2003/05/05(mon)
『東京イン・パブリック』ジャ・ジャンクー

 

 

 ホテルの一室。おそらく吐息で曇らせたのだろう窓に、指で「東京」と書き込む。カメラを上に向けると、同様に曇らせて無造作に指で拭き取った曖昧なフレームから灰色の街並が見える。ジャ・ジャンクー自らの撮影によるカメラは、言うまでもなく私たちが見たことのない東京を切り取る。
 外国人の目によって異化された東京といえば、ヴィム・ヴェンダースの『東京画』、ジャン=ピエール・リモザンの『TOKYO EYES』、ホウ・シャオシェンの『ミレニアム・マンボ』、そしてまだ見ぬオリヴィエ・アサイアスの『DEMON LOVER』等が思い浮かぶのだが、それらとこの作品を同じように語っていいかということになると疑わしい。なぜならば、『青の稲妻』の直前に撮られた「In Public」においても、見たことのない大同という街が映されていたのであり、この「東京イン・パブリック」においてもやっていることは全く同じだから。もちろん大同という街自体それ以前に見たことはないのだけれど、この2作品にもたらされた視線は、観客の経験の有無とは全く関係のないところで、事物を捉えている。
 「In Public」と『青の稲妻』の関係性はあまりに一目瞭然なので、ジャ・ジャンクーのドキュメンタリーを彼のフィクション作品の為の習作であるとか、あるいはその創作の秘密が書き留められた秘密のスケッチのように見ることも可能かもしれない。「In Public」の中に、欠けている登場人物と物語を持ち込むことで『青の稲妻』になるといったふうに。しかし私はそのような見方は好まない。「In Public」は、もしかしたらこうありえたかもしれない『青の稲妻』であり、その逆もまた成り立つのだ、と考える。「In Public」には登場人物とストーリーが欠けているのではない。そこに映る登場人物もストーリーもあまりに豊穰であり、すべてを把握することが不可能なのである。histoireになる以前の、洗練されていない意味に満ちた世界がここにある。
 この系列はおそらく、『一瞬の夢』のラスト、電柱に手錠でくくりつけられた小武を取り巻いて見ている人々の方へとカメラが向き直る瞬間から始まっている。急に視線を投げかけられた人々はためらい、少しおびえる。だが急に視線を向けたカメラの方もまた、少しおびえているのだ。振り返れば、カメラの後ろにいる人間も安全な場所から腰を上げねばならない。勇気のいる作業だ。だがジャ・ジャンクーはそれを楽しんでいるように見える。

(結城秀勇)

 

2003/05/05(mon)
『ミレニアム・マンボ』侯孝賢

 

 

 後戻りはもうできない。『ミレニアム・マンボ』全体を包み込んでいるのは、そうした諦めだ。何しろ、ナレーションが告白するように、映画全体が主人公 ビッキーの10年後から眺められているのだから、後戻りしようなどもはや考えなくなってしまうに十分な客観的な時間がそこではすでに流れてしまってい る。だから、諦めというと何か悔恨があるようだが、そうではなく、もうそれは過去にそのようであったのだと穏やかに認めているだけなのだ。彼女はこう だった、彼はこうだった。ただそれだけ、思い出すだけ。ところで、フィルム全体を覆うこの「思い出」、確かに主人公の10年後のものなのだが、いったい 10年後の彼女とは何者か。彼女の10年後が具体的に描かれてなかったり、自分のことを「彼女」と呼んだりするナレーションのせいだろうが、この「思い 出」はマルグリット・デュラスの『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』におけるナレーションを想起させる。そして、デュラスのこの 双子の映画では、ナレーションはすでに天国の住人たちが語っている設定だった。あるいは、『ミレニアム・マンボ』も10年後のビッキー=死者の記憶なの だと解釈することもできるし、その解釈を拒む要素はとりあえず見当たらない。
 もうひとつ、侯孝賢とデュラスの映画には共通点がある。それはそこでの死者の思い出の語られ方である。そこではなにがしかの線的な物語が語られるので はなく、ただただ刹那的な時間の出来事がばらばらに語られるのである。『ミレニアム・マンボ』でも全体的に見れば確かに線的な「彼女の物語」を語ってい るともいえる。しかし、そうした線的な物語より遥かに強烈なのは、クラビングと酒と男、そうした刹那的な享楽の時間を過ごす彼女の姿だ。実際、物語の線的な時間軸はそれを無視するナレーションと場面展開によって、入れ替えられ破壊される。それぞれの場面は、彼女の姿と彼女が過ごす時間が、ただただ連鎖的に思い出されているだけだ。そして、その場面のモンタージュは物語的な連鎖ではなく、その思い出の同質さによって繋がってゆく。つまり、この時はこう だった、そしてあの時もこうだった、あるいはまた別の時もこうだった・・・。執拗な反復。しかも同質のリズムで。始まりも終わりもなく、そのリズムは決 して鳴り止まない。おそらく、この映画に流れる時間に最も似ているのは、クラブの密室の中のそれだ。ここがいつどこかを忘れ、辺りを包むリズムとグルー ヴに犯されながら、曖昧に朝が来るのを待つ。では朝は来るのか? あなたが現実の世界を生きているのなら、来るだろう。だが、それが死者の記憶なら?  夜は永遠に夜のままかもしれない。ひたすら、出口なきトンネルを進むように、真夜中のクラブ、あなたはいつ果てるとも知れないダンスを踊り続ける。後戻 りはもうできない。

