昨夜、映画美学校で「映画表現論」という講義を受けた。講師は蓮實重彦氏。ベージュのストールを首から掛けて登場。いくつかの映画を一部上映し、何か気づいたことはないかと問い掛け、いま見たものについて解説していく。たとえば『木と市長と文化会館』の男女が散歩するシーンは、途中で服装や髪型が変わったりまた戻ったりする。「普通映画をつくるとき、散歩している間の服や髪を統一させるようにもっていきますが、ロメールはそう考えず、おそらく異なる時間の散歩シーンとして撮られたであろうものをつなぎ合わせているんです」。また『私の父は正しかった』の夫婦の会話は、妻の顔も夫の顔も左側からとらえたショットでもってつなげていて、目線が合っていないように見える。「通常は左側と右側のショットをつなげようとするんですけどね、サシャ・ギトリは男女の会話を故意にこのように映し出すんです」。などなど。そして蓮實氏は、みなさんもこのように大胆に映画を撮って下さい、それには高度な技術が必要ですけどね、と講義を締めくくる。「大胆に」っていうのはどういうことなのか、分かったような分からないような、狐につままれたようになる。普通はしないから私はやりましたってことではない。「大胆」じゃない映画は映画でないのかもしれない。何をどのように撮って、映画をつくるのか……。友人は「バカな僕らに対しても蓮實さんはうまいこと講義するね……」とつぶやいて帰って行った。
内山理与