雨の音で目が覚め、のそのそ起き上がってnobody4号をカバンに詰め、立教大生協 へ納品に向かう。道中、「映画芸術No.401相米慎二特集」を開いた。相米映画のス
タッフ、役者たちが相米慎二の思い出を綴っていて思わず涙しそうになるが、感動に 身を任せていていいのだろうかとも思う。思い出に浸り、過去に留まっていることに
何の意味があるだろう。(まだ全部読んでいないのだが)相米慎二が亡くなった悲し みと、彼の遺した映画について思考することをごっちゃにしてはまずい。渦中にいた
ものごと、没頭してつくっていた映画、を冷静にみることは困難な作業なのだなと思 いつつ、もっとも、編集部が「相米慎二への、さまざまに去来する想いに、私たちが
いまかたちを与えるとしたら、こうなる。それがこの特集である」と宣言しているか ら、このような証言が多く集まったのかもしれず、思い出という物語を語る特集でよ
かったのか、と問いたくなった。
それでちょっと偉そうになりますが、たむらまさき氏が自らも携わった<長廻し>に ついて思考した文章と、「『ションベンライダー』の悲しみ」が相米慎二の死の悲し
みとは無縁のものであると確認し、その「悲しみ」について述べた青山真治氏の文 章、「人間の『生存』を語ることが、私たちが行うさまざまな『表象』の意味だと、
そう書くのに、なんで『死んでしまった人』の思い出に囚われなくてはいけないの か」という「悲嘆」とともに、未完の『風花』論をそのまま示した稲川方人氏の文章
を読んで、この特集を手に取ってよかったと思いました。
内山理与