2003/06/22(sun)
『NOVO』ジャン=ピエール・リモザン

 

 

 五分ごとにそれまでのことを忘れてしまう主人公そのままに、フィルムそれ自体が爽快なまでに全てを忘れ去ってゆく。冗談みたいに大きな音を立てて外れるブラジャーのフック、トイレのペーパータオル取り出し口に挟まれて抜けなくなる指、そんな細部は結局のところそれ以上のことは意味しないのだ。意味という重苦しい深みを欠いた表層のめくるめく滑走のもたらす爽快感。ヴィトンにアニエス、ジェイコブス、果てはシャネルによる衣装や、アナ・ムグラリスにエドゥアルド・ノエリガという美男美女、おまけにジュリアン・イルシュの流麗なキャメラワーク、すべてがあまりに表面的で無償に美しい。そして映画は、犯罪映画からコメディ、果てはポルノ映画までのジャンルの間までもを軽やかに滑走してゆくだろうし、表面となった人物たちは、おもむろに互いの手をまさぐりあい結合して行くだろう。五分ごとに忘れるグラアムの仕事は、コピー担当という厚みを表面に変え、表面を増殖させる作業なのだ。イレーナの艶かしくも滑らかな背中の肌をなぞる快楽にも似て、表層の滑走がもたらす一瞬ごとの歓びは、甘美であるとともに爽快さの極地なのだ。
 グラアムは、イレーナとの出来事を「忘れない」ために、メモのうちに書き付けてゆく。また、イレーナは彼が自分のことを「忘れない」ためにグラアムの胸の肌に自分の名前を書き付ける。表面の上に書き付けられた言葉。イレーナは、当初こそ、常に新しく始まってゆくグラアムとの肉体的・表面的関係を燃えるような情熱で生きはするのだが、やがて深みを、愛という深みを求めるようになるだろう、たとえ、それが時間と「記憶」を持ち込むことで本質的に愛の終末を予見するものであっても…。「忘れない」ことと「記憶する」ことの間に、超え難き深淵が現れる。グラアムは、メモや肌という表面に言葉を書き付けることでかろうじて「忘れない」でいようとする。しかし、いかに微に入り細を穿って描写を重ねたところで、そうした言葉がつなぎとめるものは畢竟、表面的なものでしかない。言葉となりえずそこから取り逃されたものが澱のように堆積している。言葉になりえぬ澱、あるいは「記憶」。五分ごとに忘れてしまうグラアムは「忘れない」ために言葉を連ねるが、かえって一層「記憶する」ことに失敗してもいるのだ。悪循環。
グラアムがメモを奪われて、彼をつなぎとめていた言葉から解き放たれて漂流を始めるとき、それは「忘れない」ことができなくなった瞬間であるばかりでなく、同時に生まれ変わりの儀式を目指し、降り積もった澱が解き放たれる瞬間でもある。その道程で、彼が思い出すことは表面と言葉とに回収し得ない決定的な深みとしての「記憶」そのものなのだ。そこから先、彼は、五分ごとに忘れて、常に新しく生まれ変わるグラアムであり、記憶をもつパブロとの弁証法のうえに存在し始める。グラアム、パブロ、イレーナ、三人の間で愛が繰り広げられるのだ。常に新しく甘美に爽快な表面の滑走と、記憶という愛の深みとの弁証法を経て、一瞬ごとの再生と終末とのあるかなきかの間隙を縫って、一つの愛と一本のフィルムがたち現れるのだ。

(角井誠)

 

2003/05/31(sat)
『一緒に老けるわけじゃない』モーリス・ピアラ

 

 