(新垣一平)

 

2003/05/01(thu)
『恋のエチュード』フランソワ・トリュフォー

 

 

 それが手紙であれ、小説であれ、紙に文字を刻み付けることは、まるで愛する人の肌に自分の血で文字を刻み付けるように、誰かに対して決して消えることのない「痕跡」や、「傷跡」をのこすことなのかもしれない。文字を刻み付けることにとどまらず、ひとつの身振りや仕草もまた、ときに誰かの心に消えない傷跡や痕跡を残してゆく。そのようにして、ひとは、たえず傷を負いながら生きてゆく。エピローグのクロード(ジャン=ピエール・レオー)は、自分に刻まれた様々の傷跡を「老い」として受け止めてゆくのだ。
 最初の英国滞在での、クロードの身振りや手紙は、ミュリエル(キカ・マーカム)に決して癒えぬ傷跡を深く刻み付ける。しかし、二人の恋は成就しないまま、精神的な傷跡となってしまう。七年越しについに二人の肉体が結ばれたとき、彼女は夥しい鮮血でシーツを赤く染めるだろう。それは、彼女に刻み付けられた肉体的な傷跡であったかもしれない。クロードに負わされた精神的な痕跡は、肉体的な傷跡によってより確かなものになる。しかし、そのことは二人を結びつけるでなく、引き離すことになるだろう。お互いに刻み付けあった傷跡によって――互いが互いを「変える」ことによって――、それぞれ自分自身の存在を確信し、それで生きてゆくことができるのだから。
 ところで、アルノー・デプレシャンの『そして僕は恋をする』(96)は、互いに刻みあった痕跡をしることで、自らの存在を確信する物語であったのは記憶に新しい。彼もまたトリュフォーのフィルムによって負わされた傷跡を引き受けながら映画を作る作家のひとりなのだ。フランソワ・トリュフォーのフィルムは、あまりに多くの人に痕跡となり残っている。彼のフィルムを見返しながら、わたしたちは、それらが刻み付けた傷跡の深さを思い知り、その癒えることない生々しさに愕然とするばかりだ。

(角井誠)

 

2003/05/01(thu)
『デアデビル』マーク・スティーヴン・ジョンソン

 

 

