wnobody/Journal/'01_02
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-『アンブレイカブル』M・ナイト・シャマラン
-『EUREKA』青山真治
-『シラノ・ド・ベルジュラック』演劇集団 円/訳・演出 渡辺守章
-「ダグラス・サーク特集(2/14-16)」@アテネフランセ文化センター
-『回路』黒沢清
-『回路』黒沢清
- NOVO TONO @吉祥寺Star Pine's Cafe FEB_15
- NOVO TONO @吉祥寺Star Pine's Cafe
-『風花』相米慎二
-『祇園囃子』溝口健二 @渋谷シネマ・ソサイエティ
-"NO FRAME" 大友良英@アップリンク_9.FEB
-『浪華悲歌(なにわえれじい)』溝口健二
-『ベトナムから遠く離れて』(浅田彰セレクション)@シネセゾン渋谷
-『創作ゲーム』トン・ゼー
-『回路』黒沢清
『アンブレイカブル』M・ナイト・シャマラン
こんなこと言うのは何なのだが、「ダイ・ハード」シリーズのブルース・ウィルスはニューヨークを守っているというけれど、どう考えても、街を破壊していると思う。都市機能を麻痺させながら、ひとり元気に飛びまわるブルース・ウィルス。同じような例をあげれば、登場人物の八割が死んだ後で頭掻きながら「あなたが犯人ですね」とかぬ
かして名探偵気取りの金田一耕介というのもいる。観客の誰もがこう突っ込むだろう。「遅いよ!!!」。彼らに共通
しているのは存在自体が迷惑ということ。いなきゃ平和なのに、のこのこ出かけて事件を呼び寄せる。悪魔みたいなやつらですね。でもそれが「ヒーロー」と呼ばれる人達の特徴だ。
『アンブレイカブル』はそんな「ヒーロー」をめぐるお話。デヴィット(ブルース・ウィルス)はどんなことがあっても怪我一つしない身体の持ち主で、イライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)は逆に骨関節炎を患っていて、軽い衝突でも骨が折れてしまう。その身体的な障害のため、幼い頃から外で自由に遊ぶことの出来なかったイライジャは、母親に買い与えられるヒーローコミックを糧にして成長し、それが長じてコミックの原画専門の画廊を経営している。そんな彼は、131人が死亡した列車事故の唯一の、しかも無傷の生存者デヴィットに目をつけ、デヴィットを追いまわして「俺が捜し求めていた「ヒーロー」はお前だ」と言い募る。それでラストは秘密らしいので書かないけれど(でも全然たいした謎じゃない)、最後にイライジャがデヴィットに向かって「俺とお前は同じなんだ。だからまったく正反対に生まれてきたんだ」みたいなことを言う。
要するに、彼らは否応なく事件を引き起こしてしまう点において、「ヒーロー」であり同時に「悪魔」で、『アンブレイカブル』はヒーローもののそういった構造を事故言及的にとりこんだ話になっている。で、そのこと自体はどうでもよい。あんまり面
白くなかったし。問題はヒーロー=悪魔である彼らは、けして「死なない」ということなのだ。列車事故が起きる瞬間、カメラは窓際に座るデヴィットをクロースアップで捉えるのだが、後ろの窓に映る風景が速度を増すのに対して、デヴィットはその速
度から奇妙に取り残されているように見える。破壊へと突っ走る列車とその乗客のなかで、彼だけが停滞しているように見えるのだ。またイライジャはある人物を追跡している途中、階段を踏み外して転げ落ちてしまうのだが、全身を骨折した彼はそれでも目を見開いて目標の人物の行動を見つめ、カメラはその視線を見た目のショットとして示す。そしてイライジャもまた、車椅子に座った姿となって生き残る。彼らは「死の可能性」を体験しているはずなのだが、デヴィットとイライジャの行動にその危機の痕跡を見つける事は難しい。彼らの身体はたしかに正反対の特徴を示しているのだが、しかし「死」という身体の限界状況に対して(頭というか思考が、ではなくて)身体が奇妙に鈍感であるという点において共通
している…。「死」というのは概念だから、たとえばりんごとは違う。もちろん「りんご」も概念だけれど、それとは別
にカメラはりんごを映し出すが、「死」は映し出さない。しかし「死」は確実に存在して、私たちは、というよりも私たちの身体(脳だっていうまでもなく身体だ。概念操作ばかりしているわけではない)はその存在を可能性として知る。それは「もしかしたら死んだかもしれない」という言葉に表される状況なのだろうけれど、やはりその言葉だけで表しきれるものではなくて、もっと漠然としかし強烈に身体は知る。高いところから落ちるあの感じ…。殴られる瞬間のあの感じ…。カメラが「死」を映し出すことはない。しかし「死の可能性」は、それはバザンの言うとおり表象可能なのだろう(ワニと鷺)。それは映像テクノロジーの発展とは何の関係もないし、むしろ発展によってその可能性を忘れ去れているかのようだ。シャマランという映画作家がそういった問題にどこまで意識的なのか知らないが、「ヒーロー」=「悪魔」の「死なない」身体の後ろに、ちらちらと「死」の影が見えたのが面
白かった。
窓の外を流れる風景、犯罪者の前のゆらゆらと揺れるカーテン、デヴィットがプールから引き上げられたときにたたずむ二人の女…。偏在する「死の可能性」を「ヒーロー」=「悪魔」は気付くことなく,まったく無視して通
り過ぎていく。
(志賀謙太)
『EUREKA』青山真治
