五分ごとにそれまでのことを忘れてしまう主人公そのままに、フィルムそれ自体が爽快なまでに全てを忘れ去ってゆく。冗談みたいに大きな音を立てて外れるブラジャーのフック、トイレのペーパータオル取り出し口に挟まれて抜けなくなる指、そんな細部は結局のところそれ以上のことは意味しないのだ。意味という重苦しい深みを欠いた表層のめくるめく滑走のもたらす爽快感。ヴィトンにアニエス、ジェイコブス、果てはシャネルによる衣装や、アナ・ムグラリスにエドゥアルド・ノエリガという美男美女、おまけにジュリアン・イルシュの流麗なキャメラワーク、すべてがあまりに表面的で無償に美しい。そして映画は、犯罪映画からコメディ、果てはポルノ映画までのジャンルの間までもを軽やかに滑走してゆくだろうし、表面となった人物たちは、おもむろに互いの手をまさぐりあい結合して行くだろう。五分ごとに忘れるグラアムの仕事は、コピー担当という厚みを表面に変え、表面を増殖させる作業なのだ。イレーナの艶かしくも滑らかな背中の肌をなぞる快楽にも似て、表層の滑走がもたらす一瞬ごとの歓びは、甘美であるとともに爽快さの極地なのだ。
グラアムは、イレーナとの出来事を「忘れない」ために、メモのうちに書き付けてゆく。また、イレーナは彼が自分のことを「忘れない」ためにグラアムの胸の肌に自分の名前を書き付ける。表面の上に書き付けられた言葉。イレーナは、当初こそ、常に新しく始まってゆくグラアムとの肉体的・表面的関係を燃えるような情熱で生きはするのだが、やがて深みを、愛という深みを求めるようになるだろう、たとえ、それが時間と「記憶」を持ち込むことで本質的に愛の終末を予見するものであっても…。「忘れない」ことと「記憶する」ことの間に、超え難き深淵が現れる。グラアムは、メモや肌という表面に言葉を書き付けることでかろうじて「忘れない」でいようとする。しかし、いかに微に入り細を穿って描写を重ねたところで、そうした言葉がつなぎとめるものは畢竟、表面的なものでしかない。言葉となりえずそこから取り逃されたものが澱のように堆積している。言葉になりえぬ澱、あるいは「記憶」。五分ごとに忘れてしまうグラアムは「忘れない」ために言葉を連ねるが、かえって一層「記憶する」ことに失敗してもいるのだ。悪循環。
グラアムがメモを奪われて、彼をつなぎとめていた言葉から解き放たれて漂流を始めるとき、それは「忘れない」ことができなくなった瞬間であるばかりでなく、同時に生まれ変わりの儀式を目指し、降り積もった澱が解き放たれる瞬間でもある。その道程で、彼が思い出すことは表面と言葉とに回収し得ない決定的な深みとしての「記憶」そのものなのだ。そこから先、彼は、五分ごとに忘れて、常に新しく生まれ変わるグラアムであり、記憶をもつパブロとの弁証法のうえに存在し始める。グラアム、パブロ、イレーナ、三人の間で愛が繰り広げられるのだ。常に新しく甘美に爽快な表面の滑走と、記憶という愛の深みとの弁証法を経て、一瞬ごとの再生と終末とのあるかなきかの間隙を縫って、一つの愛と一本のフィルムがたち現れるのだ。
(角井誠)
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