 このデアデビルという人、確かに強い。それは十二分にわかったのだが、そのくせ、ちっとも強く見えないのは一体どういうこと?つまり、強い理由はよくわかる、が、強さが「見えない」。
 その原因のひとつにはやはり彼が盲目であるということが関わってくるのではないだろうか。簡単に言ってしまえばこの映画では、彼は盲目である、しかし(あるいは、だからこそ)彼は強いのだ、という語り方がなされているわけだけれど、重点が置かれているのは、実は、彼が盲目であることでも、彼が強いことでもなく、その「理由」なのだ。誰も「盲目なのになんで強いの?」なんて疑問を感じたり、驚いたりしないというのに。だって、私たちは映画のなかでそういう人たちを何人も見てきているんだから。盲目であるがゆえに他の身体能力・感覚が研ぎ澄まされ、ひとり猛然と戦いぬく者、弱者であるがゆえに強さを手にする者を描いた映画は少しも珍しくないのだ(それこそ北野武がいま撮っている『座頭市』も然りで)。が、一方で、そういった映画に何よりも要求されるのは、「なぜ」強いかではなく、「いかに」強いを見せることだし、それは完全無欠のヒーローを描くよりもさらに難しいはずだ。たとえば、ベン・アフレックの盟友、マット・デイモンの動きの堅さを逆手にとったかのように、彼に何もさせず、カットをひたすら単純に繋ぎ合わせ、そこにさじ加減の効いたCGを少々といった具合でもって、つくられた機械的な強さを「見せる」ことに始終した『ボーン・アイデンティティ』という映画があったが、あの映画がそういった演出でおもしろいものになり得たのは、あの主人公が機械的に強く、その強さのわけは(本人すら)わからないけれど、なんでか強いっていうのが重要な要素だったからなのだ。
 ついでに、もう少し『ボーン・アイデンティティ』を引っ張ってしまうと、あの映画において、主人公が動き回るパリを始めとするヨーロッパの街が「ホンモノ」だったというのはかなり大きな要素で、それは彼の存在を街から剥離させ、その存在をどこにもつなぎ止めないという効果をもたらしていた。そういった点から『デアデビル』に目をやると、デアデビルが強く「見えない」のは、ベン・アフレックの素質や目が見えないという設定だけでなく、彼が動き回る空間にも大きな原因があるのかもしれない。デアデビルが動く空間には大幅にCGが施されていて、加えてセットの割合も多いのではなかったろうか。そしてそれが見事に中途半端!確かに予算とかの問題もあるだろうから、その「ちゃちさ」についてどうこう言うつもりはないのだが、ならばそのちゃちさを踏まえた上でヒーローを見せる方法を編み出すしかない(そう考えると、サム・ライミはやはり偉いってことになるわけか)。だけど、デアデビルはそういった側面を全部ブルズアイに押しつけて、そこから逃れさせられている(だから、もしコリン・ファレルが魅力的に映るとしたら、そのせいでしかない)。やはりヒーローが強さを見せることから逃れちゃいかんでしょ。

(黒岩幹子)

 

2003/04/25(fri)
『ミレニアムマンボ』ホウ・シャオシェン

 

 

 側面に半月のかたちをした窓こそついているものの、そのトンネルのように薄ぼんやりの陸橋のなかを、一人の少女が、時にこちらを振り返りながら、ふわふわと飛び跳ねるように進んでゆく。無機質なコンクリートの壁と、そっけない照明のなかに、浮かぶ彼女の姿はとても美しい。10年後の彼女の声が、10年前の彼女の波乱に満ちた生活を、静かに語り始める。10年後の彼女にとって、「あのころ」の「わたし」は、「彼女」でしかない。
 
 エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』(00)を思い出すとき、まず浮かんでくるのはエレベーターの前に佇む人たちの姿だ。少年から中年までの綿密に描きこまれた幾つかの世代というフロアーと、エレベーターがある。けれども、ひとはエレベーターに乗って世代を行き来することなどできず、ただエレベーターの前でただ佇むしかない。そのエレベーターの中にあるのは「今」という時間だけだったのだ。『ヤンヤン 夏の思い出』は、「今」というエレベーターに貫かれたいくつもの世代のフロアーを描き出す、垂直性の現在の映画であった。
 『ミレニアムマンボ』は、若さというものを盲目的に貪りながら、クラブ通いと酒、男とドラッグとに明け暮れるビッキーという少女ばかりを映し出す。確かにガオという年長の世代こそあれ、彼もビッキーの世界をふとよぎってゆく存在に過ぎずない。ここには、薄ぼんやりとして不安なトンネルのような水平性の現在が広がっている。夜のクラブはもとより、ハオと同棲するアパートや、ガオの部屋にいたるまで、ブラックライトや間接照明の人工的な光ばかりで、外の風景や自然の光は排除されている。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』同様、ここでも「今」はトンネルのような先の見えない水平の通路なのだ。
 けれども、彼女は出口のない水平の「今」をただ迷走するばかりではない。冒頭の陸橋のくだりで、ビッキーが振り向き目配せをかわしていた相手は誰だったのだろう。それは、10年後の彼女ではないだろうか。「今」を駆け抜ける少女の後ろ側には、いつも「今」を駆け抜けた女性のまなざしがある。しかも、10年後の彼女が懐かしむのは、ただ若さばかりでなく、夕張に表現された――なんとはなしに懐かしい――根源的な記憶のようなものでさえある。「今」というトンネルのなかを、幾つもの時間が手をつないで駆け抜けてゆく。降り積もる白い雪に顔をうずめて垣間見るものは、まだ知らない懐かしさに満ちた不思議な「今」という時間なのかもしれない。

