2003/10/1(wed)
『アダプテーション』スパイク・ジョーンズ

 

 

チャーリー・カウフマン脚本の映画に、チャーリー・カウフマンが脚本家として登場する。また、そこで原作の脚色に四苦八苦した彼は、自分をそこに登場させることで脚本を完成させる。その脚本の内容は、脚本家が原作の脚色に四苦八苦するという自分の状況そのものだ。チャーリー・カウフマンがチャーリー・カウフマンを書き、またそのチャーリー・カウフマンもチャーリー・カウフマンを書く。
『アダプテーション』は、脚本、あるいは脚色にについての映画だと言えるだろうか? もしそうだとすれば、脚本の完成をみて終わりを迎えるこの映画にはどこか不十分なところを感じる。なぜなら、脚本が撮影の始まる前までにできあがっている必要などないからだ。この映画に描かれるのは、脚本は撮影の前にあることが当然であり、それが無前提に受け入れられた世界だからだ。パスカル・ボニゼールは次のように言っている。「ひとつのシナリオには、どのようなディアローグにせよ、どのようなシーンにせよ、またどのような出来事の連鎖にせよ、(それらがちょっと弱いと思うという理由で)それらを変えるために、映画の撮影の初日だけでなく、つねに再び手を加える余地がある」。
脚本家は撮影が始まってからもいろいろな可能性の中から何かを選びとってゆき、そうして脚本は変化しつづける。しかし、だからと言って、脚本は無限に変化しつづけると言うわけではない。ボニゼールはこう言う。「しかし、私たちが選択をするとき、私たちはもう後ろに戻ることはできない。機械が動き出したら、果てまで行かなくてはいけない」。ある選択をすれば、またその次の選択があり、そうして徐々に狭まっていく道を通って「果て」まで進んで行く。
『アダプテーション』にはある意味では「果て」がない。チャーリー・カウフマンがチャーリー・カウフマンを書き、またそのチャーリー・カウフマンもチャーリー・カウフマンを書く。行けども行けどもつねにチャーリー・カウフマンばかりが見出される、まるで底なしなのだ。ここでは、チャーリーとドナルドとのやり取りも、『カサブランカ』を絶賛する年老いた脚本家とのやり取りも、すべてが単なる知的な戯れにしか見えない。『アダプテーション』をとりあえず脚本についての映画と見れば、やはりどこか不十分だと感じるのだ。

(須藤健太郎)

 

2003/09/9(tue)
『息子のまなざし』ダルデンヌ兄弟

 

 

 切り返しショットで人物たちをとらえることはもちろん一度もなかった、と記憶している。長く、執拗にカメラは2人の男を追い、その距離がフィルムに収められる。一方の男は工業学校の教師で、5年前に息子を殺した少年が出所し入学してくることを知る。もう一方の男とは言うまでもなくその少年である。その2人の物語は、もし要約するならば多言を要しないものだ。それと知らずに入学してくる少年を、教師は葛藤し見つめ、身体で仕事を教えていく。そしていつか過去を語るときがくるだろう。
 このフィルムにあって、見るべきは人物たちの顔であり、聞くべきは木材を加工する音である。不安げな面持ちで手を動かして作業をする生徒たち。彼らがこしらえたものを見て、教師は定規をあてて寸法を確認し、誤差があれば修正させる。生徒たちが技術を身につける上で欠かせないこの定規、一定不変の目盛りが刻まれたこの道具でぎりぎり計測できる限り、少年と教師は結びついているのだ。だがすでに熟練した教師にはもう定規が必要でない。測る以前に一目でその長さを言い当てることができるのだ。少年は定規をあてて確かめ、ひかえめに驚く。
 粗い木目をざらつかせながら、教師と少年は作業をすすめる。少しずつ2人の距離は縮まってゆき、並んだ2人を正面でとらえたところでこのフィルムは終わる。
 そうして見終えてしまってから考えてみると、「この一本のフィルムを見たこと」とは「定規をあてたこと」に比しうるのではないかと感じる。つまり、これは確認する「作業」ではなかったか。それも手の仕事を身につけるための「定規」というより、教師の目測を確かめ驚くための「定規」。
 けたたましいバイクの音が接近してきて、最後には彼女の周りを旋回する『ロゼッタ』(99)では、ここまで直線的に導かれなかったと記憶しているのだが。

