片桐絵梨子 インタヴュー

取材・構成 松井 宏

——映画美学校に入られたのは?

片桐:入ったのは早稲田大学を卒業してからです。大学では「CINEMAX SIDEVARG」という映画サークルで自主映画を撮っていました。この名前は「スピルバーグとヌーヴェルヴァーグのサイドから攻める」という意味でして(笑)、武田潔先生が考え出した名前だそうです。高校も早稲田にあったので当時から早稲田松竹などにはときどき行っていました。あの頃から映画サークルを作ろうとしたり、結局あまり人間が集まらなくてだめでしたが…。先生にも映画が好きな方がたくさんいて、それにうちの高校の文化祭では、3年生になるとクラスで1本映画を撮らなきゃいけないんですよ。早稲田大学を選んだのも、映画サークルがたくさんあるし、やっぱり映画をやりたかったからですね。

——大学を卒業する際、自分の中に就職という選択はなかったのですか?

片桐:なかったですね。とにかく映画を作りたくて、ただやっぱり大学の映画サークルでは限界があったんです。周りがそれほど映画に本気ではなかった。映画を撮り続けるためには新しい仲間も必要ですし、自分はこのままではいけない、もっと映画について勉強したいと思っていたんです。

——でも他にも映画学校があるなかで、どうして映画美学校を選んだのでしょう。

片桐:蓮實重彦先生の書物を好んで読んで、強く影響を受けていましたし、黒沢清さんもいましたからね。それにユーロスペースやアテネフランセにも観客として頻繁に通っていましたから、美学校に行くというのは私にとってごく自然な流れでした。

——入ってみてどうでした?

片桐:私のような考えの方がわりと多いのかなとは思いました。ただ本当に色々な方たちがいて、映画をまったく撮ったことのない方、それに映画をあまり見たことのない方もたくさんいましたし、仕事しながらだったり学生だったり、年齢層も幅広くて、あとフランス人もいましたし…。たぶん一期生、二期生あたりはまた事情が違ったと思います。当時はまだ黒沢さんも講師をしていましたし、そうした流れの影響が非常に強かったはずです。いまは芸大の大学院もできて、それに蓮實先生の影響も以前よりは多少薄くなりましたし…。その意味で、いまはただの映画の専門学校といったふうに、あまり色がないように見られているかもしれません。ただ誕生した当時は、そうやって彼らの息のかかった学校はそれまでなかったですよね、「やっとこのルートができた」という感じが一期生あたりにはあったと思います。私の第七期あたりになると、学生の方も変わってきたのかなと思いますね。

——初等科から高等科へは上がられたんですよね。

片桐:はい。高等科に入るとゼミが選べるんですが、そこで西山洋市さんを選びました。これは偶然というか、運命的な出会いだったとさえ言えますね。西山さんの元で勉強ができて本当に良かった。自分の方向性、自分がどういうものを作るべきか悩んでいた時期だったのですが、彼にはとても影響を受けました。

——当時影響を受けていた監督などはいましたか?

片桐:そのときそのときで影響を受ける監督は違いますよね。学生時代は黒沢さんだったりエドワード・ヤンだったりに憧れて、そういうものを自分も撮ろうとしていましたが、そこで行き詰まりを感じていたんです。いざ自分で真似して撮ってみると、なんだかぼんやりした映画になってしまっている。もっと活劇を、もっと物語のある作品を作りたいと思っていて、どういうものを書いていいか悩んでいた。そのとき徐々に神代辰巳や、大和屋竺、鈴木清順といった人々が自分のなかで大きくなってきて…。なんとなく恥ずかしくて言えなかったですけどね(笑)。それでもやっぱりそれが自分の方向だろうと思ったんです。

——まず何よりもシナリオの問題、つまり「何を語るか」が片桐さんにとって問題だったわけですね。

片桐:そうですね、やっぱり映画はシナリオがないと撮れないですから。それにシナリオを書くのも私は大好きですし。

——西山洋市さんの『INAZUMA 稲妻』にシナリオで参加していますね。

片桐:あれが自分の突破口だったかなと思います。書けたという感触があった。あのとき、それまで自分が何となく避けていたものを書けと西山さんに言われたんです。それは「情念」や「復讐心」といったもので…。つまりメロドラマ的なものをそれまで自分は回避していたんですね。敢えて言うなら90年代という環境自体がそういう方向だった気がするし…。

——『INAZUMA 稲妻』での執筆のとき、西山さんとどのようなやり取りがあったんですか?

