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~NOVEMBER
-『倦怠』セドリック・カーン
-『インビジブル』ポール・ヴァーホーヴェン
-ミュージカル映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の前に
-『JAM JAM 日記』殿山泰司(ちくま文庫)
-『TRUTHS:A STREAM』槌橋雅博
-『ブルース・ハラーズ&ハローズ』レッド・クレイオラ
-SOUND TRACK『piello piccioni』`fumo
di londra´
-『ユーバー・クロイツ』ラインヒルト・ホフマン&スザンネ・リンケ振付・出演
-『イディオッツ』ラース・フォン・トリアー
-『エレメント・オブ・クライム』ラース・フォン・トリアー
-『バッド・ボーイ・ニーチェ』(リチャード・フォアマン作・演出・デザイン・作曲)
-『鏡の中の亀裂』R・フライシャー
-『イディオッツ』ラース・フォン・トリアー
-『傷だらけの挽歌』R・アルドリッチ
-『キッド A』レディオ・ヘッド
-「吊り下げるインテリア。」
-『トリトン改訂版 2の3』フィリップ・ドゥクフレ&カンパニーDCA
-「土曜の夜を家にいて。」
-『スペースカウボーイズ』クリント・イーストウッド
『倦怠』セドリック・カーン
つまりこういうこと。原題『LユENNUI』を辞書でひく、するとまず最初に「心配事、厄介事」という訳があてられていて、「倦怠、退屈」は三番目に位
置する。実際、冒頭での別れた妻の主催するパーティー・シーンから主人公は常にイライライライラしてる。だから、その場で誰とも安定したコミュニケーションをとることのできない彼をとらえる手持ちカメラの揺らぎもまた、このフィルムがここ日本においては『不安』と呼ばれるべきなんだと宣言しているわけだ。17歳の女の子とセックス漬けの毎日になろうが、間違っても彼は「倦怠」なる状態にあるわけではなく、常に「心配事」、「不安」にとり憑かれている。その「不安」は彼の立つ空間にも明らかに伝染してゆく、いやいや、そもそもこの「不安」はセドリック・カーンその人のものだろう。
セドリック・カーンの「不安」はどこからくるのか?それは「距離」の喪失である。急降下する坂の頂上から映し出される道路にはもはや、アントワーヌ・ドワネルが幸福な結婚を遂げたパリもないし、かといってそれは『北の橋』で迷路になってしまったパリではないのか、などと言えもしない。『北の橋』でいくらそこが迷路になろうとも地図を手にした彼女達はやはり測定可能な「距離」をも手にしていたはずだし、ドワネルがいくらそこに近付こうともそれは「喪失」ではなく「結婚」なのであり、やはり「距離」なる概念は存在していたはずだ。彼等はその正常な身体でもって、或る「距離」を導入し、すなわち「他者」を発見すると同時に「自己」を発見し、そしてさらに同時に、自らの身体の立つ「いま・ここ」にその「他者」という存在もまた在ることをはっきりと確認し「私<たち>は<いま・ここ>にある!!」と宣言するにいたるわけだ。ところが現代のパリに在る『不安』の主人公がそんな宣言をできるはずもなく、彼は狂ってしまった身体でひたすらセックスしまくるだけだし、そんな男と女の子の乗る車を前方からとらえようとするセドリック・カーンは「距離」を取り戻そうとするのか、それとも「距離」なんてものを知っているはずもないのか、前へ近付いてみたり後ろへ遠のいてみたり、どうしていいのかわからないままただ「不安」を僕達の眼の前に曝け出すのみだ。
しかしながらこの「不安」は彼にとっても、また僕達にとっても絶対に手放してはならないものであって、間違ってもそれは「倦怠」などという名のもとに隠蔽されてはならない、そう、絶対にならないはずだ。その意味で「そこから<倦怠>が始まる」(青山真治)ことを示してみせた病室でのラストの主人公の表情は、何と言おうが、あってはならなかったのだ。
つまりこういうこと。 決してあの表情に騙されちゃあいけない。
(松井宏)
『インビジブル』ポール・ヴァーホーヴェン
この映画では冒頭から主人公ら化学者一団は生物の透明化に成功している。ここでは見えなくなることは奇異なことではなく、この映画の原題は
"invisible" だったり "the invisible man" ではなく "hollow
man" である。 "hollow" とは「空洞の」とか「うつろな」とか「実質のない」とかいう意味があるらしいが、「脳みそまで一緒に消えちまったのか?」という、透明人間のエスカレートする行動をヤジる仲間の発言が示すように、彼はその身体の内側に宿るはずの人間性も「空っぽ」になるのである。
いや「人間性」というよりもむしろそれは「身体性」である。というのも彼は足音も気配もないからだ。彼が睡眠中の女性に近づき、イタズラしても気づかれないのは彼の身体が見えなくなったのではなく、消えたからだとも言える。さらには、彼は気配なくして移動して突如としてあらゆる所に現れる。彼はいつの間にか後ろにいる。もっともそんなことはホラー映画の常套かも知れないが、他の登場人物が不安なのは彼が「見えない」ことではなく彼に「見られているかも知れない」ことである。だからむしろ「彼がいるかも知れないわ」という透明人間の遍在性を作りだすのは彼らなのだ。また、透明人間の最も特権的な行為は「見られずして見る」ことである。映画の冒頭、主人公は女性の着替えの覗きに失敗する。覗きとは「見られずして見る」行為だとすれば、透明人間がその行為を成就するのは容易い。
つまり透明人間は、1:身体性などなく、2:あらゆる所に遍在し、3:見られずして見る、というわけである。これは端的に(見えない)カメラのことなのだ。それが証拠に映画の中では、何度も透明人間の主観ショットがでてきて、透明人間=カメラとなる。その瞬間透明人間の身体は完全に消え去り、薄っぺらいスクリーンと化す。何度もこの透明人間が、俺が神だ、と主張することも考慮すれば「神=カメラ」の構図も見えてくる。その構図を物語内で消化するだけではないという意味で『インビジブル』は『トゥルーマン・ショウ』より興味深い。だが究極に「見られずして見る」のは相変わらず観客であるのだから、ヴァーホーヴェンに次の段階があるとすれば、そんな観客の位