(衣笠真二郎)

 

2003/09/8(mon)
『息子のまなざし』ダルデンヌ兄弟

 

 

 何度も言うが、腰の痛みなどレントゲンには映らない。見えるのは、例えばずれた骨ばかり。もちろん
それは痛みではない。骨と骨とが擦れ合い、それをカヴァーするため過剰に働く筋肉が炎症を起こす、その関係性のみが痛みと呼ばれるのだから。ちなみに、その痛みを減らすにはやはり筋トレしかない。背筋と腹筋だ。
 職業訓練校(これは若者向けの社会復帰プログラムだろう)で木工技術を教える男オリヴィエが迎えた新入生は、かつて自分の息子を殺した少年フランシス。この設定はまさに内面葛藤物語を期待させるが、しかしそもそも彼らのそうした関係は、フィルムの冒頭30分ほどまで全く明かされない。男が新入生フランシスに持つ極度な執着心と粘っこい尾行は、何の因果も明かされない単なるストーカー行為。度を超えた恋愛感情か……。それでもやはり不可解極まりない行動だ。それは、その幕開けからフィルムと建物をランダムに埋め尽くす音の断片、つまり木材と木材とが、金属と金属とが、あるいは木材と金属とがぶつかり合う音たちと呼応する。建物全体では無規則ながら、その音ひとつひとつが何であるかは判別可能であり、そしてそこを通過することでかろうじて全体の規則らしきものをぼんやりと想像できる。そんな状態。男と少年とはこうして、その関係性をかろうじて響かせる。
 だからダルデンヌ兄弟が示すことができるのは、音のひとつひとつ、つまり個の存在様式だけだ。オリヴィエの存在の仕方はふたつ。<うなじ>と腰のサポーター(これが革製で非常にカッコ良い)。カメラが映すのはほとんどそのふたつのみ。もちろんアップ多様。同じく<うなじ>ばかりが捕えられるフランシス。カメラが映す、この<うなじ>同士の為す対話が、かろうじて物語を響かせる。だが彼らの<うなじ>もまた木材や金属のひとつでしかなく、その物語も、木材や金属がぶつかる音の集合でしかない。逆に言えばダルデンヌ兄弟の演出自体、個の存在を示すのにやたらと適するということだ。切り返しのないアップばかりで人物の後ろを追い続けるフラフラのキャメラワーク、最小限のセリフ。しかし非常な正確さを持つ彼らの演出は、もうレントゲン写真だと言って良い。
 レントゲン写真に痛みという関係性は映らない。だが厳然と在る痛みを打ち消すことはできない。どうしても発生してしまう関係性を打ち消すことはできない。できるのは、その痛みを抑えるための地道な筋トレである。地道さの果てに獲得する正確さである。オリヴィエの腹筋シーンは、だから素晴らしい。いくら腹筋しても残ってしまう痛みと同じく、『息子のまなざし』の関係性=物語は、いくら抑えこんでも残ってしまう。痛みは抽象でしかないが、でも在る。身体は、ときに抽象性のみとなる。
 ということで『息子のまなざし』はとても危うい。ダルデンヌ兄弟の演出は少し間違えば、具体を全く必要としない抽象ばかりを追い掛ける羽目になる。筋トレしすぎれば筋肉は悲鳴を上げ、痛みばかりに彩られる。生真面目さの果てに陥るそのサイクルは、そのまま身体の監視に行き着く。知らぬ間に、キャメラは監視装置を模倣する。『10話』と『沙羅双樹』を両極とする風景で、さて、ダルデンヌ兄弟の真面目さはどこに向かうのだろうか。

(松井宏)

 

2003/08/29(fri)
『ナインソウルズ』豊田利晃

 

 