 男と女の間に起こる衝突、怒号、和解、別れと笑いが106分間持続する。『ヴァン・ゴッホ』における2時間38分を、史実としてヴァン・ゴッホがオーヴェル・シュール・オワーズに降り立ってからこの世を去るまでの2ヵ月間という時間として我々は認知しないように、そこで全く別の時間の流れを体験するように、『一緒に老けるわけじゃない』においてもどれだけの時間が流れているのかがわからないし、仮に知り得たとしてもそれとは全く異なる尺度の時間の流れを、そのほとんどがジャン・ヤンヌの駆る青いルノ−の嬌声と怒号と沈黙に満ちた密室で繰り広げられる106分間に見るのである。だからあるいはこんな妄想さえ可能ではあるまいか。ジャンとカトリーヌが背後に抱えている「6年間」という特権的な時間を上回る時間が、ここで流れているのではないかと。
 カトリーヌがジャンに別れを告げ、ジャンがもう決して会うまいと確約するシーン。その次にくるのは、楽しそうにふたり並んで車に乗り込もうとするジャンとカトリーヌの姿なので、これは回想なのかと勘ぐってみたりもするが、どうやらそんな小細工ではないらしく、堪えきれずに吹き出してしまう。約束が履行されない、しかも過去の判断に対する確固たる意志を伴った批判などではなく、なしくずしの破棄によって。そんな悲惨きわまりない状況にもかかわらず、ここで生まれる笑いと肯定はいったいなんなのか。
 『愛の記念に』の、父親が家を出て行きがらんとした仕事場の手前の隣室で繰り広げられる、残された母と兄と妹の痛々しい争い。そこにはひとりの部外者がいて、その言い争いを驚くべきことに微笑みを浮かべて眺めている。おそらくそれまで父の元で仕事をしていたのであろうその女性は、他人の家庭の崩壊のみならず自分自身の職業的な危機にも直面しているにもかかわらず微笑みを浮かべているのである。そのあと痛々しさを増しながら何度も繰り替えされていく残された家族の間での争いの場に、彼女が居合わせることはもうないのだが、そのとき彼女が提示した視線から受けた戸惑いが、苛烈さを増す争いに目を奪われながらも、頭から離れない。
 この女性がもし『一緒に老けるわけじゃない』に出てきていたらと考えてみる。私たちは彼女と一緒にジャンを笑い飛ばすだろう。暴力的で粘着質でだらしなくていいかげんで毛深くて早漏なこの男を、「まるでオレとおんなじじゃないか」と微笑んでしまう。いやもっと重要なことは、『愛の記念に』の彼女が姿を消して以降の場面に再び彼女を想像することかもしれない。こんな言葉を思い出した。
「いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、ずいぶん危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうようなものなのである」(S・フロイト「ユーモア」)。

(結城秀勇)

 

2003/05/31(sat)
『アバウト・シュミット』アレクサンダー・ペイン

 

 

 ネブラスカ州、オマハ。主人公ミスター・シュミットが定年を間近に迎えた保険会社「ウッドマン」の本社ビルをおさめたショットから映画が開始する。そのビルだけがオマハの高層ビルではあるまいに、見渡す限り低層ビルに囲まれるように捉えたアングルが、やけにウッドマンのビルを無機質で厚顔無恥な建物に見せているのだが、そのショットのリズムはあからさまに小津的な冒頭シーンで、その後展開される緩慢に離散してゆく家族の物語と相まって、余計に小津を思い出させる。実際、ラストシークエンスで娘を嫁にやった後、一人きりになった自室でジャック・ニコルソンが涙する場面など、『晩春』を思い出さない方が無理だ。もっとも、実際には泣くことを拒否した笠智衆がその手にしていたのは林檎だったが、ニコルソンが手にしていたのは慈善団体からのお礼状だったところに、『アバウト・シュミット』の底知れぬシニシズムが伺えるのである。
 それは表面的なシニシズムではない。それならば、定年後に待ち受けていた時間と心の余白をうめるために、アフリカの恵まれない子供へ寄付することでしか癒されないニコルソンを嘲笑うこともできただろう。あるいは、そこに少しの同情と共感を呼び寄せれば、映画を締めくくるラストとしては上出来だろう。『マグノリア』なら蛙を降らせて、『ボーリング・フォー・コロンバイン』ならプレジデント・ブッシュのせいにして、事足りたアメリカに巣食う病理を、『アバウト・シュミット』は肯定も否定もせず、嘲笑も救済もなく、楽観とも悲観とも違う、完全に態度不決定の状態でひたすら見つめるのである。ルノワールならば「誰にでも言い分はある」と言った倫理がここでも働いているのであり、映画は登場人物をジャッジすることを徹底して拒絶する。つまり、映画によってジャッジされた登場人物ではなく、登場人物そのものがここでは浮き彫りにされるのである。病理は、ここでは診断されたり治癒されたりは決してしない(そこにこの映画の底知れぬシニシズムがある)。病理が断片的に現実に浮かびあがる様子を、徹底して窺い待つのである。その徹底ぶりにおいて、近年のアメリカ映画でこの映画に最も近いのは、ハーモニー・コリンの『ガンモ』であり、『アバウト・シュミット』はそのアッパー・ミドル・クラスのヴァージョンだとも言えるだろう。