置をも揺さぶることではないか。
(新垣一平)
ミュージカル映画-『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の前に
昨日(11月25日)ははるばる多摩センターまでいって来て、『EUREKA』を観た。『EUREKA』について言いたいことは割と頭に浮かんでくるのだが、ここでそれについて述べてもまだ観ていない人々から非難殺到だと思われるので、現時性と言う観点から言えば決して良くは無いだろうが、最近観た映画(ビデオ)から話を始めたいと思う。
夏休み中に必然性から、ヴィンセント・ミネリの『イースター・パレード』を観た。それまでミュージカルと言えば『サウンド・オブ・ミュージック』『ウェストサイド物語』ぐらいしか知らなかった私にとってこれは全く新鮮な出会いであって、それからミュージカル作品を、決して数は多くないが何本か観てみた。(『バンド・ワゴン』『巴里のアメリカ人』,スタンリー・ドーネン監督の『踊る大紐育』『雨に唄えば』等)
ミュージカルについて、シネフィルの某知人からこんな話を聞いたことがある。「セルジュー・ダネ―とか読んで、「現実」って何?とか考えている連中の中には、ミュージカルを嫌って全然評価してない奴が多い」だそうだ。私はダネ―の『不屈の精神』を読んだがミュージカルは大好きである。何故私はミュージカルが好きで、ダネ―を読む人の中にミュージカル嫌いが多いのだろう。
確かにそう言われてみると納得できないわけではない。「現実にこんなことあるわけない」事の連続がミュージカルであるし、子供騙しにしか見れないのかもしれない。しかし「現実に起こり得ないこと」が「現実」の概念から除外されるなどとは到底言い切れない。「『何も見ないことを選択する』というその『残酷さ』が私達の時代の“レアリスム”であるとダネ―は記している」と、ある本のなかで樋口さんが述べたように、“レアリスム”というのが「見る、見ない」という行為以上に、「残酷さ」という感覚に密接に結びついているのが「私達の時代=第2次世界大戦以後の時代」ではないのか。「現実に起こり得ない」ということは「現実に見ることは不可能だ」と置き換えることができる。しかし「見ることが不可能」だからと言って、それが「現実ではない」などとは言えないのである。
このように捉えている私はミュージカルが大好きであるし、またミュージカルが、「身体性を備えた、究極の脳の映像」であるとも思っている。ミネリやドーネンのミュージカルには迷いやぎこちなさ、不自然さが微塵もなく、ハリウッドのシステムに守られた完全に滑らかな身体性を備えている。それが滑らかであるが故に、身体を司っている脳の存在は表面
上は感じられないが、だからこそ余計に脳の映像であると私は感じるのである。そう考えると、「脳の映像作家」と呼ばれているトリアーが新作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でミュージカルを撮ったということも、その発想はすんなり納得できるように思うのだが。
トリアーについて書こうと思って書き始めたのだが何だか長々となってしまった。この続きは来週書きます。多分。
(澤田陽子)
『JAM JAM 日記』殿山泰司(ちくま文庫)
11月25日、殿山泰司『JAM
JAM 日記』(ちくま文庫)
多摩センターまでのノロノロ進む電車の中で、終に『JAM
JAM 日記』を読み終える。殿山泰司の言葉を借りれば、気の向くままに「途中下車」を何度もしながら読んでいたので、読み始めてから半年ぐらい経っているのだが、それはそれでこの本に合った読み方だったのかもしれない。
書名にある通りこの本は自称「三文役者」殿山泰司の約1年半に渡る日記なのだが、別
段大きな事件について記されているではなく、「ジャズとミステリと映画に溺れる日々を活写
」(後扉の解説より)しただけのものだ。だから「私はジャズやミステリや映画には通
じてないから読んでも面白くないでしょ?」と言う人もいるかもしれないが・・・バカヤロ!四の五の抜かさず読まんかい!ヒヒヒヒ。・・・といった風な殿山泰司独特の擬音語を多様に含む短い文章の粋なジャムセッションを読むだけでも十分楽しめる。
が、今回特筆したいのはその内容のほうで、「いつもと同じようであり同じでないモウレツな音に頭をシビレさせる」「ウーン!とうなった」「何だろうなあ、オレの好みではないんだ。残念!」「75点だな」といった率直な感想なのだが、それは単なる「適当な」感想ではないのだ。ひょっとすれば2、3日分の日記を読んだだけではそう思えるかもしれない。しかし彼は日々膨大な量
のジャズを聴き、ミステリを読み、映画を見、そしてそれと同じくたくさんの映画に出演しており(自分では「ヒマな役者」を自称しているがトンデモナイ!)、そしてそのどれについても知識に寄り掛かることなく、愛情を持って「自分の」感想を記している。つまりそれらについて考えることが彼の生活そのものなのであるし、日々の生活の些細なことや政治的なことに対しても首尾一貫して「自分の」考えを持っている。文庫版解説で大友良英はそれを「インディペンデントの精神」と表わしているが、彼も書いているように果
たして真に「インディペンデントの精神」を持った人がどれほどいるのだろうか?(もちろんカサヴェテスの名前は真っ先に挙がるだろう)・・・そして我が身を振り返り「バカヤロ!」を何度も連発したのでした。
で、多摩映画フォーラムで『EUREKA』を見たのだけれど(それについては興奮冷め遣らぬのでまた後日)、アルバート・アイラーが流れるところでふと思い出した『JAM
JAM 日記』の一部を長いけど引用して終わりたい。