 確かに。クリシェな映像、安易なセリフ、時にうんざりするスローモーション、スターたちへの奉仕(8人の女たち、9人の男たち?)、父殺しからメロドラムへの安易な和解(いや、決して和解ではないが)、犯罪者を立てた古臭い抵抗(資本主義への? 現代社会への?)……。確かに『ナインソウルズ』はあまりに無垢で無防備で、映画を撮ることや物語を語る際に発生する色々な罠に嵌り込む。
 しかし。冒頭のシーンをもって、このフィルムはいま見られるべき必然性を持っていると、言わねばならない。調和とリズムを崩しながら進んでゆくdipのギターとともに、都庁ビルへと向かって開始される空撮。地上の建築群が模型のように捉えられる。カメラが進むなか、すくに異常に気が付く私たちは、シンボリックな建物がひとつずつ消失してゆくのを見る。あたかも「時代」が丁寧かつ大胆に消失させられていくように、やがて東京タワーに至るとき、タワーのみを残して「東京」は焦土と化す。「時代」はズレ崩れ、時間と空間は横滑りを起こし、たったひとつの手がかり(タワーだ)に「東京」は、かろうじて引っ掛かる。灰色の空と土に挟まれ、太陽と月の区別を失ったその世界で、9匹のネズミ=亡霊たちが実験に晒されるのだ。『ナインソウルズ』の冒頭はこうして、「人間」と「東京」から一挙に離陸し、現在の風景を鷲掴みする。
 もちろん。その後の展開は、監督豊田の意図に関わらず、ある争いのプロセスとなる。豊かな「東京=トーキョー」と「人間」を回復するのか、あるいは宙に浮いたままネズミとして在ることを諾とするのか。父の存在を忘却し、母=女たちの元で幸福な遊戯にかまけようとするネズミは、現在から脱落し、いつまでも刑務所に入ったまま、この風景のうちで語ることの苛酷さを免除されるだろう。そして唯一、松田龍平と原田芳雄だけが、その苛酷さ、つまり東京タワーにかろうじて引っ掛かるあの「東京」を、そしてそこで物語を語ることを引き受けようとする。
 もちろん。その意志が意志となる前にこのフィルムは終了してしまう。だが豊田はとりあえず、ネズミたちの風景に立ったのだ、立ってしまったのだ。河瀬直美『沙羅双樹』ラストの空撮、奈良の旧市街と古墳を捉えたあの極悪反動的空撮から遠く離れた風景に。だから彼は、松田龍平のその後を加えた3時間30分ヴァージョン『ナインソウルズ』を作るべきだ。タイトルも変えて、シネスコで。その風景で物語を語るのを、恐れてはならないのだから。

(松井宏)

 

2003/08/26(tue)
『あじまぁのうた』青山真治

 

 

 見たことのないものを見る。仮にそれをドキュメンタリー(というか映画)の原初的な欲望であり役割だとしよう。けれど種々メディアの発達とその遍在に浸された現在で、そんなことは呑気なお話でもある。予告編でレニー・リーフェンシュタールの新作ドキュメンタリーが流れていたが(彼女はついに海底に究極の美を発見したそうだ)、そこでの無知な態度は『民族の祭典』に陥る。
 青山真治のドキュメンタリーは、いつも知覚の変容を体験させる。『カオスの縁』『路地へ』そして『あじまぁのうた』然り。脳ミソの回路を新たにつくり出す、それがショットやフォーカスの選択であり、つまり演出と呼ばれる事柄だ。未知(見・聴)のものの発見というよりは、既知(見・聴)のものが静かにズレを起こしていく。私たちはそれにダイナミズムを体験する。もちろん私は『あじまぁのうた』で初めて上原知子を知ったのだが。
 しかし「既知のもの」を、私たちは本当に理解しているのか? 青山はそれさえ疑問に付し、そして潔く「理解できない、わからない」と宣言する。上原の声を巡るエピソードと映像と音とを組み合わせても、やっぱりその謎はわからない。このフィルムはライブの様子を中心とし、その間に上原と照屋(林賢)のインタヴュー、レコーディング風景が挿入されている。上原の声を語る照屋。「彼女の声に呑み込まれないように踏ん張る。彼女の声はどっぷり<沖縄>だから」。それを聞いてしまった私たちは、以後、彼らが同時に収められるショットを呑気に見られない。縦横無尽のりんけんバンドの傍らで、いや、それを貫くようにポッカリと空いた穴。それがふたりの距離であり、対立や葛藤や理解だ。ときに「夫婦」(『交響』)と呼ばれる何事かだ。この絶望的な距離の出現に、私はダイナミズムを感じながら愕然とする。相変わらず秘密は秘密のまま、わからない。しかし脳ミソは勝手に回路をつくり出してゆくのだ。
 そうやって青山は真摯な混乱に身を委ね、迷うことなく迷ってゆく。彼らのインタヴューは、録音スタジオのガラス越しに行われている。不透明なガラスにはガサガサと動く撮影スタッフが映り、上原と照屋に被さるだろう。その映像は奥行きなんて微塵も感じさせず、ただただ折り目と襞に彩られた、一枚の映像を出現させる。これぞ『ファム・ファタール』。デ・パールマ……。なんくるなる、か。

