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March 5, 2015

『5 windows eb』『5 windows is』瀬田なつき
結城秀勇

[ cinema ]

どれだけの人が共感するかはわからないし、これが的を射た観点だとも思わないのだけれど、私にとって「5 windows」とは、『ローラ殺人事件』(オットー・プレミンジャー、1944)や『デジャヴ』(トニー・スコット、2006)の系譜に連なる「すでに死んだ女に恋をする話」の最新版なのであり、こうしてもともとのプロジェクトから時間も空間も距離をおいた◯◯ヴァージョンが付け加えられるたびに次第にその思いは強くなっていく。
3年半前に作られたオリジナルヴァージョンとの距離は否応なく強くなるもので、それは中村ゆりかさんがどんどん大人になっているように見えることや、染谷くんがなんか一気におっさんになってるように見えることなんかなわけだけれど、でもそれは光が「秒速30万キロ、音速も、時も越えて」しまうように、もともとのヴァージョンとすんなりつながっているものとして受け入れられる。最近ようやっと見た『インターステラー』の論理で言えば、時を越えるのは重力だけなのでそうで、つまり「5 windows」にあるのは重力、あるいは「人間がまだその利用価値を知らない未知の力」であるところの「愛の力」なのかもしれない。
しかしながら、そのすんなりつながっているかのようなニューヴァージョンと出会うたびに気づくのは、「5 windows」は「つながらない」ことを前提としていて、それでもかすかにどこかつながることはできるのか、なにかを伝えることはできるのか、を目指しているということだ。『eb』でも再び、染谷将太と中村ゆりかとの間で、互いの存在が見えているのかいないのかわからない真正面からの切り返しが行われる。この見えないかもしれないし見えてるのかもしれないなにかとの間の切り返しに賭けられた賭け金は、3年半前のオリジナルヴァージョンよりもさらに高いものになっている。たとえば、件のクリストファー・ノーラン『インターステラー』の終盤では、宇宙の果てと地球上との並行モンタージュがある(しかもその最中に重力の影響でさらに50年分の時間が跳ぶのに、依然同時並行として処理される)。あるいはギャレス・エドワーズ『GODZILLA ゴジラ』では、人類の痛みや悲しみにあたかも共感したかのようなゴジラと人間との切り返しがある。対して瀬田なつきは『is』において決して交わらない3つのスクリーンの平行性を示すことによって、「すでに死んだ女」が可憐で陽気な幽霊として存在するかもしれないし、そんなものはいないかもしれないし、あるいは腐ってゾンビ化してるのかもしれない可能性を提示する。ノーランやエドワーズが能天気につなげてしまう人と人の視線(あるいは人と幽霊、宇宙人、怪獣、はるかななにかetc......)は、瀬田なつきにとっては、「つながらない。でももしかしたらつながらないでもないのかも......」なのである。
この一連のシリーズがさらに回を重ねて、人と人とが向き合うことの困難さの追求の果てに、何十年後かにもまだ最新作がつくられるのだとしたら、再三引き合いに出している『インターステラー』のラスト間際のセリフが本当は、泣き出しそうででも微笑んでいてどこか呆然としたような中村ゆりかの顔と、人を喰ったような微笑みがかすかに浮かぶぼんやりとした染谷将太の顔との間で交わされるのが正しいのだと、証明されるに違いない。

「私があなたの幽霊だったのよ」
「知ってたよ」



第7回恵比寿映像祭にて、2/27〜3/8まで