受ける代わりに、それらの出来事を世界から消し去ること。そのためには、より深く沈まなければならない。潜水艦乗りは「沈む」という言葉を嫌って「潜行」と言うらしい。「潜行」は常に「浮上」と対になっている。「浮上」の可能性を切り捨てることで「潜行」は「沈降」に変わる。「潜る」のではなく「沈む」のだ。重力に身を任せて、ただ落ちていく。
 しかし、死に装束に身を包んだハリソン・フォードの下に、どうしようもなく気の抜ける朗報が届く。仲間の艦に発見されたK19は、曳航されて帰国することになる。結局彼には「ただ落ちていく」ことすら出来ない。あるいは、今さら英雄たらんとする者は、英雄たり得ないことでしか英雄たり得ないのか?それこそ「今さら」だろう。
 英雄で思い出したが、シャア・アズナブルの数ある名言の中に「自由落下というやつは、言葉ほど自由ではない」というのがあった。シャアはいつだってカッコよく、そしていつだって少し間違っていた。だからこそ僕たちは彼を支持した。でもシャアはふたりも要らない。バギーちゃんだって同じだ。今さら英雄たりうるための条件とは何なのだろう?

(中川正幸)

 

2003/01/14(tue)
『たそがれ清兵衛』山田洋次

 

 

 山田洋次は初の時代劇映画を監督するにあたってリアリティを追求したと言う。余談だが、この映画(というか原作も)海坂藩という架空の藩が舞台なのだが、モデルとなったのは山形県の庄内だと言われている。庄内というと県庁所在地である山形市より有名なのではないかと思うのだが、この庄内という場所、現在の鶴岡市と酒田市どちらが本当の庄内か、という問題があるらしく双方にプライドがあっていろいろと大変なのだ、という話を聞いた。鶴岡も酒田も庄内なのだが、庄内はそのどちらでもないという、名ばかりがあって実体のない、夕暮れ時に長く伸び過ぎてしまった影のような中途半端な場所の話なのである。
 昼と夜のあわいの時間であるたそがれ時を、安易に生と死の境目に結び付ける安易な比喩を許していただきたい。というのも「たそがれ清兵衛」という主人公のあだ名も、彼の風体も、彼の妻の死が非常に具体的に関わっているからである。労咳で死んだ妻の葬儀を盛大に行うために莫大な経済的負担を負った彼は、夕方役所仕事が終われば、上司の誘いを断って内職をしに家に帰らねばならないし、金銭的に余裕がないので身なりもみすぼらしくなる。しかし死んだ妻を忘れられないというのではない。むしろ、ふたりの娘と老いた実母とともに生きなければならないことが、彼を暗いけれど真っ暗ではない「たそがれ」へと追いやる。
 その妻の葬儀のシーンがこの映画の冒頭に置かれるのだが、親戚の集まった清兵衛の屋敷の中は暗い。電気のない時代の「リアリティ」を求めた結果の暗さなのかもしれないが、それにしても友人の武家屋敷や城内のシーンに比べて、清兵衛宅は暗いのだ。映画中に清兵衛宅より暗い室内を持つ家が1軒だけあって、それは故あって清兵衛が殺しに行かなければならなくなる侍の家である。家の前には死体に蠅がたかっていて、娘の遺骨をボリボリかじる男がいて、その男を殺すか殺されるかのどちらかしかないという、とにかく死の充満した室内は暗い。
 結局清兵衛は侍を殺すのだが、それは生きようとする意志でもなんでもなく、ただほんのちょっとの武器の長さの問題なのだ。脇差より長く、刀よりは短い小太刀という武器を携えて出かけたというそれだけのことで彼は生き長らえる。切腹という武士の倫理観とも、刀での切り合いという美学とも尺度のあわない中途半端な長さが彼を生かしめるのだ。
 本格的な時代劇を、リアリティのある時代劇を、という監督の意志と、彼の他の映画に出てきそうなサラリーマン的な構図も持ち込んで、でもその双方とも決定的に何かが違う中途半端な長さが、山田洋次を少しだけ生き延びさせる。

(結城秀勇)

 

2003/01/10(fri)
『ギャング・オブ・ニューヨーク』マーティン・スコセッシ

 

 

 前作『救命士』は<実体幽霊もの>の先駆けであり、代表作であった。フィルムの始まりから生きているのか死んでいるのか分からないニコラス・ケイジは『ミーン・ストリート』から連なるギャングたちのひとつのバージョンだった。救命士はストリートのごろつきや成り上がり者ではない。彼の陶酔は「人命を救うこと」である。ただし原題にもある通り、彼は同時に死者を招き寄せる人間でもある。水を飲まないと死んでしまう、しかし水を飲むと死んでしまうという患者は、まさにケイジの分身であって、とにかく救命士は生と死の間で生きているのか死んでいるのか分からない状態だ。人命救助は単なる陶酔ではなく、善と悪、生者と死者、救うことと救われること、具体性と抽象性などなど、様々な境界を彷徨う無為な時間となる。
 といっても『救命士』はやはりケイジの顔だ。かつてのハ−ヴェイ・カイテルの整ったキツネ顔とジョ−・ペシのくそガキ顔を両方引き受けてしまったように崩れがちなケイジの顔は、見たことあるような見たことないような、まさしく生者と死者との境界そのものだ。システムと共に崩れてゆくのがトム・クルーズの顔だとしたら、ケイジの顔はどこにいてもひとりで崩壊を引き受けてるような感じ。
 『ギャング・オブ・ニューヨーク』では最後までディカプリオの顔は動じなかった。ダニエル・デイ=ルイスにめちゃくちゃにされたはずの顔も、数カ所の縫い目だけにおさまってしまう。復讐劇の舞台となる場所「ファイブ・ポインツ」の血塗られた三角形がディカプリオの顔にも刻まれるが(デイ=ルイスの焼かれた剣の切っ先が火傷の跡として右頬に残される)、そんな理にかなったチャチな演出はスコセッシに必要無いし、必要無いと言えば、親父から引き受ける短刀のエピソードも必要無い。ディカプリオは『バスケットボールダイアリーズ』の青春を取り戻したように充実しまくりで生真面目に演技するし、デイ=ルイスだって、あれではサーカスのちょっと危ない奴どまりである。
 もし仮に9・11を先取りしていたとすれば、それは明らかに『救命士』の方だ。英雄的な消防士ではなく、大義を失った者がどうしようもなく見てしまう幻想の大義、だ。『ギャング・オブ・ニューヨーク』における映像や編集の洗練のされ方は、それこそ単に目配せの利く巨匠のようなものである(確かに『クンドゥン』や『救命士』でもその傾向はあったんだけど)。
 『グレースと公爵』のように、背景をオールCGにしていたら・・・、なんて考えるのもあながち無駄では無いと思う。