(松井宏)

 

2003/08/20(wed)
『10話』アッバス・キアロスタミ

 

 

 クルマの中に2台の「監視カメラ」を設置すること。キアロスタミのやったことはそれだけだ。否、それだけではない。素人でも玄人でもよいけれども、女優と子どもをキャスティングすること、クルマの種類(最後まで何だか分からない)を選択すること、走るルートを決めること、クルマの狭い車内に撮影技師と共に身体を捩らせて滑り込ませること、信号待ちの間隔を前もって調べておくこと、そして何よりもクルマの中にいる「登場人物」の物語を前もって決めておかねばならない。まったく偶然性に任せるわけにはゆかない。もともとイランは雨が降らないかも知れないが、ある程度の天候を維持できる照明が必要だし、物語と関わる「時間帯」だって、設定しておくべきだろう。こうした光景を映し出すために、実は「演出」しておくべきことが多々ある。これが(フィクション)映画だからだろうか? 諾。映画を撮るためには、多くの「やらせ」が必要だ。だいたい娼婦をクルマに乗せたことのある女性が何人いるというのか? そう、すべては「やらせ」である。しかし、「やらせ」はいけないのか? 大地震から半年後に、あたかも地震の直後に現場を訪れたように見えるフィクション映画を撮るキアロスタミのことだ。念の入ったことに、大地震直後に行われたイタリア・ワールドカップのゲームの実況中継さえ、この「フィクション」に盛り込んだほどだ。
 そう、すべてはフィクションだ。「監視カメラ」には「フィクション」が映る。その逆説に向けて、このフィルムは撮られているのか? 否、そうではない。そうであるけれども、そうではない。多くの演出を施すことで、「何の演出もしていないふりをする」行為は、キアロスタミの場合、「本当らしさ」にばかり向かわない。確かに、このフィルムを見る観客にとって、このフィルムは「本当らしく」見えるだろうが、クルマに乗っている「登場人物」がカメラを見つめない限り、彼らは逆説的に、「ここ」と「そこ」に「監視カメラ」があることを前もって知っている。
 そして、こうした「フィクション」の仕掛け(やらせ)は、私たちの生きる「日常」ではないのか? 高速道路の出口にも、コンビニの各所にも、職場にも、学校にも、私たちは至るところに「監視カメラ」があることを知っている。それを知りつつ、カメラのレンズを私たちは見つめない。その意味で、このフィルムは、その原作者としてミシェル・フーコーという固有名が思い浮かび、サブタイトルとして、「規律社会から統制社会へ」と持つことは書くまでもない。「統制社会」では、すべてが仕組まれ、フィクションに堕落し、私たちは決してそこから逃れることはできない。このフィルムを見ながら、私は、ベルトルト・ブレヒトの「異化効果」の現代的な用法を知った。

(梅本洋一)

 

2003/08/14(thu)
『あじまぁのうた』青山真治

 

 