ようやく、『ユリイカ』をみた。『Helpless』を観たことがありながら、秋彦という同じ名を持つ人物が登場していた記憶がまったくないくらいので、解釈は無理だと正直思うが。ところで役所広司の中盤からはじめる不気味な咳で、川島雄三の『幕末太陽伝』を思い出した(ちょうどアテネフランセでやったらしいが行けなかった)。「幕末・・」の主役のフランキー境もまた映画の後半から咳を繰り返し、その咳は映画が終わりに近づくにつれて次第に強さを増し、ある種の不気味さを獲得していたようであった。もちろん「ユリイカ」での咳と「幕末・・」の咳が、演出上や物語に関わる効果
として同質のものであるとは、主張したりはしない。「幕末・・」のフランキー境の演じる居残りの咳はあくまでその勢いのあるキャラクターとは対称的な弱さを獲得するための、あるいは女を断っているという設定を生み出すためのものだった。胸を患っているという明確な設定が与えられ、本人はそれを直すための努力もしていた。一方の役所公司はその咳にいっこうに関心を示さず病院へはもちろん行かずほったらかす。このように強引に共通
点や差異を導きだしても恐らく仕方がないのであろうが、咳という共通点のみからそのようなことが思い浮かんだ。
『ユリイカ』の不気味さは、咳の他にも墓が誰のものなのか設定されていなかったり、沢井が事務員の死に全く関心を示さないという事柄や、斬りつけられた草からわき出る汁、又は墓からわき出る音、梢がふと自転車で踏切の上で立ち止まり線路の彼方遠くを見る風景、冒頭とラストでの海から迫ってくる音などの何かに迫られているという感覚によってもたらされていたように感じる。しかしふんだんに不気味さを表すような記号に満たされていながらもその不気味さは沢井と梢の物語の背後へ押しやられているようで、見終わった後そんな不気味な映画であったことも忘れ、さらには親父=大地との闘争であることも忘れ、冒頭の折り返されたラストが閉じた環の外側にあるカラーの俯瞰ショットですがすがしい気分に浸ってしまった。それにしても『ユリイカ』は「幕末・・・」とは徹底的に無関係なのであろうが、その咳が不気味さの演出以上のなにがしかの意味を背負っていてくれていそうな気もする。そういえばフランキー堺も役所広司も似たような言葉を発した。「幕末・・」のラストのセリフは「あっしは、まだまだ生きるんでぇい」であり、『ユリイカ』で沢井が直樹に向かって言うのは「生きろとは言わん、せめて死なんでくれ」だったし。
(志賀正臣)
『シラノ・ド・ベルジュラック』演劇集団 円/訳・演出 渡辺守章
以前にジェローム・サヴァリ演出の舞台をビデオで見たんだけど、とにかくシラノの剣客ぶり、小粋な身振り、才知溢れる話しぶり云々に、韻の心地よさもあいまっていつの間にやら引き込まれてしまう次第だった。鼻の醜さも極力抑えてあって(つけ鼻をしてるんだけど、醜いなんてことは全くなくむしろ完全に顔におさまっていた)、さらには顔もかっこいいし。セノグラフィーはどの場面
においても壮大で、第一幕の劇場、第三幕「ロクサンヌ接吻の場」のベランダ、第四幕に登場する実物大の馬車、第五幕では枯れ葉を落とすどでかい木、それに衣装も金銀、赤青とにかく派手、これこそ『シラノ』の書かれた1894年、まもなく1900年には万国博覧会も開催される、ベル・エポックの入り口たる時期に見事に忠実な舞台なんだろうな、という感じ。自由劇場の試みを大衆は受け入れず、彼らは19世紀のロマン派的な「アンチ・ヒーロー」の総決算(悪しき生き残り?)たる『シラノ』に拍手喝采、そしてそのまま幸福にベル・エポックへと突入・・・、サヴァリの演出は、どうも初演時のそんな幸福な興奮を舞台に甦らせているようにみえた。一方で演劇の変革、詩の変革がそしてその「死」が叫ばれていたこの時期に、『シラノ』の十二音節の定型韻文は今からしてみればどうにも「反動的」であったろう。そんな「反動的」な姿は、サヴァリが「グラン・マジック・オーケストラ」後に『シラノ』上演で大当たりしたという話にも重なってしまい、なんだか彼の演出には妙に納得してしまった。
じゃあ、渡辺守章はどうするか。シラノには橋爪功、衣装は戯曲の時代(1640年代)には忠実なんだろうけど黒茶主体にひかえめ、パンもワインもつくりもの、馬車の登場もなし、そして全ての幕が2、3の鉄骨階段の組み変えによる舞台装置で成り立つ。しかも第五幕ではらはらと木から落ちるはずの枯れ葉は天井から落とされ、上から垂らされたドーム状の白い布の中におさまっていくだけ。「反動的」といわれる毒がここではしっかりと抜き去られていた(全く知的でないロクサンヌ役もそのせい?)。そもそも幕があがる前に裸にタキシード一枚の<道化>が現れて「今まさに1894年、こんな時代に十二音節の定型韻文という気狂い沙汰、しかし普仏戦争の疲弊、ドレフュス事件の暗さも吹き飛ばしたロスタンの『シラノ』、これより開幕でえす!!」というような異化効果
役をかって出る。<道化>が手にする赤い棒、第一幕の間中舞台奥に映し出される縦長の赤、場違いのように敷かれる赤じゅうたん、サヴァリが幸福の印として持ちい得た「赤」(シラノの衣装も真っ赤だった)はもう既に、観客を「目覚めさす」ことしかできない(ちなみにこの赤い棒に一昨年のブルック演出『ドン・ジョヴァンニ』を思い出す。現代的ないでたちのドン・ジョヴァンニが赤い棒を振り回してた。シラノ/モリエール、守章/ブルック?・・・・、勘違いし過ぎかな)。そうだとしたら、あとは渡辺守章新訳の華麗な言葉たちに、それを支える身体か、なんて実はそんなわけにはいかなくて、渡辺守章の言う「舞台の花とドラマの真実とを、台詞の芸と身振りの芸によって担う<道化>」としてのシラノは、空虚な過剰たる<道化>として、「舞台」の構造やら1890年代に潜む暗い影を暴き出すわけでもなく、ましてや文字通