「野間宏『狭山裁判』の中にこんな文章があった―裁判長は、なにゆえにこのような重要な証拠調べの請求をしりぞけたのか。裁判の審理が真実の方向へと向かうのを恐れていたとしかいいようがないと私はいいきらざるおえない―オレはとてもオソロシイ気がした。そして、無性に腹が立った。みんな死んでしまえ!!アルバート・アイラーのレコードをかけてボリュームをウンと上げる。音の激流の中にうずくまってココロを静めてたら、バアサマがやってきてウルサイ!!と怒鳴らはった。オレはどうすればいいのだ?」
(黒岩幹子)
『TRUTHS:A STREAM』槌橋雅博@吉祥寺バウスシアター
果たしてこの確信犯的に「TRUTHS」と題名に付されたフィルムは、37歳の新人、槌橋雅博という、数年前までNYのSoHoでウッド・ベースをかき鳴らしていた男によって撮られた。今年のベルリン映画祭で、「ダニエル・シュミットに激賞された」らしいのだ。まずフォルムに関するいくつかの特異性を列記する。上映時間182分/モノクロ&カラー/英語字幕付。これらがフィルムを生成するエッセンスとなっている。物語は、ほとんど女(政治家の娘、その家系を継承することを義務付けられている)と男(女の初恋の相手、大学教授)のモノローグとも対話ともつかぬ「語り」によって進行するのだが、この「語り」は日本語で「発話」されていると同時に可視的な「言語」としての英語の字幕としても現前するのである。そこで語られる言葉は、哲学用語などの専門用語の組み合わせ(パズル)のようであり、口語としての利便性にまったく欠けている。明確な精神の表現であるようであり、それはどこか迷走しているようでもある。それは時折フラッシュバックするカラーの映像が突如として現れるように、突然、思わぬ言語が現れるのである。(言語が現れる、という言葉の裏には「発話」される日本語の台詞があまりに意味を限定してしまう為、英語の字幕で意味を追ったからだ。声は音として聞き取った。おそらくNYでの長い生活をした槌橋雅博は英語でシナリオを作ったのではないか。)キリスト教的な「神」を信仰しているはずの女が、突然、「死者の書」だの「仏陀」だのと口にするのも、あまりに迷走している。それはそれで、女の信仰の問題なのだが、引用されるニーチェの言葉(フォアマン!)を始め、哲学的な用語の羅列が「物語」としておよそ結実しないのは致命的とも言える。全てから自由になりたい、そして跳躍したいはずの彼らが、
「We created anything?」(神=創造主への挑戦、抵抗の意志)
「Yes.」
「We'll created our tomb」
というのはその象徴である。そもそも極めて宗教的な「tomb=墓」を自ら作ってその中で自決してしまうのだから。ダイナマイトを体に巻き付け死ぬ方が、よっぽど良い。
映像(技術の面でも)として面白いところが大いにあるのは確かである。
(公式サイト/http://www.art-of-wisdom.com/index_japanese.html)
(酒井航介)
『ブルース・ハラーズ&ハローズ』レッド・クレイオラ
ジム・オルークがらみで、買ったまましばらく放置されていたクレイオラのCDを聞いてみることにした。たいていCDはまとめ買いするので、どうしてもちゃんと聞きそびれるものがでてくる。ジム・オルークがらみでというのは、68年にはクレイオラのイヴェントにジョン・フェイヒィが参加していたり、その両氏(一方はバンドだけど)の作品をジム・オルークが90年代にはいりプロデュースしていたりということである。ちなみに今作は彼のプロデュースではないのだけれど。
まず気になったのは、メロディー・ラインがもう少しで口ずさめそうなのに、決してそのように予定調和的なものにはならないということである。要は、音痴な人がウォークマンを聞きながら歌っているみたいなヴォーカルなのだけれど、そういう人の持つ必死さみたいなものはまるでないし、最初の曲ではたった二つの音からワン・フレーズを歌い出し、一つ一つの音程を確かめるようにして音を増やしていきながら壊れたメロディーを創り出し、さらにそれを崩壊させてゆくというようなものなのだ。次第にそのヴォーカルは彼らの音楽の中に、高度に規格化されたものと形式から逸脱していくものとを同時に溶け込ませていくかのように作用する。いわばその両方を当然のもののように併せ持つものなのである。
そしてこのアルバムは終盤になるにつれ明らかに異物としてのエレクトロニクス音によって侵食されていく。それはあれほど頑固にリズムを刻みつづけていたドラムにもとって代わり、最終的に音楽自体を推し進めていく原動力になってしまうのだ。だがそれは異物としてあることによって、リズム面
での安定感を喪失することによって、逆にトータルな音楽的安定感を獲得している。ただそのようなものの不安定さを受けいれることによってのみ「ブルース」という形式にかろうじて収まることができるのかもしれない。
(中根理英)
SOUND TRACK『piello piccioni』`fumo di londra´
先週、渋谷HMVで『piello piccioni』のサントラ”fumo di londra”を買う。もとの映画は1966年albert sordi監督作のようであるが、もちろんそんな監督は知らないし、映画を見たこともない。なぜ今更そんな物を買ったかというと、東急ハンズの向かい側にあるヒップホップがたくさん置いてあるようなレコード屋に”mr.dante fontana”(このサントラに入っている曲)の12インチがたくさん置いてあったからで、おそらく渋谷系ではやっているのだろうと。実際聞いてみると、スキャット(言葉が分からないからそう聞こえているだけかも知れないが)のようなものが入っていて、数年前に流行った(と思われる)『天国か地獄か』のサントラの”マナマナ”によく似ている感じを受ける。似ていると言っても、イタリアでスキャットで同じ時代となると同じような雰囲気になるのだろうが、とりあえず”mr.dante fontana”は渋谷系の、あるいはかつて渋谷系であった音楽だった。