『ローリング』冨永昌敬 渡辺進也
[ cinema ]
小金をうまいことせしめた元高校教師とその元生徒たちは、東京の弁護士に何もないただ広い荒野に連れていかれ土地を買わされようとしている。この土地にソーラーパネルを置いて一儲けしないかと提案されているわけだ。そこで弁護士は次のような言葉で彼らの購買欲をかきたてる。
「想像してください。この土地にソーラーパネルが並ぶ様を」
「見てください。この眩しい太陽を。なぜ眩しいのか。それは電気だからです」
まるで詐欺まがいのこのセリフだが、ここで彼らはその様をただ想像するだけでお金持ちになる未来の自分たちの姿を思い描いて興奮を示す。だが、この「想像すること」と「見ること」はこの『ローリング』の映画そのものを説明しているようにも思える。監督はこの映画をおしぼりとソーラーパネルの映画だと語っていて、それは水戸で映画を作るにあたり、調べていくなかでみつけたものがその2つなのだと言う。だが同時に、おしぼりとソーラーパネルとは見えるものと見えないものとを表しているのではないだろうか。つまり、見ようとしなくてもそこに当然のようにあるものと想像しなければ見えないもの。今回、オリジナルの脚本から始められたこの『ローリング』で冨永監督は、この可視なものと不可視なものとをめぐってひとつの作品を作りあげている。
おしぼりは回収し配達するという主人公貫一(三浦貴大)の仕事として、汚れたものを新品同様にリサイクルさせる工場の作業として、そして街の中を運搬され床にぶちまけられるものとしておしぼりはある。水戸の男・貫一と東京からやってきた権藤(川瀬陽太)の女みはり(柳里衣紗)が出会うのもまた、女の血が噴き出した傷をおしぼりで拭うという行為を介してなのである。そのとき、ふたりはおしぼりという物を介して惹かれ合うことになる。その姿が何よりも艶かしい。一方で、ソーラーパネルという度々人々の口からその言葉が発せられながら一向に姿を表さないものである。姿を現すのは、この映画の登場人物でもある女性タレントが出演するCMの中で数秒のみである。CM中彼女が言うセリフは「ソーラーパネルは魔法の絨毯」。ソーラーパネルは現状をどうにか変えてくれるマジックのようなものとしてあるかのようだ。
あるいは元教師が職を奪われるきっかけとなる女子更衣室の盗撮映像。これもまた想像することと見ることの両方の意味をもってこの映画に登場する。10年の歳月を経て、この元教師の家で生徒たちと共にその映像を見る場面がある。その映像がまた新たな騒動を巻き起こすことになるのだけれども、だがそこで本当に驚くのは10年の間誰もそこに映されているものを権藤を含む誰もが知らなかったということなのだ。元生徒たちはそこに映されているものをただただ想像し続け、権藤は見た訳でもないのにそれをみようとする行為をしてしまったために自分の人生をめちゃくちゃにした忌まわしい過去の産物としてあり続ける。教師は女子更衣室を覗き見たから職を奪われたのではない。それを映像にして見ようと想像したから職を奪われたとも言えるのではないか。権藤は自分がしてしまったことに対してずっと後悔をし続けるけれども、実際には生徒たちの人生をめちゃくちゃにしてしまったと想像するから後悔をしている。しかし、実際の生徒たちはあっけらかんとしたものでみんな今の生活を満喫している。拭い去れない過去とは実際のところ、権藤の想像のなかにあるものでしかない。想像と実際の状態との乖離こそがずっとこの映画のなかで重奏和音のように響き続けている。
『ローリング』は権藤の次のようなナレーションによって幕を開ける。雛たちがピーチクパーチク鳴いている鳥の巣の映像を映しながら、「これが現在の私です。嘘でも冗談でもありません。なぜ私がこうなったかその訳を話しましょう」。これまで冨永作品を見てきた者ならば、この元教師がまさにその姿になってしまうことを容易に想像できるだろう。これまでの映画で何の惜しげもなく、サスペンスを、不和と和解を、乱暴を、馬鹿騒ぐ様を文字通り見せ続けてくれてきからだ。そして、この『ローリング』でもそれは同じである。見せるべきものを丁寧に示し続けながらこの不可思議な男の言葉へとたどる道順を経て、私たち観客がその鳥の巣の姿に再び出会うとき、映画とは可視なるものをめぐって為されるものだというこの映画の作者の信念に深く共感することになるだろう。
6月13日(土)より、新宿K's cinemaほか全国順次ロードショー!
『ローリング』冨永昌敬監督インタヴュー「それが語っている以上は姿を見せないといけない」