り恋の道化として幸福にその人生を全うするわけでもない。そうじゃなくて、第四幕戦争シーンの幕がおり、幕の前でクリスチャンの死体を言葉途切れ途切れに袖まで運ぶシラノ、サヴァリの「グラン・マジック・オーケストラ」→『シラノ』ラインとは違った意味での、現在における<道化>の不可能性(ほんとに不可能なのかな?)、それにいうなれば恋の道化の真の空しさ(引きずられるクリスチャンのブーツの擦れる音、あれがシラノの空しさだ)、<道化>になり得ないこの時のシラノこそが今回の「舞台」を物語ってたんじゃないかな。
枯れ葉は地面に到達せずにその役目を放棄するし、シラノは<道化>にもなれない。でも、だったら開幕前に<外部>として登場したタキシード姿の<道化>をそのままの恰好で全ての幕間に侵入させてもよかったよなあ、なんてつらつらと思ってしまう。それともそんな<道化>もやっぱり不可能だってことなのかなあ、なんてつらつらと考えてしまう。
ともあれ橋爪功は単なる「テレビドラマ俳優」である、ロクサンヌ役の女優はやっぱし我慢がならない、それだけはいえる。
(松井宏)
「ダグラス・サーク特集(2/14-16)」@アテネフランセ文化センター
おやおや、何処かからメロドラマの悪口が聞こえる。臭すぎる?大袈裟だ?感情過多だ? とどのつまり、惚れたのなんだのだったり、家族のいざこざだったり、そんな当事者以外にはくだらない事に見えてしまう出来事があたかも世界の存続に関わる問題のように語られるメロドラマのやり方が気にくわないのだな。もっと、周りの世界を見つめようよ!と言いたいのだな。だがしかし、ダグラス・サークのメロドラマを目の前にしてそのようなことを口にする権利など人は決して持ち合わせてはいない。
周りの世界にしてみれば数多くあるくだらない出来事の一つだとしても、彼ら登場人物にしてみればそれは人生を根底から揺り動かす出来事だったりする。だが、周りの世界はそんなことお構いなく回り続ける。それは『翼に賭ける命』で、移動遊園地の飛行機型の乗り物に乗りながら、父の死を目の当たりにしてしまった息子の悲しみなど全く知ったこっちゃない、とその回転運動を続けるその残酷な飛行機型の乗り物のことなのだ。私のことなどお構いしないどころか、周りの世界は決してその攻撃の手を休めない。『愛する時と死する時』で、レストランで短い幸福の時間を過ごす男女を祝福しようと、空襲が始まってもバンドの歌手は歌い続けるのだが、結局はその歌い手が歌を中断せざるを得なくなるまで空襲は激しさを増していく。
「私 vs. 世界」という果てしなく続く、そしてどう足掻いてもあらかじめ敗北が決まっている闘いを孤独に継続することこそ、メロドラマの主人公たちが対面
する現実なのだ。だから彼らが周りの世界には全く関わりもないような出来事を世界中で最も重要な出来事のように考えているのは、周りの世界からの逃亡では決してなく、その襲いかかり続ける世界に立ち向かうドン・キホーテ的抵抗なのだ。時に『悲しみは空の彼方に』の少女のように「White!((私は)白人よ!)」と叫ぶうちに、いつしか泣き崩れ「Why...
(何故…?)」という誰も答えてくれはしない疑問という敗北宣言をしてしまうかもしれない。だがそれでも、この闘いは永遠に終わることはない。そして、その闘いが私たちと関係ないはずがない。映画館という安全地帯からスクリーンという窓を通
して映画という何処か違う場所を見ていると勘違いしていた私たちは、その窓のこちら側とあちら側は実は同質の空間なのだ、と『愛する時と死する時』の空襲で爆撃され一面
だけがそそり立つように残った家の壁に張り付いた窓が主張するのを見て、そう考える。サークの作品を見た後の不思議な恍惚感を背中に乗せながら、けたたましく電車の到来を告げる水道橋駅のプラットホームへとむかう階段を上りながら、そう考える。
(新垣一平)
『回路』黒沢清
わたしには妹がいるのだが、彼女は幼稚園にあがる前、『ケロケロケロッピ離婚する』という絵本を書いた(知らない人のために:いたんです、ケロケロケロッピというサンリオキャラクターが)。これが傑作で、わたしにお金か情熱のどちらかでもあれば、出版しようと頑張るのだが、残念ながらどちらもないので、絵本は家の引出しの奥深くに眠っている。ごめん。かように妹はケロケロケロッピを愛してやまなかったのだけれど、ところで彼女はナスとカエルが大嫌いなのだ。ちなみにナスが嫌いな理由は「カエルに似ているから」だ(…どこがだ!?まあ、「似てる」と言い張るのだから仕方がない)。そこでわたしが「ケロケロケロッピはカエルではないのか?」と訊いたところ、妹は「違う」と言う。「しかし色といい形といいどう見てもカエルではないか?」と問い詰めると、「違うのだ」と泣き出して困った。いや、別
に「違うのだ」とは言わなかったけどさ。バカボンのパパじゃないんだから。とにかく泣いちゃったんです。
それで絵本の話は置いておいて、たぶん置きっぱなしにするが、『回路』である。この映画には幽霊が現れる。その幽霊は想像や記憶が可視化したものではない。実際にそこに存在するのだ。だから触れる。やけに生真面
目に歩き、歩きながら身体をくねらす。そうやって幽霊は人間に歩みより、そしてなにもしない。呪わない。殺さない。そばにきて「助けて」というだけ。それは怖いというよりも、単純にわけがわからない。とてつもなく気味が悪い。