片桐:西山さんは細かく指示は出しません。「こういう方向で」と言うだけ。『INAZUMA 稲妻』のときには、最初めちゃくちゃなプロットがあって、それを元に書いてこいと言われました。その第一稿を西山さんが気に入ってくれて、ただこのままじゃ撮れないからこうしよう、ああしようと言って下さって、そのときに決定的だった指示が、「事故で傷付けてしまった」という設定を「わざと傷付けた」という設定にしてみろというものでした。そこからどういうドラマが生まれるのか見てみようと。つまり情念のようなものを描けと。

——片桐さんにとっては一種の試練だった?

片桐:でも試練というよりは、かなりノリノリで書きました(笑)。そのときは市川雷蔵主演の『大菩薩峠』三部作を西山さんから見るよう言われて、それが大きな参考になりましたね。あとは神代なんかを意識して書きました。

——『きつね大回転』で驚かされるのは何よりもその物語です。キツネが人間の女性に化けて登場してしまう。桃祭り全体のなかでもかなり異色です。何か出発点はあったんですか?

片桐:ひとことでは言えないかな…。何と言うか、もう「キツネしかない」と思ったんです、いま書くのはキツネしかないと。

——キツネが生息するような場所で生まれ育ったんですか?

片桐:違いますよ(笑)、出身も東京ですから。

——ただ古典を読むと言っても、そこは敢えて意識しないと手に取って読んだりはしませんよね。

片桐:そうですね…。たとえば西山さんの『死なば諸共』は井原西鶴を原作にしたもので、そうした影響もありますね。あと重要なのは古典には著作権がない(笑)。自分としては、いつの時代か分からないものをやりたいというか…。簡単に言うと「物語」がすごく好きなんです。古典のシンプルな物語をいま現在やれないだろうかと。

——外国ならば、たとえばイソップ物語だったりグリム童話だったり、神話だったり…。

片桐:そう、それにシェークスピアなんかもそうです。なんというか、私は時代という括りに異和を感じてしまう…。一般的に「この時代は終わった」という言い方ってよくされますが、それは実際ものすごく表面的なことですよね。「紅茶の時代は終わった、コーヒーの時代が来た」とか(笑)。たとえば江戸時代って実はついこないだのことじゃないですか。遠い昔のことに見えるけど、実はものすごく最近なんです。今でもそこかしこに名残がありますよね。

——まさに「きつね大回転」には物語そのものの根源的な魅力があります。ちなみにこの作品には鬼子母神も出てきて、舞台は東京だとすぐに了解できますが、田舎で撮ろうとは思わなかったんですか?

片桐:なかったですね。だって田舎にキツネが出てくるのは当たり前じゃないですか! 古典の物語を読むと、街なかでこそ普通にキツネに騙されているわけで、そういう感覚をやりたかったんです。

——時代劇にしようとは?

片桐:それもなかったです。いつの時代かわからなくなるようなものをやりたかったんです。でも懐古趣味のようには取られたくないと思っていました。

——納得です。懐古趣味とはまったく無縁だと思いました。ただキツネ役の女優さん、彼女はものすごく古典的な佇まいを持っていますね。

片桐:彼女は女優志望の方なんですが、バイト先で出会いました。顔で決めましたね。日本特有の顔——たとえば細い目とか——というよりは、古風なというか、古典的な顔立ちと言った方が正しいのかな。ひと昔前の女優さんとでも言いましょうか、それこそ「銀幕女優」という顔なんです。

——役者とはどういうやり取りをするんでしょう。細かい演技の指示などはするんですか?