曲は前半のmr.dante fontanaや、キミキナーナ(と聞こえる)という声の繰り返しによる馬鹿騒ぎの雰囲気から、後半に女性の声の歌(英語)が入ってくると徐々に物静かな曲へと変化していくのだが、もちろん映画を見ていないので何とも言えないが、もとになっている映画のイメージをそのまま表していそうだし、その他の曲はそれらの持つ雰囲気に相応な場面 でかかっていたのではないかと、想像できてしまう。何がいいたいのかというと、サントラだといわれなくてもサントラだとわかりそうだということだ。だからといって映像と切り離された状態で聞いても十分に聞ける。そして、結局このサントラは、とりわけ”mr.dante fontana”はそのくだらないというか幼稚な部分を差し引いてもまだ聞き所がある素晴らしい出来の曲だと思う。どこにもひねったところはなくすべてが一つの曲として調和しているはずなのに、すべてがバラバラでかみ合っていないように聞こえるのだ。それは、スキャットが子供の声だからというだけではないはずだ。
(志賀正臣)
『ユーバー・クロイツ』
ラインヒルト・ホフマン&スザンネ・リンケ振付・出演 @パークタワーホール
「ドイツ」、「ダンス」、「女性」とくるとどうしたってピナ・バウシュを思い出しちゃうわけだけど、このホフマンとリンケの二人も彼女と同時期にクルト・ヨース創設のフォルヴァング芸術学校で学び、その後世界中で活躍するようになったダンサー/コレオグラファーなんだそうだ。
「ユーバー・クロイツ」とは英語で「オーヴァ−・クロス」(交差、十字)を意味するらしい。その名の通り舞台上には、いくつかの異なったレヴェルでの二つの要素の交わり、「交差」が出現していた。
三面を背の高い衝立で囲まれた、ほぼ正方形といえる一面白色の舞台。中央には周りを囲むそれよりもずっとサイズの小さな長方形の衝立が横に広がる。いやいや、実際これはただの平面じゃあなくて、大きさの違うL字型の板が組み合わさった装置だったわけで、それらはシーン毎にその位置を、組み合わせを変えられてゆく。
そこでは何が交わっていたか。第一幕で中央の装置に映し出された、ラバンのシステム(ラバノーテーション)による舞踊譜、つまり舞踊のテクストによる動きと、明らかにそのテクストから逸脱するようなダンス、身体の動き。ぶっちゃけていえば、「記憶」の再現としての身体と、彼女達が生み出す「新しい身体」といったところかな(このことはリンケのほうに顕著に見られたと僕は思う)。でも当然「新しい身体」はテクニックのみに任せたむやみやたらな動きによって得られるはずもなく、第三幕でリンケは、筋肉と血管むきだしの腕、足をどうにかこうにか動かそうと悶えながら床の上をゆっくりと転がる。まさに不可能性のうえに立ちつつ可能性を探ってゆく光景、それは絶対に倫理的である(以前に観たアルヴィン・エイリ−・アメリカン・ダンス・シアターの公演での、満足感溢れる笑みを浮かべながらテクニック丸出しに踊るダンサーとは明らかに一線を画している)。そういえばクルト・ヨースなる人物はラバノーテーション開発の主要な協力者だったんだそうだ。っていうことは、彼女達はまさしく舞踊の「記憶」をその身体に刻み込んでいるわけだよね。なるほど、ここにあるのは「記憶」としてのテクストとの二人の格闘の姿なのかも・・・。 しっかしそんなこと考えてると、大野一雄ってホント怪物だよねえ、なんて思ってしまう。少なくとも現在の大野一雄にはそんな格闘の姿は全く見られないし、もうそんな次元越えちゃってるッて感じ。床の上で横になっての一連の動き(僕はそれを勝手に「大野一雄の特権的な動き」と命名してる)、リンケのそれとほとんど同一でありながら完全に位相を異にするそのうごきは、あらゆる舞踊の「記憶」を笑い飛ばすようなものだ。「しかし消尽したものだけが、可能なことを尽くすことがてきる」、「消尽したもの」は「何かを成し遂げはしても、もはや何も実現しない」(ドゥルーズ)。つまり彼は異様な笑いを浮かべながら、スリッパを履いて外出し、靴を履いて家の中にある、大野一雄は怪物だよ、ホントに・・・、なんてつらつらと妄想を膨らましてしまうのは僕の悪いクセ。
話を舞台に戻そう。上で書いたのとは違うレヴェルでの「交わり」もいわなきゃ。っていっても、これ以上長くなるのもなんなんで簡単に書くと、それは「円」と「直線」の交わり。リンケは主に「円」を、ホフマンは「直線」を体現する。そしてこの「交わり」はある一つの小さな小道具に結実していた。詳述する余裕はないが、夜明けの光に、あるいは強烈な光に照らされる白さの中で為されるこの「出会い」はとてつもなく危険であった。危険きわまりない、が、とにかく美しかったんだ。
以上、公演後のレセプションで振る舞われたワインを、赤、白、シャンパン、白と四杯飲んで、いい気分で酔っぱらいながらうだうだと考えた11月22日の出来事でした。
(松井宏)
<『イディオッツ』ラース・フォン・トリアー@アテネフランセ文化センター>
ネタとしては少し遅れたが『イディオッツ』について。
おそらくトリアーの最高傑作であり、彼のフィルム中、最も安定を欠いたフィルムだろう。もちろん、その冒頭から白痴を演じる人物を演じる俳優たち、という見え透いた二重構造に支えられ(それは2年半も前にこの映画の設定を耳にした時からわかっていたことだ)、終始カメラは俳優たちの周辺に回りこみ、動揺する気配を見せないし、カメラ目線を周到に避けられていることから、全編がトリアーの掌中で安定して進んでいくのだともいえる。問題は仏の掌の上の孫悟空たちが如何に地団駄
を踏むのか、ということだ。(副次的な情報では、撮影中俳優たちはお互いを役名ではなく、本当の名前で呼び合うという混乱状況を作り上げてしまったのだが、そんなものは当然秩序を司るトリアーによって編集でカットされてしまう。仏のトリアーの意図とは彼らを完全にコントロールしながらも、同時に彼らがその秩序から逃れる瞬間を捕らえたいという相反することを同時に成し遂げようという暴挙なのではないか?)。
