「続けることはパンクである」−マルコム・マクラーレンか山本燿司か、そう言ったのは確か。その2人が本当にパンクかどうかは分からないけど、かつて60年代に「喫煙劇場はどこにあるのか」と、ブレヒトの提案した「喫煙劇場」を語りながら、プロセニアムアーチと厚いカーテンを有する近代劇場のイデオロギーに浸された劇場達と「近代演劇」と「近代観客」(だがしかし、そんなもの果たして存在したのだろうか?)へと異義を唱え、当時最新のテクノロジー(!)を駆使した黒いテント(紅ではなく)の「評議委員」のひとりとして、「喫煙劇場」を運動として組織しようとした津野海太郎氏と、先月より施行された条例によってポイ捨てはもちろんのこと歩きタバコすら罰金の対象となった千代田区を市ヶ谷駅からそそくさと急いで辿り着いた新宿区の、とあるビルに事務所を構える「本とコンピュータ」編集部にてインタヴュ−を行ったのが水曜日のこと。「喫煙劇場とはすでに劇場ですらなく、自由にタバコを喫うことのできる場所に、演劇を持続的に出現させる運動であるほかないのかもしれない」(1970『悲劇の批判』)。
例えば千代田区には歩きタバコ禁止条例が張り巡らされ、「ゴールデン街」の写真を撮影するには組合に許可を取らねばならない(つまり有料、これはかなり以前からのことらしい)。もちろんブレヒトの言う「喫煙劇場」とは単に「タバコを吸えること」を指しているのではない。嘗て某テレビ番組で加藤あいと高橋幸宏が無為な時間を生きた釣り堀が(何と、あっけらかんと千代田区に居座っているのだが)、曇り空の下で徐々に星雲の様な不透明さと輝きとで「笑い」ながら・・・「共−同体とはすでに共同体ですらなく、自由に〜することのできる場所に、存在を持続的に出現させる運動であるほかないのかもしれない」(だが一体自由に何を為すべきなのか、そして自由とは果たして・・・)。やっぱりパンクでいることはとっても難しいのだ!そして「あいちゃん」と「幸宏さん」とのあの強度に満ちた持続とは、何とパンクであったことかっ!
松井宏