片桐:読み合わせは2度ほどやりました。ただそこでは演技の細かい点まで指示できませんし、基本はまずシナリオをちゃんと読んでもらうことでした。私にとって台詞はとても重要です。物語にとって非常に重要な要素だと思っているので、役者にはまず台詞のリズムを覚えてもらいたい。そして現場ではその台詞のリズムに合わせて動いてもらう。読み合わせでは、このシナリオをどう読み取ったかを役者たちにプレゼンしてもらって、それを私が受けて、この映画をどう作っていくか考えていく、そんな作業でしたね。

——では『きつね大回転』の最初の最初に浮かんできたのは、まず台詞だったんでしょうか、それともある種の映像だったり…。

片桐:最初の雰囲気としては、まず男女二人がいて、彼らが都市を徘徊していて、殺し合いみたいなものがあって、そこに突然着物の女性が出て来くるという…。そんな、イメージとも物語とも台詞とも言葉ともいえない、漠然とした何かだったんです。

——フィルムノワールみたいな感じですね。

片桐:最初は大和屋さんのようなものをやりたいと考えていました。つまり、かっちり撮るんじゃなくて、こう「投げ捨てられた」ような感じのもの(笑)。まあシナリオを書く途中で徐々に変わっていきましたけど。

——幻想的な物語なんですが、場所もとても具体的だし、それに役者の身体というのもとても具体的なんですね。肩車してみたり、一輪車に乗ってみたり、女が男を引き摺ったり、おんぶして階段を登ったり…。

片桐:そうですね、日常世界に幻想的なものが入り込んでくる感じですが、そもそも私は「動くもの」やアクションが個人的に大好きなんです。でもあのキツネの女性を肩車して柿を取らせるのは、かなりキツかったと俳優さんが言っていました。おんぶして階段上ってた女性の方は何も言わなかったんですけど。男性の方が弱いのかな…。柿の木のシーンは私自身すごく気に入っている箇所です。

——役者、スタッフの選択はどのように行われたのでしょう。

片桐:短期間で撮影しなければならなかったこともあり、たとえば有名な女優さんに来ていただいて、結局気を使って演出できなくなるのは嫌だったので、スタッフ含め、自分のやりやすいひとたちを集めました。何よりも演出に集中したかったんです。スタッフ・役者には時間を掛けて「全体をこうしたい」と話すのではなく、そこは基本的にシナリオから読み取ってもらうようにしました。

——キャメラがほとんど動きませんよね、いくつか例外はありましたが…。フィックス中心というのは片桐さん自身のはっきりした選択だったんでしょうか?

片桐:役者の動きに合わせたフォローという形で時々キャメラが動きますが、フィックス中心というのは、どちらかと言うとキャメラマンの特性かなと思います。そこはわりと引っ張られた感じがあるかもしれません。
実は以前別のシナリオで別の映画を作る際に、途中ですごく悩んでしまって、これでは描ききれないと思って撮影途中にシナリオを書き直して、そして撮ったんです。そしたら周りから「ちゃんとシナリオで書いたことやれよ」なんて言われちゃって(笑)。だから今回は逃げずに撮るぞ、シナリオに忠実に撮ることをやってみようと思った。自分で書いたシナリオを自分で撮れなくてどうするんだ、という感じで。ところが「シナリオに忠実に」と思っていざ撮ってみると、やっぱりシナリオの穴に気付く。一度撮って編集したうえで、ああこれはシナリオが間違っていたなと思って、主に前半部分を撮り直したんです。撮り直しのときには、すでにキャメラマンや役者さんの特性を十分把握していたので、その部分は少し彼らに合わせたものになったかなと思います。シナリオ段階で構想したものがあって、そこから出てきたものに対するリアクションとして書き直したわけです。元々は殺し合いの殺し屋のような、もっとシビアな世界を描いていたのですが、たとえば女優さんなんかは、見てもらえれば分かるように実際とてもほんわりした感じですし、それからキャメラマンも光を使ってフィックスの世界を作るのが上手い。だから特に前半は、そのあたりの特性を生かしたような画になりましたね。

——ファーストショットのエスカレーターは?

