文=田中竜輔
写真=鈴木淳哉
ごろんと音楽がそこにある。
「音楽」が、横たわっていて、座っていて、あるいは佇んでいる。それは何かについて語ろうとしているように聴こえるのだけれど、しかしそれは自身の語りそのもの以外については決して何も語ろうとしない。それはどうしようもなくただただ「歌」としてそこにあり、それはどうしようもなくただただ「音楽」としてそこに響きわたっている、それが湯浅湾だった。
「シェーの歌」によって幕を開けた3時間にわたるこの日のライヴの、その序盤で湯浅学は客席とほとんど高さの変わらないステージの傍らに並べられた沢山のギターに目をやって、「これ全部使うわけじゃないよ、散歩に連れてきた」と、ぼそっと呟いた。その言葉がこの日の湯浅湾の演奏にずっと重なって聴こえたのは、きっと私だけではないだろう。それはその「言葉」だけのことではなくて、ステージで散歩のお供に連れられた「彼ら」がこの空間に響き渡る演奏に共鳴してその弦を揺らし、好き勝手に掻き鳴らす歌のこと、聴こえてくるはずもないが、確かにその場に生れていたかもしれない音楽のことであり、彼らの鳴らす聴こえない音楽が湯浅湾の演奏の原動力であるような気がしたのだ。
湯浅学の手首でなくて腕で刻みつけるぶっきらぼうなストロークが、牧野琢磨の恐ろしく饒舌に歌いあげるギターと、それはなんともデコボコなやり取りを織り成し、松村正人と山口元輝のボトムがその瞬間を拡散し持続させる。このバンド・アンサンブルの素晴らしい味わいを、たとえばロートレアモンの「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会い」なんて一節になぞらえて「『茶柱と骸骨』の湯浅湾の上での喜ばしき出会い」とでも呼んでみたい気持に駆られる。もちろん出会うのは「茶柱」と「骸骨」ばかりではなく、悪くない豚だって猿みたいなおばさんだって干からびたミミズだって出会う。そんな万物が出会い奏でる歌について、湯浅湾は歌っている。
だから湯浅湾の音楽を、たとえばこの手の常套句「唯一無二のオリジナリティ」とかいう言葉で掲揚してしまうのは全く失礼なことだ。演奏を終えた自分たちの曲を「もろにニール・ヤングでしょ」と湯浅学が述べ、続いて「次はフリーみたいな曲やります」と曲紹介をすればベースの松村正人は「いや、ストーンズでしょ」と掛け合いをする。ここで演奏されているのはまぎれもない「湯浅湾」の曲でありながらも、その多くが「~みたいな曲」であり、でもそれを単に「コピー」などと呼ぶことなんか絶対にできない。ここにあるものはまさしく「カヴァー」なのだ。たぶんロックはすべてが「カヴァー」である音楽なんじゃないかとさえ思う。「コピー」は誰でもできる、でも「カヴァー」はそこに愛も、そして憎悪さえもなければ成立しない。だから数えきれない人々が「愛と憎悪」を歌い続けてきたロックは「カヴァー」そのものなのだ(と、とりあえず思い込ませてほしい)。湯浅湾が実現しているのは、そんな単純なことであり、とても凄まじいことだ。
湯浅湾は「湾」だ。ここではすべてが出会う。この日の最後の楽曲である圧倒的な「ミミズ」の後に残されたギターとベースたちの奔放なハウリングの中心で、「彼ら」の声と戯れる湯浅学の姿は、さながら海の声を聴き続ける灯台守のようだった。大海原に漂う見捨てられたモノどもの声を聴き逃さぬように、そしてその歌を自らが歌い継ぐことで、「彼ら」をそこに引き寄せている。