だから映画のなかで一番気味が悪いのは、幽霊が人間の形をしているシーンではなく、女の部屋に並ぶパソコンのモニターがすべて幽霊になっているシーンだった。モニターにはネットでつながった見知らぬ
部屋の見知らぬ誰かが映っている。しかし本当にそれは「誰か」なのだろうか?「つながって」いるのだろうか?モニターに映るのは、女がひとりでいるときもどこかに存在している(と想像したり記憶している)人間の表象なのではなく、ただの映像なのである。人間の想像や記憶とはまったく関係なく、それとして完結して存在する映像。つまり幽霊だ。女は部屋にひとりでいるのではなく、絶対的にひとりなのだ。おびただしく増殖する映像としての幽霊は、人間のそばにいながら、しかし人間とは(そして幽霊にも)徹底して無関係に存在する。怖がらせるためでも、復讐するためでもなく、つまり何の意味や目的もなく、幽霊はこのモニターを見ているあなたのすぐ後ろにたたずんでいるだろう。そのうちにあなたはモニターに映った自分自身の姿を見て、「わたしひとりじゃない」と涙して喜ぶことになる。あの女のように。
わたしたちは幽霊を憎むことも、お望みなら愛することもできる(『ゴースト‐ニューヨークの幻』!)。彼らがわたしたちの想像や記憶にとどまっていてくれる限りは。しかし黒沢清がつきつける幽霊はそうではない。わたしたちはそれに対して如何なる感情ももつことを許されない。何故ならそれはわたしたちにはまったく無関心にただ存在するからだ。わたしたちにとってわけのわからない存在だからだ。わたしたちにできるのは、ひたすらおびえて、黒い灰になることだけなのだ。要するに、わたしたちはケロケロケロッピを愛し、カエルを嫌い、そして突然目覚めたときに、目の前にあった緑色のぬ
めぬめしたものにはただ怯える。その怯えが永遠に続くことへの恐怖。黒沢清が『回路』で示した恐怖とは、そうしたものである。
(志賀謙太)
『回路』黒沢清
『回路』の“怖さ”とは何なのだろう。『回路』は紛れもない黒沢清のフィルムであり、彼の映画の“怖さ”がそこには確実に存在している。しかし映画を観る者は、なにをもってそれを「怖い」と思うのだろうか。
去年の夏にビデオでホラー映画『催眠』を観た。私の身の周りにいる、日常的に映画を観ることを習慣としない友人達の「めちゃめちゃ怖いよ〜」という薦めに煽動されて観たのだが、これがほとんど全く驚くほどに怖くなかった。この時下した“怖さ”に対するひとつの結論は、凡庸ではあるが、「管野美穂が豹変したりいろいろやってるけど、それが管野美穂であると分ってしまう以上、怖くないよね。」というものだった。つまり、それが何か得体の知れないものであればあるほどそれは“怖い”のであり、その対象がよく知っているものであれば、それが何したって怖くはないのだ。
この感覚がどれほどの人間に当てはまるかは知る由もないが、『CURE』を観て怖いと思ってしまうのもこれ故ではないだろうか。彼らは何かに操られているかのように淡々と人を殺していくが、彼らを操っている何かが何であるのか我々は知らないし、見ることすら出来ないのである。その可能性を孕んだ萩原聖人演じる男にしたって空虚な、穴のような“得体の知れないもの”であるのだし、彼が直接何かに手を下したりしてくれたりすればそれでこちらは納得できるのだけれど、なにせ彼はそこにただいるだけ、しかも本当に存在しているかどうかさえ危ういのだから。
そこで『回路』なのだが、『回路』での“得体のしれないもの”はネットの中の“人”であり“幽霊”である。半透明の膜の向こうにいる人とか、人の形をした壁のシミなんかの“得体の知れなさっぷり”はそれはそれで十分怖くはあるのだが、『CURE』とは違ってそれらは人間の姿をした、可視化されたものとしてあるし、しかも幽霊は絶対的にそこに存在してしまっている。(触れるんだし)幽霊を触ってしまった以上それ以降、真の怖さはその事実を受け入れてしまった、それまで幽霊を怖れていた人間の方に転換してしまうだろう。存在感のある幽霊なんてやはり怖くもなんともないし、「だったら自分は本当に存在しているのか」という疑惑のみを残したまま、死ぬ
こともできずに「影のようなもの」として進みつづけるしかない彼ら人間こそが『回路』における真の“得体の知れないもの”である。幽霊に触れてしまった男は、床にシミを残しその場を後にする。正直そこで映画は終わると思ったし、彼らの行く先を出来ることなら見たくないと私は思っていたのかもしれない。しかしそこで終わらなかった。次にスクリーンに映ったのは薄気味悪い灰色の、緩やかなカーブを描く道路であった。何処にも導いてくれそうもない、絶望的なこの映像を見て「勘弁してください」と思ったのは私だけだろうか?黒沢清とは本当に末恐ろしい男である。
(澤田陽子)
NOVO TONO @吉祥寺Star Pine's Cafe FEB_15
とにかく、大友良英と山本精一という正に音楽界の東西横綱(私が勝手に決めたのだけど)が同じ土俵、いやステージに立って演奏するというだけでも、このライブは私にとって一大イベントだったのだが、そのような先入観からか、しばらくの間ボーカルのPhewを間に挟んでギターを弾く両者をテニスの試合における観客のような動作で見てしまった。まず印象としては大友良英はギターを「黙々と」弾き、山本精一は「淡々と」弾いては時に「切々と」弾いているように見えるでも「黙々」と「淡々」ってどう違うんだ!?