(松井宏)

 

2003/01/10(fri)
『CQ』ローマン・コッポラ

 

 

 おそらくローマン・コッポラはとても真面目なのだと思う。真面目にゴダールが好きで、真面目にリチャード・レスターが好きで、真面目にアントニオーニが好きなのだ。運動に明け暮れた69年さようなら、輝かしい未来70年代こんにちは、『CQ』にはこの時代に対する憧憬と愛情と、そして望んでもその時代に生きられるわけではない諦念が溢れている。
 実際、決して悪い映画ではない。どこまでも趣味はよく、適度にロマンチックで、微笑ましい。「パーティは終わったが、僕らの人生は続いていく」という感じだろうか。「僕は何者なのか?」を問うためにポールが撮っていたプライヴェート・フィルムは、最後には「僕が生きた世界はどのようなものだったのか?」を確認することで完結する。
「僕が生きた世界」はパーティの真っ最中、続いていく「僕らの人生」は終わってしまったパーティの甘美な思い出と軽い喪失感と共にある。そう、喪失感があるうちはまだいいのだ。それは突出したものにしろ、「他でもありえたかもしれない」「しかしこうでしかありえなかった」過去だから。言うまでもなく、今となっては「69年」は確定したイメージのユートピアだ。
 たぶん5年前に製作されていたら、『CQ』は東京で随分盛り上がって公開されただろう。でも現実には、たいして話題にもならず、2、3の歯切れの悪いコメントが雑誌に載っただけで、地味に単館上映という規模に収まっている。ヒットする、しないが問題なのではない。『CQ』が提示する「過去」が、記憶として共有されているのではなく、形骸化したイメージとして東京中の至るところに張り付いている現実そのものが問題なのだ。本屋でも、レコード屋でも、洋服屋でも、・・・・・・例えば表参道なんて場所でも。
 こんな比較はフェアではないかもしれないが、『CQ』になくて、『アカルイミライ』にあるのは、そんな単純な現状認識だ。「69年」はイメージとして外在化している。「僕らの人生」は、甘美な思い出と喪失感と共にはなく、イメージのゴミ溜めみたいになった道をズボッズボッと進んでいくことでしか続かない。「記憶」に誠実なだけじゃダメなんだよね。

(志賀謙太)

 

2003/01/04(sat)
『マイノリティ・リポート』スティーブン・スピルバーグ

 

 

 プリコグという存在がいる。双子の男性とひとりの女性からなる彼らは、これから起こる殺人事件の映像を夢に見る。予知夢というやつである。といっても、彼らには夢以外の部分がなく、3人とも同じ夢をみている(はず、とされている)のだから、彼ら自身がこの殺人を未然に防ぐ画期的なシステムの中心人物であるというよりかはあくまで部分的なデザインであるにすぎないという印象を受ける。彼らの居る場所が「聖域」などと呼ばれ、マザーコンピューターのような機械の中枢のごとき取り扱いを受けていることが、3人の男女の姿というのは意匠に過ぎず、中には神とか機械とかそんなようなものが詰まっているのではないかという気にさせる。ところが彼らは人間なのである。「システムにミスがあるのではなく、いつも人間がミスをする」。もちろん。3人集まればシステムになる彼らも、ひとりひとりは人間なのでミスをする。そこに「少数派の報告」が生まれる。彼らは未来の夢に溺れている。
 彼らの予知によって未来の殺人で逮捕された者は、収容所と呼ばれる場所でカプセルに入れられ、無数にいる自分と同じ境遇の仲間の中に積み上げられる。そしてそこでこれまで経験してきた人生を反芻しつつ眠りつづけることになる。『モンスターズ・インク』で、子供たちの部屋へと続くトビラの貯蔵庫のシーンがあったが、あんな光景である。永遠に来ない未来のために、彼らは過去の夢に溺れ続けなければならない 。
 仰向けになり中央に頭を寄せて、ベンツのマークの格好の3人のプリコグと、極めて平面的に上下左右に配置された、無数のプリ殺人者たちは、同じなのだ。プリコグが殺人現場の会話を先取りするように、トム・クルーズは過去の自分のセリフを先取りする。「少数派の報告」は本当は存在しない。あるのは「私個人の報告」だけだ。
「さよなら」。「許してくれ」。ペラペラのセリフを極めて表面的になぞり、かつその対象を180度転換することによってのみ、「ありえたかもしれない私」が現れる。

(結城秀勇)