片桐:あれはシナリオから存在していました。 エスカレーターの撮影は大変だったんですよ。なかなか思い通りにいかなくて・・・

——キいえ、すごく良かったんです。やられたって感じでした。上下二本のエスカレーターが動いている、昇りに主人公の女性と男性が乗っている、と同時に下りには死体が乗って降りて来る…。

片桐:しかもふたりはそれにまったく気付いていない(笑)。

——あの上下の運動から始まって、それから少しして、女性が男性に携帯電話で道を教えるのにこう言うんです。「右行って右行って右行って右…、つまりホテル出て左側だね」(笑)。

片桐:あの台詞、他の方々からもすごく人気あるんですよ(笑)。

——あの台詞はこの映画の運動そのものですよね、つまり回転運動…。

片桐:そうですね。つまり最初に回転させてるのはキツネじゃなくて主人公の女性なわけです。実は最初っから男は振り回されている。

——ラスト近く、それまでどもっていたキツネが、主人公の文子に向かって突如はっきりと喋り始める。「あなたあのひとに惚れていますか、惚れていませんか?」と。

片桐:あそこで文子がビビってますよね、そこにキツネの魔力がつけ込んだとでも言いましょうか、つまり「聴こえる」ようになってしまったのかな…。文子の力なのかキツネの力なのか分かりませんが、とにかく文子の怯みがそこにあったと…。

——あの瞬間とてもはっとしたんです。ライバルであるキツネの女性に自分の愛を自覚させられ、選択を迫られ、さあここから文子は彼に「好き」と言えるのかどうか…。究極のラブストーリーです。

片桐:そういう風に観てもらえてほんとに嬉しいですね。そうです。実は究極のラブストーリーなんです(笑)。文子にとっては厳しい質問です。「好き」という気持ちは人間にとっておそらく簡単には言えない複雑なものでしょう。でもキツネは動物だからその辺はっきりしている(笑)。あのときキツネの女優さんが着ている白無垢が、また似合うんですよねえ…。「あなたあの人に惚れていますか、惚れていませんか?」というあの瞬間は…、はっきり言って凄いなと思いました。まあでもキツネはちょっとだけカタコトですよね、きっと日本語ってとても難しいんでしょう(笑)。

——実は正直に告白すると、この作品を見てジャック・リヴェットを思い出したんです。

片桐:実は以前にも言われたことがあります。うん、それは全然否定できませんね…。すごく嬉しいですよ。

——いま現在あるいは今後の企画は。

片桐:とりあえず色々なことをやってみたいんです。たとえばアレクサンドル・ソクーロフの『太陽』のようなものとか、やってみたいですよね。あと今回は当初目指しながら結局そうならなかったけど、大和屋さんのような、ああいうカッコ良い殺し屋ものとか、カッコ良い決め台詞を持った、もっと「投げ捨てた」ような映画を作りたいですね。キャメラ投げ捨てて撮ったのかよ!ぐらいの(笑)。もっともっと役者もキャメラも動かして、時間も止まらず、すべてが流れのなかにあるような…。今回はどちらかというと台詞を活かすスタイルで撮ったけど、たとえば「あれが可哀想なんだ」と男が言うところもバシっと撮ってますよね、でもそういった台詞さえも流れていく感じがいい。すごく劇的な台詞や口調さえもが自然に映っているというか…、あれ、いまカッコ良いこと言わなかった?ぐらいですね。私はまだ演出スタイルが決定しているわけではないので、今回とはどんどん違ったやり方を試していきたい。

——最後にお聞きします。片桐さんの考える「演出とは何か」?

片桐:映画のすべて、映画そのものです。役者の芝居だけでなく、カットの割り方もそうだし、衣装だってそう、技術的なこともその内に入るし…。物語をどう語るかというよりも、つまり「映画をどう見せるか」ということではないでしょうか。