それで余計な比較は止めることにしたのだが、大友良英がターンテーブル等をギター片手に頻りに扱ったり、既製のギターから自作のギターに持ち替えたりするのを見て、まるで家事をしている人のようだ、などと思っていると(何しろ彼の自作ギターはその名も「まな板ギター」だったりする)、やっと先程の印象の違いがはっきりしてきた。演奏を家事に例えるならば、大友は「家政婦」であり、山本は「母親(主婦)」なのだ。
大友の演奏は楽器ではなく彼の身体所作から音が拡散していくように聞こえるのだが、それは彼が身体と楽器を親密なものにしよう(その距離を縮めよう)と考えるのではなく、むしろその距離を前提とした上で身体をどのように動かすかを考えて演奏しているからではないだろうか。だから彼が自作ギターを用いるのも、それが使いやすいからではなく、むしろとても不安定であるからであろう。一方、山本の演奏は楽器がピック(を持つ彼の身体)を動かし、正にギターが音を発しているように聞こえ(実際に我々が聴いているのはアンプから発せられる音なのだが)、彼の身体と楽器はとても親密であるように見える。おそらく彼は身体と楽器を親密な関係になるまで弾きこんでそれを確かめた上で、ギターを使おうと考えているのではないだろうか。(彼は一度3分程、眠りながらギターを弾いていたことがあったそうだが、そう考えるとこの逸話にも妙に頷ける。)
そんな2人のギターと、Phewの重いのに浅い独特な声が重なるのだから凄くないわけはないのだが、さらにドラム・ベースのリズム隊が速いテンポに関わらずとんでもなく明晰な音を出すものだから、その音の絡み合いには恐れ入るばかり。強いて欲を言うならば、山本精一の坂本九に匹敵する(と私は確信している)「スタンダード」な歌声をもっと聴きたかったってことぐらいか。
(黒岩幹子)
NOVO TONO @吉祥寺Star Pine's Cafe FEB_15
ボーカル担当のPhewについて。Phewをライブで見るのは今回で二回目なのだが、二回とも妙に記憶に残っているのが間奏などで歌っていない時の彼女の姿だったりする。ほんの一瞬前まで「ひとのにせもの!」とか「くだらない・しょうがない」といった「ない」尽くしの詩だとかをあんなにも強烈に歌っていた人なんだろうかと思うほど、力が抜けて空っぽに見える。そしてまた歌のパートが始まれば、圧倒的な存在感を持って大友良英、山本精一らの横で歌い出だすのだ。歌わずに少し伏せ目がちに立つ様はさっきまで自分の口からでた言葉などもう知らぬ
存ぜぬといった感じで、その次の歌声は(それはもちろん一曲として繋がった詩であるのに)いちいち新しく始められたようにも感じられる。それはまずPhewの詩が、何か一連の流れからぼんやりイメージを喚起するというものでなくて一個一個の単語の提出がその都度何か具体的な事柄を言わんとするものだからという理由もあるだろう。でも、それに加えてこの日の曲目にあった「周りのことは・私には全然関係ない」というような歌詩をこの間奏部分のPhew自身に当ててみてもいいかもしれない。きっと空っぽさから彼女は歌い始め、そして歌ったことを自分の中に繋めておくのではなくてどんどん忘れ、同じ速度でどんどん新しい歌を歌い出しているんじゃないだろうか。歌うということは、「全然関係無い周り」に向かって言葉を音として投げることであって、もしかしてその中にあったのかもしれない「私」を惜しまず外に追い出す行為だとも言える。そうすれば「私」の方は益々空っぽになっていきそうだ。
Phewの詩は「私」と「他者」との線引きを可視化しようとしているように思う。「私達」ではなく「二つの一人」(『わたしときみのわかれめ』)であり、「きみがわたしの名を呼ぶとき・わたしはきみから考えはじめた・きみがわたしの方を見るとき・きみからわたしを見つめた」(『きれいな日』)のは二人の間に絶対的な距離があり、その境界が溶け出すこともないからだ。山本精一とのアルバムで『まさおの夢』のまさおは人から一人で生まれてきたから人間でなく、熊の子供が小熊なようにまさおの子供は「こまさお」である。他者を他者として承諾していくこと。まずその冷静さがPhewの詩にはある。ライブの二曲目だったか「猫ににゃあ・犬にわん・烏にかあ・おばさんにあら・と言ったら逃げられた」のも、他者に対して同一化を試みてみてもいいけれど、やっぱりそんなことできないでしょ、みんな逃げるでしょ、という確認点検なのだ。
彼女の歌声はまた独特で、技法的にどう言ったらいいのか音楽に詳しくもないので分からないのだけれど、腹式で上げられた呼吸が口に空洞があってそこで反響してから下に向かって出てくる音というか、何となく個人的にはnicoを思い出してしまうのだが、こもっていながら広がりも持つというか。そのようなPhewの声は、言葉をはっきりと聞き取らせることもあるしメンバーの演奏と一緒になって何を言っているのかさっぱり分からなくなるときもある。それが意図的なのかどうかは分からないが何にしろ聞きとれる・聞き取れないの二つの差は明らかである。それにしても、その言葉が聞き取れない時の歌声は字義通
りの「聞き取れない歌声」に留まってはいない。その時、歌声は純粋にマイクを通して増幅される空気の振動となって楽器音と違和感無く共鳴していたはずだ。まるでPhewが「他者」である楽器やアンプなど機器になってしまったかのように。
他者を他者として扱うPhewの歌は、他者と私を溶け合わそうとはしない。そのかわり、「私」を徹底的に外に向かって追い出し投げることで、「あなたにめりこみ・あなたになる」(『おそい春』)のだ。
(加藤千晶)
『風花』相米慎二
この時期は寒いからそうでもないけど、だんだん暖かくなってくると、打ち上げ!だとか、合コン!だとかで非常になんというか、無駄