だから、この作品は必ずやいつの日か無修正で上映されなくてはならないのだが、それは『愛のコリーダ』とは全く異なった理由によってなのだ。なぜなら『イディオッツ』では、身体はその存在のぶっきらぼうさを愚直に誇示(固持)するためにあるのではなく、ただその表層を横滑りしていくしかないのだ(いや、無修正版を見るまでここは「ないに違いない」と言い直しておこうか…)。それは演技においては、何故主人公たちが知的障害者の振りをしている事がバレないのか?、ということでもあろう。
そのフラストレーションは、阿部和重が指摘する「青年が車に執拗にしがみつく場面
」で最も爆発力を持つ。そのシーンでは「嘘/本当」「俳優/役柄」「演技/素」「必然/偶然」をいうテーゼが完全に提起不能に陥り、その男の行為しかもはや残されない。だから安定を欠くのは、それを目の当たりにした私たちなのかも知れない。
まだまだ自分の中でも整理につかないところがあり、この文章も説明不足のところがあったかもしれないが、とりあえず、それは、カサヴェテスでもなければ、ファスビンダーでもない瞬間だ、と私の印象を述べて締めくくる。
(新垣一平)
<『エレメント・オブ・クライム』ラース・フォン・トリアー@ユーロスペース>
『エレメント・オブ・クライム』(ラース・フォン・トリアー/ユーロスペース)を観る。主人公フィッシャーは精神科医の催眠術により、ある連続殺人事件についての自分の体験を話し始める。刑事である彼は師オズボーンの捜査方法論「犯罪の原理(エレメント・オブ・クライム)」を信奉しており、それに従って殺人犯と同じ軌跡をたどり同一化することで犯人を追う。セピア・カラーで撮られた映像は場面によって微妙な色合いを変化させ続けており、それだけでも空間は奇妙に揺れ動いているのだが、それ以上に、偏執狂的に繰り返される様々な形態・物質・力学は、トリアーが「形式の人」であることを強く印象付ける。その一つは例えば、吊るされる人間や馬、降り続ける雨など、鉛直下向きの力学である。そしてまた別の一つは、水溜り・床に敷かれた鏡・警察の監視カメラの効果である。それらは主人公を90度横に回転させた位置から捉え直す。オズボーン氏宅で電話に出るショットなどはそれら外部の「装置」すら介在せず、「カメラ」自身が直接、彼を90度回転させて捉えてしまう。何やらそれらは、映画の中盤、フィッシャーが小枝で作っていた十文字を思わせる。先の「鉛直」の位相そして実際の彼とがその縦の一辺だとするならば、装置によって示される「水平」の彼はそこに交わり突き刺さる横の一辺である。そして「水平」の彼とは恐らく彼が同一化を試み続ける「犯人」のことでもあるだろう。彼は「彼」にたどり着き共鳴したいのだがそう簡単には行かない。モニターに映る「彼」は地面の位置すら違い、二人の間には絶対的な距離が存在する。「十」を「1」にしてしまおうという欲求の困難さによってこの映画は不気味に蠢いているのだ。
新作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(12/23より一般公開)において主人公のミュージカルが妄想世界のみにあり、現実と妄想とが手法的にもフィルムとビデオという二層できっぱりと決別 していたのを考えると、『エレメント…』においてはまだ二つの位相を同時にねじ込もうとする意志が見える、などと結論してしまうのはそれこそ「形式」に囚われた短絡だろうか。ただ、そもそもこの映像は主人公の語るお話の内容であり鉛直と水平は水平と鉛直かも知れず、ともあれ交感がうまくいかないことの不安と苛立ちが感じられるとすれば、『ダンサー…』のあくまでもお互いを無視する安定した二層構造は何かもう完結してしまった世界に見えてくるのだが。
(加藤千晶)
『バッド・ボーイ・ニーチェ』
リチャード・フォアマン作・演出・デザイン・作曲
金曜日、新宿パークタワーホールにて『バッド・ボーイ・ニーチェ』を観る。で、リチャード・フォアマンとは何者か、舞台上で僕が観たものは何だったのか?彼の率いる劇団の名は「オントロジック・ヒステリック・シアター」。オントロジック(存在論的)でヒステリック?はてな?何の予備知識もないまま「ニューヨークアンダーグラウンド演劇界の鬼才」と書かれたチラシを頼りに、ニーチェの思想もほとんど知らないままにたどり着いたこの場所で僕が体験した出来事、あ〜、未だ了解できない。
舞台は狭い、灰色がかった暗い空間、黒い壁には乱雑にアルファベットで書かれた判読不可能な落書き、舞台奥には段々と高くなってゆく三つの黒い壁、舞台前方から天井へと客席へ向かって斜に伸びる二本の棒、客席との境界、端には透明なボードが置かれ、中央のあたりには透明なレーダーのようなものが四つ、五つほど、またその境界には僕たちの視線を遮ろうと何本ものロープが交錯する。上方の所々にかかげられた妙に親しみのある髑髏、床に散らかる紙屑、その他判別できない諸々の小道具(ゴミ)たち。貴族たちが没落してゆく頽廃の「世紀末ウィーン」、パッと見頭の中に浮かんだのはそんなセリフ。いや、崩壊しつつある世界ではなく、明らかに「構築され、コントロールされた崩壊」とでも呼べそうなものがそこにはあった。無作為に行われる破壊(それは巷に溢れる出来の悪いパンク、出来の悪い舞踏といった吐き気を催すような露骨な表現衝動に覆われた身体を思い出させる)、或いは脱中心化を試みようとして結局は別種の「小さな」中心を作り出してしまう、そんなものではない。それはジャクソン・ポロックのアクションペインティングを眼の前にした時に感じるような、統御された「美しい」乱雑さであろうか。いやいや、というか、ここではそもそも中心やら確固とした「世界」が前提とされてはいないんじゃないのか。既にして乱雑で矛盾だらけの、方向を欠いた「世界」であり、それこそがフォアマンの見つめるものでもあるんだろうな。