 このフィルムの冒頭から、映画という技法の持つ、この上もない安定感に私たちは捉えられる。ステージの上にいる歌手。彼女の姿がバストショットで捉えられ、次第にクロースアップに変容していく。唄を歌う人物を捉えるのに、映画が、伝統的に採用してきた技法が、真摯に上書きされ、その中心に上原知子という歌手の緊張感を微笑みで押し隠した顔がある。私たちは、こうした歌手を映画の中でなんど見たことだろう。ごく自然に、気づかれないように顔が少しずつ映像の中で大きくなっていく。ごく自然に編集された(ように見える)この映像だけをとっても、青山真治が抱いている映画に対する敬意の深さが感じられる。そして私たちは、映画がこのような自然さを獲得するためには、異様なまでの努力が要ることを知っている。ましてや、一度限りのライヴを、おそらく2台のキャメラで捉えただけのマテリアルを、心を込めて──つまり、映っている人と物に、限りない敬意を込めて──編集し、そこにある物と人が強度を備えて立ち上がるように映像を繋いでゆく行為。そして、そこに、比類なき声を乗せていき、その声に、「沖縄」と見せること。『あじま;あのうた』はそうしたアクロバティックな行為に見事に成功している。
 私は、このフィルムを見聞きしながら、「偽の単純さ」fausse samplicitéというフランス語を思い出していた。「単純」に見えながらも、その「単純さ」を獲得するためには、ひどく複雑で疲労を伴う行為を反復しなければならない。たとえば「偽の単純さ」という言葉は、料理を形容するのに多用されるだろう。素材の味を極限にまで引き出すためには、いかに良質であっても素材をそのまま放り出してはならない。塩を加えるときさえ、厳選された塩を吟味し、ソースを作るのは、そのソースの味を出すのではなく、ソースの味を消し、素材を活かすためにこそソースを作る。そうした一品を食する者は、素材の芳醇な味を感じるはずだが、その芳醇さを引き出すためには、信じがたい迂回が必要だ。それこそ「偽の単純さ」なのである。私たちは、上原知子の衣装と声から、リンケン・バンドの音響とステージから、「沖縄」を感じている。ライヴ・ハウス、スタジオ、楽屋に徹底して留まるこのフィルムには、さっぱり「沖縄」は見えてこない。私たちは、次第に、上原知子の声から「沖縄」を強く希求するようになる。
 上原知子の歌声が俄に「天上」のものと信じられなかった者でさえ、このフィルムのラスト近くで、それまで私たちが見たいと望みながら私たちから故意に排除されていたように思える「ビーチ」がかすかに見えるころから、それは「天上」と言うほかない何かであることを納得する。

(梅本洋一)

 

2003/08/14(thu)
『沙羅双樹』河瀬直美

 

 

 このフィルムがカンヌ映画祭で好評を博したのは、単なるエキゾティスムのためか? こうしたフィルムにいかなる場合においても、どんなかたちでも「賛辞」を贈ってはならない。河瀬直美には、確かにその「ドキュメンタリー」的な手法において、その作家性を見いだすこともできるだろう。だが、常にキャメラの存在を感じさせてやまぬ縦横に揺れ続ける手持ちキャメラは、決しては「ドキュメンタリー」的なものではない。作り手の眼差しをあまりにあからさまに露呈させ、「私」性を強調することにしかならない。祭りのシーンは、上空から派手に散水され、それが晴天の空と対置されている。「私」は雨を降らせたい。「私」は、「女性」性を強調したいがために「子ども」を生み、非在の息子の再生を行う。「女性」である「私」は「大地から作物」を産み出す仕事に従事している。「私」は……。「私」は……。
 奈良の町を映したいなら、それはそれで文句はない。だが、常に日本家屋が続き、伝統的な縁側を有する家並みばかりが存在する「奈良」は「私」の「奈良」でしかない。そこにある自然もまた「私」の自然でしかない。映画は、「象徴界」とばかり戯れていてはならない。このフィルムは、故郷に回帰することを促し、「種」の優等性を主張した「独裁者」の戯言と寸分違わないではないか。
 映画を撮ることとはもっと誠実な行為であるべきだ。もちろん、その行為は「私」とも関わるが、キャメラのレンズを通して見えるのは、常に決定的な他者であって、ファインダーを覗く者は、その「他者」性に驚愕することから始めなければならない。これは、映画に関わる者の最低限のモラルであり、そのモラルを遵守しない者に映画を撮る資格などないのだ。

(梅本洋一)

 

2003/08/14(thu)
『パイレーツ・オブ・カリビアン』ゴア・ヴァービンスキー

 