な熱気が居酒屋周辺にたちこめる。で、居酒屋の営業が終わる朝の五時、店の前にはなーんか所在なさげな人々がたむろすることになる。あいつらは何をしているのか?…待っているのだ。一時とか二時にきた大波がまたやってくるのを。何であんなに笑ったのか?いまとなってはよくわからないが、しかしえらく楽しかった記憶だけはあって。あの一瞬よ、カムバック!!彼らは帰るに帰れず、「マックでも行く?」みたいな。「フィレオフィッシュ、朝マックのメニューに入ったんだよね」とか。「携帯の番号、あ、教えてもらったっけ?」。どーしようもなく盛り上がらない話をしながら、ごみをくわえたカラスの前に座りこむ。
『風花』は、そんなげろとごみの匂いしかしない朝の五時の映画だ。主人公の男と女はずーっと朝の五時に生きていて、いっしょに旅をしながらあの一瞬の再来を待ちつづけている。だから男はスーツを脱がず女は化粧を落とさない。でも当然のことながら、波はこない。彼らはことごとくずれつづける。何のために待っているのかよくわからなくなって、しかし帰ろうにも帰る家がない。冒頭、川に覆い被さるように咲く桜から徐々に降りていって花の下で死んだように眠る男と女を捉えるショットから、そんな噛合わない二人をカメラは丁寧に捉えつづける。「死んだように」。男と女にとっても,そして『風花』を見る私たちにとっても,再来を望む「あの一瞬」というのは、この美しく穏やかな冒頭のショットなのだろう。ここではわきに落ちている空き缶
も男の汚れたスーツもはだけた女の足もすべてが肯定されている。美しく穏やかだからではなくて,なんというのだろう、おそらく期待というものが何もないからだ。
しかしあの一瞬はやってこない。女が雪の上で美しく死んでみせようとしても男はそれを阻止してしまう。北海道にいながら眼に入るのは東京の風景ばかりの彼ら(だから男は「この村は120年かけて何を作り上げたんだ?」とたびたび口にするんだけど,そんなこという資格はないのだ。だって「この村」のことなんてちっとも見てないんだから)は、消えてしまった一瞬を求め,しかし2時間の間それはかなうことがなく、宙吊りのまま、死ぬ
ことも出来ない。げろとごみの匂いしかしない朝五時に彼らは「あの一瞬」を待ちつづける。
ラスト,男と女は気が抜けたようにラフな格好で北海道に戻ってくる。女は子供のもとに帰る決心をし,男は女の姿を車のサイドミラーで見つめる。カメラは初めて二層に別
れた男と女の姿をフィックスで捉える。出発しようとして,またバックで戻ってしまう男の車。彼が見つめているのはなんなのだろう。「あの一瞬」?そうかもしれない。しかしそれは新しい「あの一瞬」かもしれないのだ。…たいがいそんなにうまくはいかないけどさ。
だるーい空気が漂い、しかし妙な期待感だけが燻る,徹夜あけの朝五時。やってくるわけがない「あの一瞬」を待つのをやめて,たちあがって周りを見渡すといい。万が一の可能性だけれど,そこには新しい「あの一瞬」が現れる!…といいな。
(志賀謙太)
『祇園囃子』溝口健二 @渋谷シネマ・ソサイエティ
祇園の芸者、美代春(小暮美千代)はとんでもなく色っぽい。二点のほくろはこれ以上ない絶妙な配置具合、うなじをさらして身体をくねくね、「おおきに」の一声で旦那さんも僕ももうとろける寸前。嘘だと思うなら、スクリーンの前に座ってみればいい。とんでもない色気と至るところに垣間見える脆さを持つ彼女には、いくら金を注ぎ込んでも守ってやりたくなる何かがある。16歳の若さで美代春に弟子入りする栄子(若尾文子)という舞妓も、色気こそまだ足りないものの、その若さと無垢さでこれまた美代春に負けず劣らず旦那の心を魅きつけかねない。とろける寸前の僕、だけど決してとろけてはしまわない。とろけられない奇妙な無気味さがここには漂っている。栄子はお座敷に出る為に一年間芸事を仕込まれるわけだが、そこでは先生言うところの「日本を代表する無形文化財、ゲイシャ」を育成するため、たくさんの新人さんが三味線、鼓、お花、お茶云々の厳しい修行に身を費やす。鼓の音が絶えまなく鳴り響くそれらのシーンは、まさに銃声とかけ声が響き渡る兵士育成場だ。栄子は一人前の兵士として「祇園」という軍隊に所属せねばならない。ただし戦場はすでにない。『祇園の姉妹』で山田五十鈴演ずる妹が闘いを繰り広げた「お座敷」なる戦場は、いまや元締である「お母はん」と成り金の「旦那はん」とが衝突する、いや衝突もせず睨み合うだけの場となってしまった。そこでは美千代も栄子も(そして祇園自体が)、絶大な力を持った二つの勢力に嫌が応でも巻き込まれ翻弄される単なる一小国(従属国?)でしかない。ふとしたことで、日本国憲法とそれが謳う民主主義、基本的人権の尊重等々の言葉を知り、それをあろうことか純粋無垢に信じてこんでしまった栄子は(実際、栄子は修行中に日本国憲法の理念を先生にしつこく確かめる)、偽りの力に支えられたそんな睨み合いの場で、なんと、「旦那はん」なる一方の勢力に文字通
り「かみついて」しまう(彼女は、性行為を強要された旦那はんの唇を噛み切るのだ!!)。そんなことすれば、そりゃあ両方から雷をくらう、「お前みたいな小国がしゃしゃり出るんじゃないよ、バカッ!!」ってな風に。「お母はん」には経済活動止められ、「旦那はん」からはいつ仕返しの一発が飛んで来るか分かりゃしない。かくして、そのとばっちりを食った美代春は自らの従属国たる事実を受け入れ、とうとう帯をほどいた身体を布団へと滑り込ませてゆく。妥協しなきゃ、条約結ばなきゃ「祇園」という国は存続できない。そうすりゃあがっぽりお金が入って来るし、ゆくゆくは「経済大国」にもなれるってもんよ。1936年『祇園の姉妹』、1933年「国際連盟脱退」、1937年「廬溝橋事件」/1953年『祇園囃子』、1950〜1953年「朝鮮戦争」、1960年「日米新安保条約」エトセトラ・・・。