(新垣一平)

 

2003/05/27(tue)
『ルル』モ−リス・ピアラ

 

 

 都市を身体に引き受けながらドパルデューの身体は膨張し、その巨大さに張り付く薄暗さのようにユペールの身体は細く鋭く縮小し、そしてギィ・マルシャンのサックスが厳しく孤独にふたりを覗き見る。『ルル』はそんなフィルムだ。
 「自伝的要素が濃い」というのは一体どういうことなのか。ピアラのフィルムでは常に「自伝的要素が濃い」と言われるが、では映画という形式のなかでそれをいかに立ち上げるのか、そこが問題となる。もし仮に最良の私小説と呼ばれるべきものがあるとすればそれは、ある経験的な事実から出発しながら、しかしそれを打ち消しつつひたすら逃走してゆくという、とんでもなく綱渡り的な作業となる。そのために例えば都市や身体という様々な響きがそこに介入される、がしかしまた、そうした要素にも決して帰着させることなく、つまりは常に中間地帯で自己が生まれる地点と消滅する地点とを巡ることが必要となる。そんなとうそうは私たちにとって小さな小さな失調の連続に見えるだろう。
 ピアラは自らを厳密に覗き見的な位置に設定する。もし仮に彼が画面に映っているとすれば、それはドパルデューではなく、妻を彼に奪われるギィ・マルシャンだ。まるでピアラ=マルシャンが新たなカップルと都市との間に広がりながら彼らを覗き見ているように、あるときはセックス中のベッドをぶち壊し、あるときは早朝5時から電話をかけ、孤独なサックスを響き渡らせる。
 『ルル』とピアラはこうした失調にウィルスのごとく住まう。だがもしかしたらあのサックスは、ピアラ=マルシャンの消滅とジスカール・デスタンの消滅とを告げた一瞬だったのかもしれない。

(松井宏)

 

2003/05/27(tue)
『春の惑い』田壮壮

 

 

 純白のチャイナドレスをまとった女性がひとり、崩れた城壁の上をゆっくりと歩いてゆく。ゆっくりと。

『春の惑い』(原題『小城之春』02)のオリジナルとなる、フェイ・ムーの『小城之春』(48)では、妻の独白的なナレーションが背景音をそがれた全編を覆っていたのだけれど、『春の惑い』では、ナレーションはなく、代わりにふとした物音がまるでロベール・ブレッソンのフィルムのごとく、はっきりとした輪郭を持って響いてくる。遠く汽車の音が聞こえ、妻の足音が屋敷に響き渡り、窓ガラスをたたく音、窓ガラスの割られる音が夜のしじまに亀裂を走らせ、そして、長く患っている夫の咳の音がまるで通低音のように重くのしかかってくる。
 窓ガラスと飾り細工が施された屋敷の窓に差し込む蘇州の穏やかな日差しは、独特の開放感と閉塞感を同時にまとって、光に繊細な表情を持っている。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』や『花様年華』の撮影監督リー・ビンビンによる、少ない照明と蝋燭の明かりによる屋内の陰影もまた、人物の心理を巧みに語ってみせる。
 ふとした物音、ふとした煌き、ふとした小道具を生かして、人物の心理劇は果てしない繊細さと緊張感の中で繰り広げられる。俳優も心理表現の道具に過ぎない。心理と俳優があまりにぴったり演出されているためにかえってちぐはぐな…。