そこではやっぱり始めっからニーチェは狂っている。いわゆる通常の説話展開は無し、セリフは断片的(英語は全部聞き取れなくてその場では分からなかったけど、ニーチェの書物からの数々の引用だそうだ)、脈絡のない身体の動き、ランダムに使われるチャイムの音や強烈なフラッシュ、様々な要素による中断と「躓き」の連続である(これゴダールじゃないっすか)。内野儀は言う。「<うまくいかないこと>への倫理的憧憬とでも呼べるものによってもたらされた上演のあらゆる局面における<切断性>・<失敗性>」。 そのなかでもニーチェはさらに疎外される。ボンテージに身を包み、胸までさらけだしてくれた「美しい女」(彼女はルー・サロメ?)がそこにいるにも関わらず、彼は一人お気楽な寝巻き姿で寝言を発するだけだ。彼女達が箱の中でセックスしてても彼一人だけは参加することができない。つまり完全な「半勃起」状態であり、彼はいつまでも射精できず(そもそも射精なんていう概念を持ってなかったのかも)、そんな彼をあざ笑うかのように、ひたすら空しい大袈裟な音と光の中で、舞台奥の段ボールの壁と壁の間から、これまた段ボールのペニスの形象がゆっくりと昇ってくるだけだ。彼もペニスをバッチリ見せるが、当然これは勃起しているはずもないわけだ。
そうか、ここはアウシュビッツ。そういえば「残酷な男」もまるでナチの将校みたいだったし、「攻撃的な召し使い達」は親衛隊か(ちなみにフォアマンはユダヤ系の血をひくらしい。)?しかしアウシュビッツのなかですら彼は疎外されている。歴史の弁証法の先の究極の(最悪の)地点としてのアウシュビッツ、彼はそこで射精することもできず、いわば「アウシュビッツ以後」の宙吊りの時間にひとり立つ。歴史からも、性関係からも疎外され宙吊りにされる舞台上の彼、ニーチェ。そこでなにも起こらないのももはや必然というべきなのかなあ・・・・。
とりあえず公演後に、最近出版されたフォアマンに関する研究書を読んだんだけど、これが興味深い。このフォアマンなる人間の思考とエクリチュール(といっても邦訳だけど)、なかなか面 白いんだ。巻上公一・鴻英良編なんで案の定、ジョン・ゾーンも登場するし、ケージとフォアマンとの座談会なんかも収録されてる。まあ、そのへんはそんなにたいしたことないんだけど、彼自身の文章や思考は現代的な問題をみつめる人々と明らかに共通 の場所にあるように思えるし、そのせいで僕の頭は益々混乱させられてゆく一方なわけです。しかしながら舞台そのものとなると、これまた少し別 問題。これから徐々に違った側面が僕の中に浮かび上がってくるのかもしれないけど、これってちょっと間違ったらただの「パフォーマンス」として消費されかねないし、彼の姿勢とは裏腹になんの批評性ももたない舞台に見えてしまうこともあるわけだよねえ。というよりもこんなかたちで、しかもあのおぞましい東京都庁のそびえ立つ西新宿にいきなり導入されたら(ホントはいきなりでもなくて、数年前から巻上さんや鴻さんが着実に準備を進め、巻上さんなんかはフォアマンのテクストを既に上演してもいるんだけど)どんなものでも悲惨な消費の犠牲になっちゃうのかな。
(松井宏)
『鏡の中の亀裂』R・フライシャー
一昨日(11/16)、アテネフランセ・文化センターでリチャード・フライシャーの作品『鏡の中の亀裂』(原題:crack in the mirror)を見た。恥かしながらフライシャーの作品を見たのは今回が初めてで、つまり同じ日に上映した『動機なき殺人』を含めて未だ2本しかフライシャーの作品を見ていないわけだが、勉強不足は承知の上で今回は『鏡の中の亀裂』の寸評を述べたいと思う。
この映画に出演している3人の役者(オーソン・ウェルズ,ジュリエット・グレコ,ブレッドフォード・ディルマン)は、各々が二役を演じており、2つの人間関係はどちらもジュリエット・グレコをめぐっての三角関係である。当初は何の接点もない2つの人間関係が、ある事件をきっかけに関わりを持つようになる。
この作品では、題名からも分かるように「鏡」が、一人二役という設定においても然り、映画の中でも演出の装置として機能している。そして「鏡」は、「見る」という動作、概念と密接な関係にあるといえるだろう。鏡がこの映画の中で重要な装置であるのと同様に、見ることがこの映画を支えている、ととりあえずは言うことができるだろう。映画の冒頭から、不倫関係にあるエクスポニーヌとラーニェは、怪しげな視線を交わして夫を殺害するサインを互いに送る。終盤で、妻の浮気現場らしきものを目撃したラモリショは裁判の最終陳述を180度ひっくり返す。この映画の進行方向は、視線と視線の交わりによって支配されているかのように思われる。しかしながら、映画の中で最も柱となるような事件ではどうだったか。エクスポニーヌは火かき棒で夫を殺そうとするがもみ合いになり、その様子に気付いたラーニエも加わり二人はようやくハ
ラゴンを絶命させる。この殺人事件をきっかけとして2つの人間関係は接点を持つようになり、言ってみれば2つの人間関係の間に境界として存在していた鏡が境界として機能しなくなり、鏡であることをやめるのである。しかし私達は、そのきっかけとなる事件の目撃者になることはできなかった。3人がもみ合いをはじめるとカメラは次第に引いてゆき、私達はカーテンのかかったガラス越しにしかその光景を見ることはできなかった。
この映画は見ることに支えられ、視線と視線の交わりにより進行しているかのようにも思わせながら、しかしながら映画全体の髄とも言えるような事件だけは、「見る」という行為からはかけ離れた場所に位
置しているのである。フライシャーがそんなことを意識していたかどうかは分からないが、見ることの不安定感を感じさせる作品であったように思う。
(澤田陽子)
『イディオッツ』ラース・フォン・トリアー
アテネ・フランセ文化センターにて『イディオッツ』特別一般試写会(2001年3月23日より恵比須ガーデンシネマにてレイトショー)を見る。「ネット・マガジンにして予測不可能な運動体」である“boid.net”の配信記念のイヴェントとして、上映会に続き“boid.net”参加メンバー(黒沢清、稲川方人、安井豊、樋口泰人)によるディスカッションも行われた。
