ホテルの一室。おそらく吐息で曇らせたのだろう窓に、指で「東京」と書き込む。カメラを上に向けると、同様に曇らせて無造作に指で拭き取った曖昧なフレームから灰色の街並が見える。ジャ・ジャンクー自らの撮影によるカメラは、言うまでもなく私たちが見たことのない東京を切り取る。
外国人の目によって異化された東京といえば、ヴィム・ヴェンダースの『東京画』、ジャン=ピエール・リモザンの『TOKYO
EYES』、ホウ・シャオシェンの『ミレニアム・マンボ』、そしてまだ見ぬオリヴィエ・アサイアスの『DEMON LOVER』等が思い浮かぶのだが、それらとこの作品を同じように語っていいかということになると疑わしい。なぜならば、『青の稲妻』の直前に撮られた「In
Public」においても、見たことのない大同という街が映されていたのであり、この「東京イン・パブリック」においてもやっていることは全く同じだから。もちろん大同という街自体それ以前に見たことはないのだけれど、この2作品にもたらされた視線は、観客の経験の有無とは全く関係のないところで、事物を捉えている。
「In Public」と『青の稲妻』の関係性はあまりに一目瞭然なので、ジャ・ジャンクーのドキュメンタリーを彼のフィクション作品の為の習作であるとか、あるいはその創作の秘密が書き留められた秘密のスケッチのように見ることも可能かもしれない。「In
Public」の中に、欠けている登場人物と物語を持ち込むことで『青の稲妻』になるといったふうに。しかし私はそのような見方は好まない。「In
Public」は、もしかしたらこうありえたかもしれない『青の稲妻』であり、その逆もまた成り立つのだ、と考える。「In
Public」には登場人物とストーリーが欠けているのではない。そこに映る登場人物もストーリーもあまりに豊穰であり、すべてを把握することが不可能なのである。histoireになる以前の、洗練されていない意味に満ちた世界がここにある。
この系列はおそらく、『一瞬の夢』のラスト、電柱に手錠でくくりつけられた小武を取り巻いて見ている人々の方へとカメラが向き直る瞬間から始まっている。急に視線を投げかけられた人々はためらい、少しおびえる。だが急に視線を向けたカメラの方もまた、少しおびえているのだ。振り返れば、カメラの後ろにいる人間も安全な場所から腰を上げねばならない。勇気のいる作業だ。だがジャ・ジャンクーはそれを楽しんでいるように見える。
(結城秀勇)
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