 純白のチャイナドレスをまとった女性がひとり、崩れた城壁の上をゆっくりと歩いてゆく。ゆっくりと。

 それは繰り返される。何度も。
 その繰り返し現れる「城壁を歩く純白のチャイナドレスの妻のイメージ」は、オリジナルの持つ非時間的なナレーションの特徴そのままに、時に、彼女の逡巡する心情を痛切に表現こそすれ、時に、まったく時間的位置づけを欠いて唐突に現われさえするのだ。城壁、それは飾り細工の窓ガラス同様、開放感と閉塞感の場、外への誘惑と止まることの狭間、境界としてある。彼女は、時間を越えて境界を逡巡しながら、かつての恋人への愛欲と、患った夫という絆しとのあいだで揺れ動く。
 しかし、それは心理を表現しているのか。意味の明白な情景を繰り返し見つめるうちに、そこに込められた心情は、彼女のおぼつかない足取り、彼女そのものと一体になってゆく。心理が表現されるのでなく、それが彼女そのものになる。痛切な心情の機微はそのまま、彼女そのものを見つめ始めるのだ。それは、ほとんどルノワール的な瞬間だ。いささかちぐはぐだった心理と俳優が、劇的な融合をする瞬間。その瞬間、それをみる私たちもまた、融合し、彼らそのものを生きるような瞬間だ。
 そうした瞬間の後では、すべてが彼らのものであり、私たちのものである。

(角井 誠)

 

2003/05/23(fri)
『BULLY』ラリー・クラーク

 

 

 こんなところへこなければ。ここから逃げだせたなら。来歴と現状の否認は移動の衝動に直結する。
「ここから引っ越そう」「お前の都合で仕事は変えられない」。
「これ以上やつらと付き合うのなら、引っ越そう」「わかってるよ、僕にもチャンスをくれ」。
「ヤツらがくるわ、引っ越さないと!」「アパートにか?」。
随所で繰り返される潜在的な移動の喚起にもかかわらず、彼ら全員がひとつの場所に最後までとどまり続ける。死体ですらも、運河に流されて下流へ行き着くことはなく、河べりに張り付いたままだ。
 だから彼らの逃走は、ふたつの異なる世界を横断したり混同したりすることによって行われるのではない。ハッパで「ぐにゃりと歪んだ」世界と現実の世界を混同したのでもなければ、LSDの幻覚を現実と見間違えたのでもない。ましてや、彼らの中の幾人かがプレイするゲーム「モータル・コンバット」と、(本当にモータルな)現状との闘争とを履き違えたわけでもない。確かにレオ・フィッツパトリックは警告した。
「お前らがやってるゲームとは違う。本当に人が死ぬんだぞ」。
彼らはわかっていると答えたが、本当はわかっていなかった。だが警告した彼もまた、わかっていなかった。そのゲームには、戦闘中にキャラクターが赤ん坊に変わってしまう「死ぬより恐い」状況があること。そしてそのゲームとこれから行う殺人の間に明確な境界線など前提としてありはしないこと。
 かくして彼らの逃走は、この世界をこことここではないどこかに二分するために企てられた。誰もそのことに気付く者はいなかったが、皆が無意識にそれを望んでいた。だから皆、自分以外に完全な殺人者がいると思い込んだ。しかしそんな人物はいない。
「お前が殺したのか?」
「いや、オレが刺したあともアイツは生きていて、走って逃げた」
「じゃあお前が殺したのか」
「いや、オレが運んだときにはアイツはもう死んでいた」
 そして彼らの逃走は失敗し、事件のあとは均質な恐怖が全員を包む。モンタージュによって並列される7人の男女の姿は、逃走の失敗それ自体がひとつの闘争であったことを示す。「世界から切り離されるのを怖れるのは間違いだった。世界は均質なものの粉々に砕けた並列であり、自分は最初からその中にいて、むしろ逆にその中から出ることはできないのだ」(「わがとうそう」青山真治)。だから、判決の結果によって差異に回収される彼らの姿に目を奪われるべきではない。そのことはあたかも、境界線が前提として存在するかのような錯覚を与える。思い出すべきは殺人現場の湿地帯のシーンだ。サーストン・ムーアのギターが8人の男女を均等に包み、彼らはそこで自分の役割を同語反復的に行っただけなのだ。

(結城秀勇)

 

2003/05/23(fri)
『森の中の家』モーリス・ピアラ

 

 