だけど栄子はいったいこれからどうするかね。やっぱり美千代と同じくがっぽりおいしいとこだけは頂いていくんかね。「屈辱」とかなんとかいうありもしない怨念でっちあげたり、綻び隠蔽したりしながらなんとかうまいことやっていくんかね。たぶんそうだろうね。ただ、忘れちゃいけない、彼女の父親を。彼は病気のせいで半身不髄、右手は動かず左手も震え、語りはどうしようもなくどもってしまう。彼は何度か二人を訪れ「祇園」の綻びを露呈させるだろう。『祇園囃子』においてこの父親の異形の姿は黒い影のようにフィルム全体を覆い恐ろしい無気味さを漂わす。栄子は、また「祇園」は、その無気味さを隠蔽しながら生きていかざるをえないのだ。そう、何十年か後、「祇園」は当然のように破錠を迎え、当然のように無用(無能)のものと化してしまっているのだ。
(松井宏)
"NO FRAME" 大友良英@アップリンク_9.FEB
最近ではなかなか珍しくなったという大友良英のターンテーブル演奏を見に出かけた。ターンテーブルといっても既存のレコードのミックスではなく、四分の一に切り取られたレコードを張り合わせたもの、パンチで穴をあけられたもの、レコードにかぶせるシートなどによる傷、シンバルをターンテーブル上で回したときなどに生じるノイズによる演奏である。運良くかなり近くでその所作を見ることが出来たので、そこで生まれる音楽がどこからくるのか注意深く探しつづけていると、レコード上をかすめていくその針の動きとそこにある音楽とは全くといってよいほど関連性がないことに気づく。私には彼のレコードに一体どんな音楽がインプットされていたのか知る由もないが、とにかくそんなこととは関係なくノイズがどこからともなく生じてくるのである。しかし彼がそこにいて、演奏しているのに、どこからともなくということで片付けられはしないだろうと思っていると、意外にその音の流れは足もとのペダルの動きからきているようだ。ミックス、サンプリングに代表されるターンテーブルのような一見指先と耳による演奏とは裏腹に(ミックスであればどこに何を置くのかという問題は、その針の動き=指先と連動し、それを加工する手段もまた指先のみによるものだ)、彼の演奏はくるくると回りつづけるシンバルを押さえつけ、ターンテーブルごと傾けたりと彼の身体からくる所作と離れることはない。そしてそこで生じるノイズのヴォリュームをコントロールする足元の繊細な動き。だがレコードの上をかすめていく針は、そこで何が起こっていようともそ知らぬ 顔でどんどん通過していってしまう。そして「何をそこに置くのか」という思考は、常にその無機質な速度に駆り立てられている。その速度に身を任せつつも、音楽が生じる場はそれとは別 の場所にあるように感じられた。その証拠に、その演奏が終わった瞬間に机の上からシンバルが落ちた。それに少し驚きつつ、小さく頭を下げた彼の姿が印象的であった。
(中根理英)
--大友良英HP>>>http://www.japanimprov.com/yotomo/
『浪華悲歌(なにわえれじい)』溝口健二
おや、どこかで見たことがある、とよく目を凝らしてみると、それがこのフィルムの冒頭で写
し出された広告塔のネオンサインが水面に反射した姿だということがわかるだろう。映画の終わりに近くで写
し出されたそのショットは、このフィルムがその円環を閉じる作業を行っているのだ、と呟きたくなる。だが、そのショットは冒頭で私たちが目にしたネオンサインと完全に同じわけではないのはもちろんだが、その鮮やかなる鏡像である、と言うにはやや画面
上にその光が滲み過ぎていて、何やら「円環を閉じる」と言うには締まりが悪そうでもある。
例えばこのような仮定はどうだろう? そのショットは、私たちがフィルムの冒頭で見た鮮やかなネオンサインをもう一度思い出させるためにあるのだ、と。ネオンサインそのものをもう一度反復したり、鮮やかな鏡像を写
し出していたとしたなら、私たちは間髪いれずにそれを「反復」だと認識したり、「不良少女」へと「転落」したヒロイン山田五十鈴の象徴だろうとか勘ぐったりしたのかもしれない。水面
に滲んだネオンサインは「ああ、そうか、これは冒頭のあのネオンサインが水面に映った姿な
のだな」と思い出させることにより、つまり私たちがこのフィルムの冒頭まで記憶をまさぐり、その滲んだ光の出自を見定めようとする行為により、このフィルムの流れた時間を遡行させるのだ。そして、登場人物たちが体験した目紛しい人間関係のダイナミズムが、実はネオンサインと水面
に映った滲んだネオンサインに挟まれた記憶の層の「間」でしかなかったことに私たちは驚かされるのだ。そして逆にその薄っぺらな記憶の層に埋め込まれた、そのダイナミズムの荒れ狂う姿を、その水面
を茫然と眺める山田五十鈴の表情に見るのである。溝口健二…、今さらこんなこと言うのも恥ずかしいが、凄すぎる…。
(新垣一平)
(於ラピュタ阿佐ヶ谷、11日〜17日、モーニングショーで上映中)
『ベトナムから遠く離れて』(浅田彰セレクション)@シネセゾン渋谷
会場は、思いのほか席が埋まっていた。220余りの席の6、7割といったところ。予告編の上映も無しにまず「赤い」スクリーンには、「若者よ、目覚めよ」の文字。メッセージというより、キャッチコピーなのだろうが、おもわず引いてしまう。仮にも浅田彰セレクションと銘打って行なわれている、「激辛フィルム」の連続上映の一発目はあの『ベトナムから遠く離れて』である。67年の公開から、34年後の上映。もちろんビデオ化されてもいるので、この映画の内容については敢えて説明することはないだろうが、とにかく観客の多さに驚く。青山真治が、その日記「brandish.com」(boid.net)で言っているように、このフィルムもまた「マイナー」なのではなかったか。2001年の渋谷・道玄坂で「若者よ」とマス・メッセージのもとに上映されると、ああなるのか。上映後、やはりその、傷口に過酸化水素水なんかの消毒液を垂らすような、苦痛を伴うフィルムの為に何だか気分が悪くなった。むしろ、その傷口には応急措置の絆創膏が貼ってあったのかもしれない。観客の中には、傷口がかさぶたになっていたり、もうすっかり治癒していたりする人もいたかも知れない。もちろん、どばどば血が滴っているひとがいてもおかしくない。歴史は常に個々に内在化することでしか存在できないのだ。