 

 どこまでも果てのない海の広さなど実感できるシーンはないし、ジョニー・デップとキーラ・ナイトレイが置き去りにされる離島はまるでリゾートのようにきれいだし、そこでは一夜限りのお手軽な非日常がすごされるに過ぎないのだし、“自由”の象徴たる海賊は掟と呪いに縛られている。限りある海で、様々に制限を受けた海賊たちは(しかもジョニー・デップの言葉を借りれば、彼らこそ「最後の」「本当の」海賊たちなのだ)、死に場所を探している。『パイレーツ・オブ・カリビアン』は、去勢された海賊たちへの挽歌である。
 『ウォーターワールド』では、ケビン・コスナーは海へと何度も飛び込み、何度もそこから勢いよく飛び出してきていた。エラやヒレといった彼の身体的な特徴は、そのまま他の人間よりも大きな自由を体現していた。ところがこの『パイレーツ・オブ・カリビアン』では海と自由に戯れるなどということはない。海兵は泳げない。霧に包まれた海、月明かりだけが照らす海、海は拒絶と停滞とを印象付ける。確かにジョニー・デップは、何度か海にその身を鮮やかに翻す。だがそれよりも記憶に残るのは、船の強奪のために2度繰り返される海底の行進だ。海水はただ身体の動きを制限する枷となり、周りの視線を遮断する覆いになる。
 死ぬに死ねない愚鈍な身体を持った海賊たちは、だらだらと停滞した狂騒を続けながら、裏切りの清算を待ちつづけなければならない。ついにその瞬間がやってきたとき、ジェフリー・ラッシュの胸を流れる赤い血は、果たして白骨化した胸郭から零れ落ちる赤ワインよりも価値があるのだろうか。再び停滞した狂騒が開始されるまでのわずかな間、あたりは深海のような静寂に覆われるが、もしいまだに海や海賊が自由と呼ばれる何かでありえるためには、この深海の水圧と沈黙にかなりの長い時間身をならす事から始めるしかない。

(結城秀勇)

 

2003/07/31(thu)
『ドッペルゲンガー』黒沢清

 

 

 ホームセンターから買い物を終えて出てくる永作博美。冒頭のシーンから世界はDIYの様相を示している。背後には「SALE」、「BARGAIN」とアルファベットが綴られた板を持った買い物客。彼らは資本の流れすらDIYする。と同時に、世界はアンダーコンストラクションでもある。仕事を馘になった役所広司が電話する背後では、マンションが2棟建設中である。カスタマイズとスクラップ&ビルド。この際限なき自己増殖、自己解体、自己適応化の末に、役所広司が住む部屋の玄関からの眺望は得られる。
 自己自己自己の連呼の中で、役所広司演ずる早川道雄はさらに無闇に自己にかかずらわなければならない。それが彼の前に姿をあらわすドッペルゲンガーであり、彼が発明する人工身体である。これらふたつの「こうあり得たかも知れない」自己を結局彼は破棄することになる。あるいは彼が破棄されたのかも知れないが。いずれにしても、ドッペルゲンガーを殺してしまう男の手付きにはある種奇妙な爽快感と居心地の悪さが宿る。俊敏な相手の動きを怯ませるためでもなく、動きのとまった相手の息の根をとめるためでもなく、ゆらりゆらりと鈍く動き続ける物体を否定するためにその顔面をスパナで殴る光景など、私はかつて見たことがない。
 新潟へと向かう車内で突如始まる奇妙な追いかけっこの間、登場人物たちは前提となる世界を縦横無尽に行き来する。そこで描かれるのは東京から新潟への道程などではもちろんない。先行する車に徒歩で追い付き、追いこされ、また追い付く。完成すれば壁になるはずの柱と柱の間を通り抜け、あるいは、かつて壁だった場所に開いた穴をくぐり抜けて、先回りし、あるいは、遅れて現れる。廃墟は絶えず建設中である。
 笑いを誘う転調に次ぐ転調の果て、エンディングテーマが流れ出すころに、なんらかの保留なしに笑えることなど本当はなにひとつなかったのだと気付き、笑う。

(結城秀勇)