それぞれの家庭や職場から逃げ出してきた者たちが集まり“白痴(イディオット)”として振る舞う(演じる)事でそこに自分達の安住の地を見い出そうとする。偶発的に、そして確信犯的に起こる出来事の中で俳優が見せる全ての表情を、ラース・フォン・トリアー監督はドグマ95の「純潔の誓い」に則った手の中のカメラで執拗に追い掛けていく。疑似ドキュメンタリーというスタンスをとっている以上偶然性が重視されるであろう撮影において、複数のカメラによって、そして手持ちカメラである事の特権的意識をもって収められた人々の表情は、ディスカッションで黒沢監督がおっしゃったように「イイ芝居を見せようと強制する力」を持つ結果
になった事は確かだと思う。終始不幸なイメージをまとった主人公の一人カレン(冒頭からそのイメージは観客に繰り返し刷り込まれラストシーンでその理由は明らかにされる)と彼女が目の当たりにする“白痴”達に混乱し、そして感情移入してゆくように仕向けられた演出に抗おうとする欲望を私は禁じ得なかった。
(三宅晶子)
『傷だらけの挽歌』R・アルドリッチ
R・アルドリッチ『傷だらけの挽歌』を見る。字幕なし。つまり英語力ゼロの私はほとんど台詞が聞き取れなかったのだが、ちっとも退屈しない。ストーリーが単純で把握しやすかったからというのもあるだろうが(それはそれで退屈する原因にも成り得る)、もちろんそれだけの理由でここまで惹き付けられはしないだろう。私はこの映画の中の人々の「身体」、あるいは彼らの「身体の吸引力」によって、この映画に文字通
り引き付けられたのだ。
「まるで吸い込まれそうな瞳」とかいった表現があるように、その力や部分に差異はあるにしても、人の身体は他者を引きつける力を持っているのだろうが、この映画はその吸引力を最大限に引き出しており、それがそのままこの映画そのものの吸引力となっているかのようだ。そしてさらに驚くべきは、彼らの身体が他者の視線だけではなく、物質をも引きつけていることだ。ナイフや銃弾は標的の身体に吸い込まれるかのように刺さる。つまり、彼らの身体には外部から侵入して来るものに対する抵抗力が微塵も感じられないのだ。特に、悪者の老婆が後から頭をポットで殴られても、何の痛手もなく平然と振り返るシーンなどは、まるで彼女の頭がポットを引きつけているように見えるし、ポットの運動と彼女の頭の運動は同一のものとしてある。(その振り返った顔もまた物凄い!)これはもうマジックとしか言い様がない。正に、アルドリッチ・マジックです。
(黒岩幹子)
『キッド A』レディオ・ヘッド
前作『O.K.コンピューター』の中の一曲、「NO SURPRISES」のビデオクリップにおいて映し出されていたのは、トム・ヨークが水中でぶくぶくと息を吐き、さほど苦しげでもなくただ何かに押し出されるように時折浮かび上がっては空気を吸い、また沈んでいくというものだった。その繰り返しがただなんとなく続いている。そこに映っていたのは、トム・ヨークただ一人の姿、それもほとんど頭部だけである。それと同じような印象をこの新作からも感じた。一作目、二作目のアルバムはハードな曲が多かったせいかトム・ヨークの声それ自体とバンドのサウンドとの不和を意識させるものもあった。それが、彼のスコット・ウォーカーに通
じるようなファルセット気味の伸びやかな歌い方への変化により『O.K.コンピューター』前後から徐々に彼らの音楽そのものの中に浸透してゆき、それと同時にサウンドの方も少しずつ変貌を遂げてきたのだ。それは彼の声そのもののアクチュアリティーが他のサウンドと拮抗していたのに対し、徐々に浸透してゆく過程を意味している。いってみれば「NO SURPRISES」のビデオクリップでトム・ヨークが浸かっていた「水」がこのバンドのサウンドであるといえるに至ったのかもしれない。じっくりと隙間という隙間から浸透してゆく、だがトム・ヨークその人を見えなくしたり、溶かしてしまったりは決してしない。それは、いかにサウンドがエレクトリゼーションされようと、声そのものにエフェクトがかけられようとトム・ヨークの声の存在を脅かすものではないのである。
(中根理英)
吊り下げるインテリア。
引っ越しをするときインテリアのことを熱心に考えてなにかを吊り下げてみようと思ったのは決して 僕一人だけではなく、ある人の家を訪ねるとキッチンにフライパンやら鍋やらお玉 やらまな板やら包丁やら鍋敷きやらが所狭しと吊り下げられていて軽い地震が起きるとかちゃごんぽこと音を出すのだが、突然ういーと音をたてるいまいましい冷蔵庫なんかとくらべると牧歌的なその音は機嫌の好いときにはとても素敵に響いて、ふと隣のおばさんの家を覗くと窓際に大きな豚肉がふらんと吊り下げられていてそれが窓にあたって軽い振動とともにべてという気の抜けた声を発する。のぞきに飽きた僕はインテリア雑誌をぺろぺろめくってきになるページにはむっと折り目をつけておくのだが、その本は一分三十秒と少しのあとにふらへれとベランダの外に落下傘していくことになるのだ。雑誌にはいつも現実感が希薄できにいって現物を見に行ってもそれが雑誌で見たものと同一であるという保証はどこにもなくてばっちり失望してかえってくるのがおちなのでいつも「似たもの」を探すといったこころがまえでどあっと家を出るのだが全く違ったものをきにいってそのまま買ってしまうことが往々にしてある。結論づけるなら「出会いとはそういったもの」というおはなし。でもほんとうはそんな結論まったく必要じゃないじゃない。
(岡田六平)
『トリトン改訂版 2の3』フィリップ・ドゥクフレ&カンパニーDCA