だから、映画があるのだし、何もドキュメンタリーという同時代的な形でなくとも、『EUREKA』のような可能性もある。しかし、大袈裟ではなく「見なければ良かった」とどこかで思ってしまう。しかも既に歴史化されてしまっている事実であるし、内容的にもセンセーショナルな部分はあまりない。いや、素晴らしいフィルムであるのは確かなのだが、「歴史の激動を直視する視線を鍛えよ!」なんて教科書的なことを言われると、逆に「どうして見たんだ」と自問しないと気がすまなくなる。二重の痛みだ。見るべくして観たい、と思ったところで今どき、選択せずに観るフィルムなんてほとんどないのだから仕様がないことなのだが、少なくとも浅田彰がセレクトしたから観たのではないのだ、ということだけは確認しておかなくては。しかし、21:20からの上映に足を運んだあの観客達は、いったいこの苦痛を伴うフィルムを何故見ようとしたんだろう。まさか、浅田彰のアジりの犠牲者ではないだろうが、生半可な、歴史を知る為の教育的フィルムじゃないというのに。
そうこういろいろと考えていると、映画の宣伝のあり方なんかのことも考えてしまった。いつか佐々木敦が「俺が宣伝を担当したら、ゴダールのフィルムはもっと観客が入る」と言っていたことなども思い出す。ともあれ前売りを買ってある為、苦痛を覚悟で残り2本の『東風』『北緯17度』も観る事になる。
(酒井航介)
それから、「<浅田彰の言説を追う>付属BBS」なるページを発見。ふーん、といった感じ。
『創作ゲーム』トン・ゼー
どうやら、このトン・ゼーという人は、ジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾと一緒にトロピカリズモの人だったらしい(ということは今かなりのお歳だ)。彼の作品は私は初めて聴いたのだが、結論から言うと、この新しいアルバムはかなり素晴らしい。どのように素晴らしい音か記述するのは至難の技だが、雑多な音とリズムの闇鍋(ブラジル風)というのが第一印象。ライナーノーツによると自作の楽器などで作り出した音もあるようで、それらわけのわからない音と口笛、女性コーラス、車のクラクションなどの音とが見事に共存しているのを聴くと、ビョークが『セルマ・ソング』(というか『ダンサー・イン・ザ・ダーク』)でやっていたような、現実音から音楽への移行など洒落臭くなってくる。このアルバムでは、現実音も機械音も電子音もわけのわからない音も平等に音楽になる権利を行使している。このように書くと実験音楽みたいに聞こえるかもしれないが、曲自体はめちゃめちゃノリがよく、まったく衒いなく感じるから不思議。
この作品がどのように位置付けられるのか、音楽にそれほど詳しくないし、よくわからないが(「スタジオボイス」誌で原雅明がオーネット・コールマンの『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』と共鳴していると書いていた)、映画だったら、その老獪が成熟しきった手付きで作ったらぐちょぐちょに熟し過ぎて醗酵してしまったみたいな、ジャン・ルノワールの『黄金の馬車』(そういえばこれも現実と劇のごった煮だった)か、それともその老人とは思えないフットワークと軽いノリだけで(私たちをほっ
たらかして)宇宙にイっちゃう、イーストウッドの『スペース・カウボーイ』みたいな感じか。ともかく家のラジカセのボタン一つで異次元に行きたい人は一聴の価値あり。
(新垣一平)
http://www.tomze.com
『回路』黒沢清(2/10全国東宝系劇場公開)
あらためて言うが『回路』はホラー映画である。そう思うことから、この映画を観る事を始めなければならない。シュミットの『ヘカテ』ではないのだから、船上のシーンの後には、いずれ恐ろしい瞬間に立ち会うことになるかも知れない。
しかし、この映画に出て来る亮介(加藤晴彦)という男は、本当に気が狂っている。ミチ(麻生久美子)というこの映画のヒロインは、屋上という非「回路」的な場所にある会社に勤めているが、亮介の方はインターネットという「回路」には全く疎い大学生という設定である。ミチがヒロインなら、亮介はヒーローということになるだろうか。物語の構図はまさにそうなのだが、黒沢的なヒーローが加藤晴彦であるというのは、それだけでも面
白い。
そう、こいつが気が狂っているというのは、幽霊を捕まえようとするからだ。しかも、沸き上がる恐怖心を抑え、幽霊に立ち向かうのではなく、少年が珍しいトンボか何かを見つけたかのようにだ。いまだかつて、そんなホラー映画が存在しただろうか。仮にも、加藤晴彦がヒーローだとすると、スーパーマンが世界を救う為だけにヒーローとして登場していたように、彼が登場する由縁は、幽霊を捕まえることだけである。退治するのではなく、ただ捕まえるだけでいい。そんなヒーローだ。では、麻生久美子演ずるヒロインはどうだ。ヒーローと恋仲になり、窮地に至るヒーローの勇気を掻立てる存在なのだろうか。どうやら、そうではない。かなり大雑把な言い方ではあるが、このヒロインはヒーローが乗る車に、船に、「共に乗る」為だけに登場する。そう考えると、このヒロインも映画としてはいささか気が狂った存在である。だが、その逢瀬が避けようのない運命であると思わせる何かが、この映画にはある。世界=映画は決して偶然ではないという。そして観るものは、登場人物の気の狂った運命的な所作に感銘を受けるという、二重に気の狂った映画である。
ところで、その乗り物だが、黒沢映画には珍しく、船と電車、が出て来る。船もモーターボートではなく、大洋を渡航できるくらいの。それから、電車もよくあるセットではなく、本物だ。もちろん、車(バス、乗用車)なども出て来る。そして、男女はどれに乗ってもどこにも行くことが出来ない。もちろん船に至っても。もはや、乗り物の種類(スタイル)はどうあれ、その乗り物が進むことだけが唯一信じうる事であるかのようだ。もしかしたら、『回路』もひとつの乗り物かも知れない。
だから繰り返すが、『回路』は紛れもなくホラー映画だ。
(酒井航介)