『タンジェリン』ショーン・ベイカー常川拓也
[ cinema ]
デュプラス兄弟が製作総指揮で携わる『タンジェリン』の舞台となるLAのクリスマス・イヴは、暖色の太陽が燦々と照っている。セックスワーカーをしているふたりのトランスウーマンと、アルメニア移民のタクシー運転手を中心に、掃き溜めのようなストリートが全編iPhone5Sでゲリラ的に撮影されているが、それによってショーン・ベイカーは街に溶け込むことに成功しているように思える。まるでラップをスピットするかのようにスラングを捲し立てる大胆不敵な彼女たちを追う中で、欲望と嫉妬とが混沌と濃く渦巻くストリートの原初的エネルギーをそのままに感じさせるからである。そしてそのダイアローグの音楽性によって、独特のスピード感溢れるグルーヴが生み出されている。
人々はイヴの一日を愛を求めて彷徨っているが、ハリウッドの裏通りでは、男は女(シスジェンダーもトランスジェンダーも)を娼婦/性の捌け口としてしか見ておらず、女は男を金ヅルとしか見ていない。トランスジェンダーの娼婦シン・ディ(キタナ・キキ・ロドリゲス)やアレクサンドラ(マイヤ・テイラー)もまた、男たちを金ヅルとしか見ていない。ベイカーは、全員に思っていることをあけすけかつカオティックにぶちまけさせていくが、中でも妻子への愛を裏切り、シスジェンダーの娼婦よりもむしろトランスジェンダーの娼婦の方に異様な性的興奮を覚えるタクシー運転手ラズミックをめぐるエピソードは滑稽でありながら、それでいて欺瞞に満ちた生活を送る現代人の化けの皮を剥がしていく見事さがある(洗車場でラズミックがアレクサンドラをフェラしながら自分のイチモツをしごくシーンは彼の本質を覗き見てしまうような場面であり、ミヒャエル・ハネケ『セブンス・コンチネント』の洗車場シーンの不穏さとは別の強烈な印象を残す)。
しかしここで重要だと思うのは、少なくともプッシャーでポン引きの彼氏チェスターの浮気相手ダイナを「あたしはやる時は徹底的にやるんだから」と追いかけ回すシン・ディは真実の愛を信じて求めているし、アレクサンドラは自ら金を払ってでも小さなバーでライブをやりながら歌手を夢見ていることである。アレクサンドラの歌を「正直に言うと懐メロを聴いてるみたいでちょっと古い」と小バカにするダイナとは異なり、観客のほとんどいない寂しいライブでも健気に歌う彼女にシン・ディだけはひとり声援を送っている。ふたりはいつもお互いを罵り合ったり何でも言い合う仲であるが、彼女たちはお互いを尊敬し合っていて、この世界に何か希望を願っている部分があるように思えるのだ(だからこそ、アレクサンドラは一度のチェスターとの過ちをシン・ディに告白することができないでいたのだろう)。そこが彼女たちふたりと他の者とが迎えるイヴの終わりの決定的な違いではないだろうか。
『タンジェリン』の中では、愛は精液に塗れたもの(セックス)に他ならず、金と交換可能なものであり、ゆえに、愛は人は裏切り、傷つけるものとしてばかり現れている。ドラッグとゲロと精液で汚れたストリートで、セックスが何度もシン・ディを傷つけ、親友すらも信用できなくさせる。ベイカーは、荒削りだがまっとうな表現と効果でストリートの貧困とセクシャル・マイノリティーらのリアルな生態を同時代的なセンスの新鮮さで描き、偽善や欺瞞でしか「幸せな生活」が成り立っていない世の、愛への幻滅を浮き彫りにしてしまう。しかし愛のむなしさを知ってもなお、このフィルムが私たちに清々しい後味を残すのは、アレクサンドラが「シン・ディ・レラ」と名を持つ親友に執り行う小さなささやかな親切が、純真かつ誠実な行為であるためであり、それは愛以上に胸を震わせるほど美しい瞬間なのである。