半月程前に世田谷パブリックシアターで見た、フィリップ・ドゥクフレ&カンパニーDCAの『トリトン改訂版 2の3』について。「ダンスとアクロバットのファンタジーあふれる、まか不思議な饗宴」というのが宣伝文句だが、ダンスと言うにもアクロバットと言うにもどうも少し違う。奇妙な振り付けを施された、機械人形のようなダンサー達が何の脈絡も一貫性もないように、ある時はコミカルに、ある時は哀しげに舞台上を踊り、動き、演じる。しかし、その根底に密かに流れる雰囲気はやはりサーカスということになるのだろう。かなりの訓練をして身につけただろう身体能力によって見たこともないような身体の形と動きが実現される。しかしサーカスと違い、それらの動きは決して大袈裟にその驚異を見せつけるわけでもドラマティックに演出されることもなく、平淡に提示され続けるだけである。ただただとり憑かれたように運動を続ける舞台上のダンサー達は感情をどこかに忘れてきたようだった。
僕が気に入ったシーンにこんなのがあった。登場人物は二人、一人はよく大道芸で見かけることのできる西洋風のお手玉
をしており、もう一人はそれを座りつつ見つめている。そのお手玉は3つでされるのだが、その流麗さを見る限り、彼は4つでも5つでも軽々とやってのけてしまうことが容易に予想されるのだが、彼はお手玉
の数を増やすことなく、オーソドックスな3つでの演技をし続ける。もう一人の方もそれを微動せず見守る。お手玉
をする彼はまるでもう一人に彼の技量を伝授するのか、見せびらかしているかのどちらかのようでもあり、私達観客の視線にはまるで無関心なようであった。これはおそらく舞台裏の空間なのだろう。技量
の伝授にせよ、単なる見せびらかしにせよ、それは表舞台でドラマティックになされるものではなく、舞台裏の、公の匿名の人々のいない空間で、退屈な、もしくはその退屈さを紛らす暇つぶし的なものであり、言い換えるならそれは視線に晒されることを前提としていない無為な遊びなのだ。
だから脈絡も一貫性もあるはずがないのだろうけど、全体として見た場合、余りにも彼らが意味を弄んでいるように見えてそれが不満だった。素晴らしい身体の形と動きがあるのに、結局そういった遊びの羅列だけで、今一つピンとこなかったのだが…。
(新垣一平)
土曜の夜を家にいて。
すき焼き鍋の中でじっくり煮込まれた春菊を食べつつ、『ミスター・ビーン 特別編』を見て考える。僕は彼の舌の動きをとても気色悪いと思う、というのはただの感想でしかないし、この映画には様々な映画からの引用が明らかに見てとれる、たとえば美術館に侵入するシーンは明らかに『ニキータ』であり、絵画がおさめられている格納庫が開くシーンはとても『2001』に似ている、などといってみたところで何も語ったことにならないだろう。が、なぜ佐野元春はミスター・ビーンが好きなのかという問題について考えることは決して無意味ではないのだ。つまり客観的な主観を得ることがきちんと物事を考えるためには必要なわけで、客観的な主観を得るためにおそろしく強固な主体としては存在しえない僕が取り得る手段といえば、自分と対象との間に何がしかの媒介物をおくことしかない。とりあえず、佐野元春の目を通 してミスター・ビーンを見つめること。佐野が好きだというジャケットのほこりを払う仕草、背景をブラックにしかし不器用に横切る足取り。そしてこの映画すべてを佐野元春になった気分で見てみると、なぜ七面 鳥の肛門から頭を突っ込む必要があるのかといった疑問はひとまずおいといて、この大きな目をして脂ぎった黒髪をきっちり七対三でなでつけ汚いジャケットを着て台詞の大半はどもりと「うふふ」という笑いにうめつくされ縦横無尽に長い舌が動き回る体毛の濃厚なそしてその上パントマイムの動きだけは異常に切れの好いイギリスから来た男の無常の悲しみが見えてきた気がして再び気持ちが悪くなり、便所へ向かう。とても素敵な土曜の夜だった。
(岡田六平)
『スペースカウボーイズ』クリント・イーストウッド
10月。千代田区、北の丸公園内にある科学技術館に行った。すでに劇場で公開中である、クリント・イーストウッドの最新作『スペースカウボーイズ』の試写
会が、地下のホールで行われたのだ。どうでも良いことだが、試写状はyahoo!オークションで400円だった。しかもペアで。得てしてこういう類いの試写
会というものは、「ただなら見ようか」的な観客が大半を占める。開場から開演までの30分間は、一同にスクリーンに向かっての食事の時間である。これはこれで、稀有な光景ではあるのだが、その後に僕が目にした稀有な映画について、ここでは書くことにする。
イーストウッドの映画について何かを言おうとするとき、この映画の物語が1958年から約40年という時間を横断しているように、ある流れを無視することは出来ない。そういった意味では、「CUT」で阿部和重が言っていることは正当にその流れを汲んでいるのだろう。イーストウッドにおける「顔」は、その最たるところである。また、これまでの彼の映画に時折みられた冒頭と末尾のショットの、デジャ・ヴュ的な重複によるフィルムの囲いもそうだ。(『真夜中のサヴァナ』、『恐怖のメロディ』、『荒野のストレンジャー』、そしてその極みである『パーフェクト・ワールド』など、、)『スペースカウボーイズ』も例に漏れず、フランク・シナトラの「Fly
Me to the Moon」と、空中を高速飛行しているショットにフィルムが囲われている。流れは、やはりここにもある。僕が目を奪われたのは、隠居している往年の飛行士であるイーストウッドの所に、NASAの人物が協力してほしいと交渉しに行く場面
からの3つのシーンである。その連続したシーンでイーストウッドは、グラス、ビール瓶、コーヒーカップを手にし、映っている。暗闇でビール瓶に伸ばされた彼の手は、ためらうことなく、その「顔」へとビール瓶を運ぶ。交渉され、決断するという3つのシーンの「手」による連続は、その「手」と共にフィルムに現れたガンや、ホットドッグを思わせた。イーストウッドが意識的にそう繋いだのか、彼の映画的必然として結ばれたのかは定かではないが、まさに稀有な瞬間がそこにはあった。
『スペースカウボーイズ』を科学技術館で上映するというのは一見、興のあることのようであるが、科学とは到底かけ離れた場所にイーストウッドはいるのである。
(酒井航介)