(角井誠)

 

2003/04/21(mon)
『野生の少年』フランソワ・トリュフォー

 

 

 冒頭の森のシーンにはほとんどセリフがない。野生の少年が走り、木に登り、木から落ち、女性の顔は恐怖と驚きに歪み、そして犬は食欲だけに突き動かされ盲目に走る。光と影と木の葉の揺れが、生まれ来た世界への違和感そのままの硬質さでスクリーンを覆いつくす。軽く、そして柔らかな硬質感。矛盾でしか言い表せないが、しかし矛盾のかけらも感じさせない世界のなかで『野生の少年』は誕生する。
 2匹の犬から逃れ少年が登った木は、彼が持つ沈黙の重さに耐えられず、ついに音を立てながらその枝を崩れさす。枝と一緒に落下する少年が遠景で捉えられるが、地面に届く直前、ショットが切り替わる。地面に生まれ落ちる身体が画面いっぱいに捉えられたショットだ。ふたつのショットの連続は素早く行われ、リズムと運動をつくりだす。運動を生み出すこのモンタージュによって、少年は新しく誕生させられる。それは幸福でもあり不幸でもある。
 昨日、ジャン=ピエール・リモザンの新作『NOVO』を見た。NOVOは「新しい」を意味する。主人公は5分前の出来事を憶えていられない記憶喪失者。その度毎に彼は再生されるのだ。「映画というのは、それ自体すでに再生を含んでいる。新しいショット毎に生まれ変わっているのだから」。共同インタヴュ−で彼はそんなことを言っていた。
 野生で純粋無垢。そこから抜け出るには、ひとつには記憶の機能が必要だろう。それは幸福か不幸か。トリュフォーはそのどちらかを断定しない。少年は記憶を拒みユートピアに留まるが、しかし『華氏451』のユートピアは記憶だけになったブックピープルの場所だったはずだ。ただそれもまた純粋無垢な状態ではある。
 『NOVO』はそのどちらをも折り畳み強引に肯定するようなフィルムだ。ふたつの純粋さのどちらにも振れながら、最終的にはどちらをも選択しない。しかしそれを強引に肯定し生きていくような。
 
*トリュフォーは、ユーロスペース以外にも日仏学院にて特集中。『NOVO』は6月シネセゾン渋谷にて公開。

(松井宏)

 

2003/04/07(mon)
『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』デビット・クローネンバーグ

 

 

 つぶやき?うめき?ひとりごと?それとも顎の動きと唇を通る空気がたてるたんなる擦過音なのか。レイフ・ファインズは饒舌でないがたくさんの言葉を紡ぐ。逆説でもなんでもない。それらの言葉は他者の言葉と縒り合わされることはなく、ガスストーブとベッドとタンスだけの殺風景な部屋に貯蔵される。誰かに届く勢いも瑞々しさも失った、聞き取ることが困難な話し言葉。さらには書き言葉も当然変化して、ノートにびっしりと書きつめられた解読不能の文字。ふたつかみっつの歪んだ直線で形作られるアラビア語やヘブライ語を連想させる文字。ただしエキゾチックな関心を誘うには、無気味に親密であり過ぎる。
 蓄積された言葉のピースが、誰にも共有されない過去、私だけのジグソーパズルの絵柄を小さな部屋の内側に造り出す。その世界の中で私は、綿密に書き込まれた私だけに読めるシナリオ片手に、私でしかない少年のセリフを先取りする。演出し、脚本を書き変え、編集する。さらにはエキストラとして出演し、私でしかない登場人物たちのセリフを例の言葉でそっと耳打ちしてやる。
 少年が小さな部屋の真ん中に居ながらにして屋敷を掌握してしまう時。張り巡らされた網の中の1本の糸を引けば、なにかの気体がもれる音がする。そのもれる音こそ私の言葉であり、その瞬間から言葉の引金になった少年は私ではない。私は私の映画を完成させることができず、不様な登場人物のひとりとして演じ損ねるばかりである。
 小さなガスタンクに溜め込んだ私の言葉は全て洩れ出て、私はまた「別の」少年として映画をつくり続けねばなるまい。

