久しぶりにCDを買った。ここ1ヶ月程ずっと昔のCDを引っ張り出すぐらいで、新譜はポール・ウェラーとエイミー・マンぐらいしか聴いていなかった。ポール・ウェラーとエイミー・マンの新譜はこれまでと変わらないって言ったらそれまでだが、やはり良くて聴いてしまう。特にポール・ウェラーはソロのものはこれまであまり食指が動かなかったが、この前のライブ盤からやたらカッコよく思えて聴いている。今度の『ILLUMINATION』の日本盤の帯のコピーは「昨日よりも若く」。安易ではあるが、決して的外れではないかも。もちろんジャムやスタイル・カウンシルの時より若いってことはないけれど、この新譜を聴いていたら「オアシスなんて要らなかったんじゃないの?」とか思ってしまったのは本当。だから、若いっていうより新しいって言ったらいいのか…もちろんアヴァン・ポップと呼ばれているような音楽とは違うし、いつだってポール・ウェラーであるのは常に変わらない。それはエイミー・マンも然り。つまるところ「新しい」とは何をもって言うかって問題でもあるが、確かなのはポール・ウェラーもエイミー・マンも常に自分の今を更新しているってことだ。
さて今日買ったCDの中で、ハナレグミの「家族の風景」というシングルがある。聴いたことないが何でもスーパーバタードッグというバンドでボーカリストをやっている人のソロ作品なのだそう。昨日CDチャートのテレビ番組で耳にして妙に気になったので買ってみたのだが、たぶん気になったわけは、メロディーラインでやけに高田渡と似ている部分があるからだろう。あるいは声ののせ方。
最近雑誌の準備もあって昔の和製フォークをいくつか聴いているのだが、どうにも聴き続けることができない。逆に同時代のニック・ドレイクやヴァン・モリソン、ボブ・ディランなんかが聴きたくなって引っぱりだしてきてしまう有り様。何でだめかといえば、単にかっこよくないとか暗くて気がめいるとかトホホな理由なのだけど、結構声ののせ方というのも大きいかもしれないと思った。だから聴けない和製フォークの中で高田渡は楽しく聴ける数少ないもの。言葉ののせ方が良い。でも要するにそれは言葉の意味(もしくはメッセージってやつですか?)を歌詞に込めるか、歌に込めるかという単純な違いに繋がることで、昔の和製フォークのムーブメントにおいて後者の姿勢が無視されがちだったのはまず間違い無いと思う。
黒岩幹子