 「木の家」はたくさんのお別れを用意する。
 第一次世界大戦下、疎開する子供を受け入れる「木の家」は自然に囲まれた田舎の森の中にある。そこだけは悲惨な外界から隔絶したかのような水と緑と光の楽園で、人々は無為な、だからこそ至福の時間を過ごす。そんな時間は必ず訪れるお別れによって、不意に断ち切られる。公爵夫人の死、ドイツの飛行機乗りの死、マルセルの出征、彼の死、そして子供たちのパリへの帰郷。それらは理想の世界に介入してくる現実ではないのだし、自然に対立する文明の恐怖でもない。田舎とパリの対立もない、「木の家」にはあらゆる対立は存在しない。
 戦時中が舞台であるから多くの死が描かれても不思議ではないが、ここには2機の戦闘機の間に繰り広げられる以外には、戦闘シーンというものがない。代わりに子供たちの間で遊戯が厳粛に執り行われ、次いで幾つかの死が導入される。そこには疑惑に満ちた死もあれば、どうしようもない悲しみに彩られた死もある。戦争ごっこの果てに累々と築き上げられる木の十字架も、ドイツ兵のそれが本物の死であるということ以外何の意味もなさない死も。
 1話めの最後から最終話まで公爵の腕にまかれ続ける喪章も、物語が進むに連れより多くの人が身に纏うことになる喪服も、なにより幼い頃のジャン=ピエール・レオーの髪の毛と目の色を黒く染めて喪に服させたかのようなエルヴェ少年の見た目も、悲劇的な運命を消極的に受け入れる為の装置ではない。それらはただ厳格であるだけなのだ。マルセルの死を伝えに来る男も、ピアラが演じる臨時の教師も、公爵も、悪意や憎悪を持たず、ひたすらに厳格であろうとする。真実だからでも、そうあるべきだという規範なのでもなくて、ただお別れを告げる。
 あらゆるお別れを見届けてきた「木の家」の女主人が今度は見送られる側に廻る、その直前でこのドラマは幕を閉じる。カメラが捉える自然の美しさでも、温厚な人物像(この7時間のドラマの中に、悪い人間などひとりも出てこない)によってでもなく、この愚直なまでの厳格さにおいてこそこの作品は比類なき肯定を持つ。

(結城秀勇)

 

2003/05/14(wed)
『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』スティーブン・スピルバーグ

 

 

 フランク(ディカプリオ)は巧妙な「技」を持っているわけではない。彼の顔自体が詐欺なのだ。「技」にフェティッシュなまでに固執するソダーバーグと違うのはそこ。『オーシャンズ』でも『アウト・オブ・サイト』でもいいが、ソダーバーグの登場人物達のアイデンティティは眼に見える「技」にある。流れるような「技」を、モンタージュを極力意識させずに見せる彼のフィルムでは、皆が皆ジャズィーなラウンジでゆっくりと踊る低温夢遊者のようだ。彼らは夢のなかで手をつなぎながら母なる60年代を漂う。アイデンティティなんてユートピアに置き忘れて来た。
 ではフランクは? 名前を変え過去を偽造してゆく彼にはアイデンティティなど一見どうでもいいように見えるが、しかしそこはスピルバーグ、ちゃんとある。父との関係。クリストファー・ウォーケン演じる父だけはフランクから金も受け取らず、このフィルムのなかで唯ひとり、ひたすら落ちぶれたままだ。父とフランクとの関係、それもまた「技」のみによって成り立っている。こじゃれたジョーク、女を口説くためのペンダント攻撃……。それらはまさにフランクの詐欺術の根幹をなしている。つまりだ、アイデンティティの拡散をアイデンティティ(父との関係)が支えている。逆を言えば、アイデンティティこそがその拡散をも支えている。スピルバーグはあくまでそこにこだわる。ソダーバーグとは明らかに異なる点だ。
 何も考えず、アイデンティティなんて60年代に置き忘れてくれば事は安心だったはず。その点におけるソダーバーグとスピルバーグとの違いは単に世代によるものなのか? それはよくわからない。
 ただ父との関係が終わってから、つまり父が死んでからはディカプリオの顔が晴れやかになったようで、トム・ハンクス演じる刑事へと滑らかに関係が渡される。父の死はあまりにあっけなくやり過ごされる。これは『マイノリティ・リポート』と同じ感触。トム・クルーズの子供は最後の最後であまりにそっけなくやり過ごされた。監視装置から逃れるためのアイデンティティは、ここでもまた曖昧に処理されていた。
 とりあえず『キャッチ・ミー』に関して言えるのは、60年代の牢屋に囚われたディカプリオがどうやってそこから抜け出すかということで、それをトム・ハンクスが担うということだ。ただ、上手に時代を流れてゆくトム・ハンクス演じる刑事よりも、牢屋に囚われながらいつでも居心地悪い顔をして凝固と拡散とを揺れ動いているディカプリオの顔を僕は支持する。つるつるのトム・ハンクスの顔は、つるつるのソダーバーグの顔みたいだったから。