(結城秀勇)

 

2003/03/26(wed)
『戦場のピアニスト』ロマン・ポランスキー

 

 

 ゲットーの壁の高さは、問題ではない。建物のほうが、ずっと高い。そのためか、あの都市の外を見渡すことはなく、廃墟となったあとも、向こうは白い。主人公のピアニストは、ナチスに協力するでもなく、過激な抵抗運動をするでもない。友人を頼り、都市の中の普通の一室、隠れ家のなかで、息を潜めてじっとしている。その窓から街路を見たり、差し入れを食べたり、病気になったりする。解放してくれる軍隊の進行状況も、その部屋に来る人から聞く。あとはただ、その部屋でじっとしているのであろう。
 ヒーローではない。要するに、燃えない。「機転を利かせて危機を乗りきる」という行動は、「死んだフリ」だった。「燃える」とは、行動の歯車が、いちいち噛み合っているような感覚、その状況あるいは「時代」と共に、自分の持っているエネルギーが燃焼するような感覚、自分のなかから湧き上がってくるような、無駄のないような、全神経と全能力が総動員されているかのような感覚、であろう。歯車が全くうまく機能し、エネルギーを伝え切る。そんな感覚だろうか。主人公の歯車はうまく噛み合っていないように見える。
 あるいは、全体像というものがあったとして、それは何らかの「意味を為す」絵、であるのだろう。ということは、その進行状況を表すのは、このパソコンの液晶モニターのような画面上で、刻一刻と変化する、違う色同士の面積のシェアの喰い合いなのだろうか。それぞれの人間は、その画素のひとつひとつの明滅であり、主人公のピアニストは、不調でうまく機能していない、画面上の例外としての黒い点なのだろうか。
 つまり、「電圧」なのだ。「時代」の「電圧」によって、その「画素」の明滅は、統御されているのだ。「時代の波」とか「歯車」といったことではない。見えないし、乗れないのだ。どの「カラー」に属するにしろ、「燃える」のは当然だ。それは、自分の中からエネルギーが湧き上がってくるためではなく、「時代」からエネルギーが供給されているからだ。そして、「電圧」が掛かれば掛かるほど、「燃える」のだ。
 主人公のピアニストは、「絶縁」しているわけではない。それは、「世界」から切り離された、異次元の存在だからだ。全く関係のない存在だ。そんなものには、成れない。主人公は、「うまく噛み合っていないこと」であり、「不調」である。つまり、「エネルギーの伝導率」が低いのだ。それは、「抵抗」になる。

(清水一誠)

 

2003/03/19(wed)
『ジェイ&サイレント・ボブ/帝国への逆襲』ケヴィン・スミス

 

 

