「お名前は何でしたっけね?」 依頼人は濱マイクにそう声をかけつつ去っていく。マイクの手には依頼人から渡された札束の入った封筒が握られている。だいたい依頼人はマイクの名前を覚えることができないのだ。「ねえ、濱さん」 「マイクです」 「そうマイクさんね」 出会った日から娘の捜索を依頼する探偵の古根医務が覚えられないのだ。
そして娘がいるのは、得体の知れぬ「自己啓発セミナー」。「ここでは固有名詞は使わないでください。皆、番号で呼ばれています。あなたは57番」。
初冬の枯れ野が広がった森の空気は実に透明だ。木々の枝の一本一本の彼方にくすんだ青空が見える。「そう、森の奥にあなたそっくりの木があるんです。見に行きませんか」。「先生」と呼ばれる女性は57番を誘い出す。「あなたにそっくりな木」などありはしない。木は木だ。俺は木などではない。それに木はみんな似ているものだ。
そこには。本当に何がしたいのか探しに来る人々がいて、それが見つかったら、そこを去っていく。57番がいた短い間にも、ふたりが去っていった。去っていく人を、残った人々が無気力な拍手で見送る儀式。最初に去っていった男。翌日の朝刊には、無差別に人を斬りつけた男が捕まったと新聞に載った。そして57番と身体を触れあった21番の女性。彼女が次にそこを出ていくのだが、彼女は救急車に乗ってそこを出た。自殺を図ったからだ。
人々は距離のなかにいる。触れあうこともない。固有名で呼び合うことは禁じられている。絶対的な距離の中にいて、人々は自分と向かい合おうとするのだろうが、そんなときに見る自分が美しくあるわけがない。何もない冬枯れの森も、手つかずの自然という美辞麗句とは正反対の不気味な距離を、絶対的な距離を示してしかくれない。あなたとわたしの間にはどれほどの距離があるのか。そんな問題を立てることはできない。あなたとわたしの間には距離があること。その距離は踏破しがたいこと。それだけが重要なのだ。
1:1,66のフレームの中にひたすら遠く捉えられた人物も、果てしない自然も、私たちに距離を意識させてくれるだけであり、そのとき、私たちは単に番号で呼ばれるだけの「ひと」になり、おそらく野辺山近くに存在するだろう眼前の自然もまた、単なる木と山でしかなくなるのだ。
依頼された仕事──娘を連れ戻し依頼人に返す──を終えたマイクの手に札束の入った分厚い封筒が渡される。彼の成し遂げた仕事もまた、分厚い封筒の中にあるはずの金銭の総額という数に換言されるだろう。そのとき、依頼人は、マイクの名前を忘れる。この文章の冒頭に書いた台詞が原田芳雄の口から漏れるのはその瞬間である。57番から「濱マイク」に戻ったはずの彼が、クルマと携帯を取りに行くという口実で再び、あの森に向かわざるを得なくなるのは当然のことだろう。もちろん自らと同じように名前を欠いた森のなかにある、名前のない人と似ている名前のない木と対面するためだ。
(梅本洋一)
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