チャーリー・カウフマン脚本の映画に、チャーリー・カウフマンが脚本家として登場する。また、そこで原作の脚色に四苦八苦した彼は、自分をそこに登場させることで脚本を完成させる。その脚本の内容は、脚本家が原作の脚色に四苦八苦するという自分の状況そのものだ。チャーリー・カウフマンがチャーリー・カウフマンを書き、またそのチャーリー・カウフマンもチャーリー・カウフマンを書く。
『アダプテーション』は、脚本、あるいは脚色にについての映画だと言えるだろうか? もしそうだとすれば、脚本の完成をみて終わりを迎えるこの映画にはどこか不十分なところを感じる。なぜなら、脚本が撮影の始まる前までにできあがっている必要などないからだ。この映画に描かれるのは、脚本は撮影の前にあることが当然であり、それが無前提に受け入れられた世界だからだ。パスカル・ボニゼールは次のように言っている。「ひとつのシナリオには、どのようなディアローグにせよ、どのようなシーンにせよ、またどのような出来事の連鎖にせよ、(それらがちょっと弱いと思うという理由で)それらを変えるために、映画の撮影の初日だけでなく、つねに再び手を加える余地がある」。
脚本家は撮影が始まってからもいろいろな可能性の中から何かを選びとってゆき、そうして脚本は変化しつづける。しかし、だからと言って、脚本は無限に変化しつづけると言うわけではない。ボニゼールはこう言う。「しかし、私たちが選択をするとき、私たちはもう後ろに戻ることはできない。機械が動き出したら、果てまで行かなくてはいけない」。ある選択をすれば、またその次の選択があり、そうして徐々に狭まっていく道を通って「果て」まで進んで行く。
『アダプテーション』にはある意味では「果て」がない。チャーリー・カウフマンがチャーリー・カウフマンを書き、またそのチャーリー・カウフマンもチャーリー・カウフマンを書く。行けども行けどもつねにチャーリー・カウフマンばかりが見出される、まるで底なしなのだ。ここでは、チャーリーとドナルドとのやり取りも、『カサブランカ』を絶賛する年老いた脚本家とのやり取りも、すべてが単なる知的な戯れにしか見えない。『アダプテーション』をとりあえず脚本についての映画と見れば、やはりどこか不十分だと感じるのだ。
(須藤健太郎)
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