(松井宏)

 

2003/05/09(fri)
『母の微笑』マルコ・ベロッキオ

 

 

 ものも食えば酒も飲み、悪態もつき喧嘩もし、果ては衣服をかなぐり捨てて淫らに愛を交し合う。そんな猥雑な生身の人間を見せられて、それが「聖なる存在」だなんていわれた日には唖然とするしかないけれど、相手が、死者のような「不在」の人物ならば話は別だ。そこにいない誰かについてはもう何でも言いたい放題、神話化するも侮辱するも忘却するも、そこにいるものの自由なのだ。
 としたら、兄たちや伯母が、死んだ母親をカトリックへ殉教をした聖女に仕立て上げようとバチカンに働きかけていることを知ったエルネストがひどく愕然としてしまうのはもちろん、絶えず強い拒否をしめすのも、過剰な反応に見える。エルネストは無神論者なのだけれど、だからといって母の聖女列席に反対する理由にはならない。無神論者でも、伯母のように身内に聖女がいることの利益を考えて行動する者もいるからだ。といって、エルネストが清廉潔白な人格の持ち主なのかというと、これまた違う。悪態はつくし、息子の宗教の先生に惚れ込んでしまうような俗物でしかないのだ。確かに彼は、母親を憎んではいたけれど、それでもまだ不十分だ。どうしてエルネストは、かくも執拗に、亡き母親が聖女となることを拒み続けるのだろう。
 彼は、何度もその「微笑」で他人をいらだたせる。その挑発的な「微笑」がたたって、公爵に決闘を申し込まれたり、枢機卿をいらだたせたりと、さまざまな災いを呼んでしまうのだ。ほとんど無意識のうちにもれる「微笑」、それは母親から受け継がれたものだ。母を憎み殺した精神異常の兄、エジディオは「微笑」を封じ込め、笑わない。他の兄たちは、自分が受け継いだ母の「微笑」を気にも留めない。エルネストは母親の「微笑」を生きている。きっと彼には、母親は不在でもないし、あいかわらず猥雑で卑小なものなのかもしれない。母親の「微笑」は、「聖母のような微笑」などとは程遠いあまりに卑近な人間の「微笑」でしかない。

(角井 誠)

 

2003/05/05(mon)
『NOVO』ジャン=ピエール・リモザン

 

 

 戦争は一種の健忘症である、と確かポール・ヴィリリオが言っていた気がするのだが定かでない。戦時下である。
 『NOVO』の主人公の男は、5分前の事柄を記憶しておくことができない。しかし愛する人のことを忘れたりはしない、なぜなら忘れないように努力するからである。5分おきに時間を測っては、ホワイトボードに彼女の名前を1文字1文字綴ってゆく。彼女と過ごした時間に起こった事柄をつぶさに手帳に書き留めていく。目を覚ましたときに困らない様、ベットの脇の壁に「隣で眠っているイレーヌを僕は愛している」と描く。つまり、忘れないことと記憶することには大きな隔たりがある。自分が何者であるかということは、何を記憶しているかより、何を忘れないでいるかにかかっている。したがって、『過去のない男』でもそうだったように、記憶の回復とアイデンティティの回復は無条件で結びついたりしない。
 ナポレオンによると、戦争能力とは運動能力なのだそうだ。男は地図の描かれた手帳を失うことで、糸の切れた風船のようにふらふらとこの世の果てとしか思えない石灰の採掘場へ、そして文字どおり地の果てである海岸へと行き着く。そこから再び愛する女性の元へと帰還するのに必要となるのはGPSシステムなのである。「残念ながら、この映画の最後に登場するGPSは実在しない。こうした装置は軍事的な理由によって“一般大衆”まで普及しないんだ。大衆にとってのシグナルは送るものか受け取るものかどちらかであって、その両方ではない」(J=P・リモザン)。モニターの上で近づいたり離れたりするふたつの丸。その丸が重なりあうとき……。
 僕らもそろそろ戦略的にランデヴーする段階にある。

(結城秀勇)