 どうやらイラク攻撃が始まるようで、わかっていたことでも何だか暗い気持ちなるのだが、ニュースを見ていると、多くのアメリカ人が「戦争を支持してるんじゃない。<アメリカ>を支持するんだ」と言っていて、それはそれで「なるほどなあ」と思う。
 要するに「<アメリカ>を支持する→アメリカ大統領を支持する→戦争を支持する」ということなのだろうが、これはこれで民主主義のありかたのひとつではあるんだろう。「国家を支持する」なんてことはロクに思いつきもしなかった(せずに済んだ)人間としては新鮮な感じもするが。
 ケヴィン・スミスの新作は思いっきり「ビル&テッド」を意識した脱力系コメディだ。前作『ドグマ』では宗教問題に足を突っ込んで散々批判されたらしいが、今回はそんな心配はないだろう。全編ハリウッド映画のパロディ。しかもミラマックス全面協力。結局<アメリカ>を斜に構えて見て楽しむという姿勢では前作とさして変わらないとも言えるのだが、映画の枠の中に納まるならば特に誰も何も言わないのだと思う。
 本来ハリウッド映画を楽しむなんて行為は根拠のないものだったはずなのだ。テーマも思想も特にないドタバタ劇やらありきたりな恋愛を見て楽しむ、ただそれだけ。ただそれだけのものだからこそ、それを「楽しい」という時にはちょっとした覚悟と勇気と戦略が必要だった。でも「斜に構えて見る」という戦略が自家中毒を起こした今となっては、それは最もやっかいなシニシズムに陥る。形式としての戦略だから覚悟も勇気もいらない。行き着く先は、ブッシュの言動を笑いながら(「Bushisms」って言うんですか?)、結果としてブッシュの言うことを支持してしまう薄ら笑いの人々だ。宗教を批判しようが、ハリウッド映画をクサそうが、大統領をバカにしようが、<アメリカ>は悠然と無傷で残る。
 無根拠な楽しみに根拠を見つけてしまうケヴィン・スミスには<アメリカ>しか見えていない。<アメリカ>の裂け目から見える何かを想像する気はまるでないらしい。こんなことを書くとまるで他人事のようだけど、もちろんそれは私たちの問題でもある。考えるのに疲れてどうでもよくなっちゃったような今の小泉サンがあからさまに見せてくれているのは、日本は<アメリカ>に覆われているという事実だからだ。勇気と覚悟と戦略と、そして根拠のない爆発的な笑いをもって裂け目をどのように広げていくか。
 そういう意味で『グット・ウィル・ハンティング2』(もちろん映画内だけのパロディ)のセット撮影で、指示を仰ぐベン・アフレックに向かって「ベン、僕は忙しいんだよ」と呟きながら札束を数えるガス・ヴァン・サントの異様な存在感にはグッときた。誉めすぎかもしれないけど、シニシズムにもその単純な反動にも絶対陥りそうにない老獪な顔つき。映画を見ながら「ガス頑張れ!俺も頑張る!」と勝手にひとりでエール交換をしてました。

(志賀謙太)

 

2003/03/19(wed)
『オー・ド・ヴィ』篠原哲雄

 

 

 函館の砂浜で裸の女が横たわっているのを見つけると、それは決まって死体で、顔は微笑んでいてその腹のなかには必ず焼けるような酒がまどろんでいる。死にゆく奇妙な女たちと一人のバーテンの物語だ。ここには一つの隠喩が巧妙に配置されている。
 よく死体が見つかるという噂を聞いた小娘が、自分も裸になって砂浜に寝転がってみる。そのまわりをバーテンが棒を引っぱって長い線をつくり、彼女がすっぽり中に入るように大きく唇のかたちを描いてみせる。
厨房でシェフが子羊をさばく。腹をナイフで割くと、どろりとした臓物があふれだしてくる。
小娘とバーテンが七輪でハマグリを焼く。パクッと貝が開き、ハマグリが身をのぞかせながら煮汁を溢れださせる。
 砂浜の裸女たちが死ぬ前に必ず飲むという酒を見つけたぞと、バーテンが友人たちを呼びよせ、互いに死を覚悟でその酒を飲み干してみると、しょっぱい。海水だ。だまされた友人たちとバーテンは幸せそうに笑い転げる。ワッハッハー!
 こうして、唇的欲望をあおりたてられながら2時間ぐらいフィルムを見つめていると、このフィルムに映っている「函館」がいったいどこにあるのかが判らなくなってきた。たしかに僕は一度も函館を訪れたことがないが、もしその一つの地名を体験していたとしても、このフィルムの「函館」がやっぱり判らなかっただろう。
このフィルムの終わり、スタッフロールにふたりの脚本家の名前が現れた。ひとつは函館港イルミナシオン映画祭のコンペでグランプリを受賞した人の名で、もうひとつは、その脚本に手を加えて監督した人の名である。流れてゆく字幕をしばらく追っていると、数えきれないほどの協力者名が現れた。ささやかなカンパでたくさんの函館市民たちが協力し合ったのであろう。
 これで少しずつ「函館」の所在が判ってくる。このフィルムは一人一人の胸に抱かれた小さな希望や期待から成り立っている。それらがうまく集まり連なってフィルムとなり、ちょうど函館の夜景のようなイルミネーションになったのだ。だからこのフィルムに「函館」を見ようとした僕が間違っていたのだ。ここに映っているのはどこにもない「函館」、あるいは人々の胸の中にある(べき)「函館」だ。そこにある物語は、あのバーテンが体験してしまったような、一夜の酔夢のようなものだ。
 こうしてこのフィルム、「函館」そしていくつもの唇は、僕のいるこの場所からは海を隔てた遠い所でイリュミネーションを発している。

(衣笠真二郎)