——三宅監督がヒップホップを聴き始めたのはいつくらいからなんでしょうか。

三宅唱:小6の頃だったと思います。地元のFMラジオを聴いていたら日本語ラップが流れてきたのが最初です。「ストリートフレーバー」というヒップホップ/ブラックミュージック専門番組があって、すごく充実していたんです。ちょうど、1996年に日比谷野外音楽堂で「さんピンCAMP」という大きなヒップホップのイベントがあったんですが、そういう流れが札幌の小学生にまで届いていました。それで思いきり影響をうけて、もうずっとブラックミュージックばかり聴いてきました。

とはいえ、単体のアーティストのアルバムをフル聴きする習慣はなぜかなくて。ラジオを録音したテープをずっときいたり、友達にもらったミックステープをきいたり。東京に出てきてからはとくに、CDを買うよりクラブにいくほうが多くて。たんにトラックが好きだったのか、首ふって体動せるのが好きだっただけか、とあとから思ったんですが、そう気づいたのは、実はここ5、6年の話で、あるときから日本語のリリックが自分に刺さるようになってきてからです。恥ずかしいですが、遅いんです。ラップの言葉をメッセージとして受けとるようになってから、それに心を動かされたり、いろいろ考えたり、やっぱりそうしているうちに自然と、自分の人生とか映画づくりのことを重ねてみたりして。ずっとヒップホップをきいてきたけど、付き合い方にはそういう変化がありました。

——今回の映画に出演してるOMSBやBimを好きになったのもそういう流れにあるんでしょうか。

三宅:そうですね。OMSBやBimは自分よりすこし年下の世代。生まれたときにすでにヒップホップがある世代がいつの間にか出てきていて、それが俺よりちょっと下以降の世代だと思います。世代で括れるわけじゃないけど、でも無視できないくらいは大きい。ヒップホップとの距離がやっぱりちがうから、当然スタイルも変わるし、言葉も、語り方も変わる。いまの世代は、フレッシュだし、勢いがあるし、いろいろカマしつつも地に足がついていて、かっこいいですよね。OMSBとBimはスタイルはまるでちがうけど俺はどちらも好きで。ふたりとも自分の実感を手放さないというか、自信をもって自分らしくやっている強さがある点は一緒だと思います。あとは、ふたりのユーモアセンスもめちゃめちゃ好みですね。たまに思わず感心しちゃって、笑うの忘れるくらいだから。

——彼らの作曲風景を映画にしたいと考えたのはどうしてなんでしょう。

三宅:近くでじっくりみたいというファン心理が先にあるけれど、すごくシンプルにいうと、「かれらは日々どうやって音楽をつくっているんだろう?それがみたい」という欲望がありました。もともと、具体的に映画をつくろうという前から、新しくものをつくってなにかメッセージを世の中に伝える人、刺激や幸福をつくる人たちのなかで、ラッパーが一番面白いと思っていました。いままでは主に映画から刺激をうけて映画をつくってきたと思っているんですが、いまは正直にいって、同世代のラッパーたちのやっていることのほうが、いろんな意味で面白い。ラッパーは、フレッシュであることと、ジャンルの性質上、歴史にリスペクトを払うこと、そのふたつが両立しているんですね。フレッシュであるためには歴史を知る必要があるし、歴史を知ったからといってそのモノマネではフレッシュにはならない。とにかく、自分よりずっと若いラッパーたちでも、本当に音楽をよく知っているという印象があるんです。それも、無理してそうしているわけではなく、たんに好きだから、当然のように過去の音楽を掘る、ディグっている。残念ながら比べてしまうと、同じ世代の映画の作り手、映画ファンにそういうモチベーションを感じる機会はそこまでは多くないし、自分自身も、映画史の財産への尊敬も、同時にフレッシュであろうとすることも、どちらもまだまだ中途半端だな、と刺激をもらっていました。『Playback』を撮ったあと、企画を考えては「こういうことじゃないな」と捨てて、動きあぐねているときに、かれらラッパーたちがどんどんフレッシュな音楽をつくっているのを聴いていて。自分もかれらみたいにつくりたいな、どうやったらできるかな、という思いがあった。

——ラッパーについての映画というよりは、彼らと一緒になにかをつくりたいって感覚に近いのでしょうか。

三宅:そうですね。かれらのやっていることを目にすればなにかヒントがあるかもしれない、おなじ場所にいて一緒に映画をつくることでなにかがわかるかもしれない、という。

「やるんだよ」じゃなくて「もうやってる」

——この映画で撮影された部屋ってどんな場所なんですか?極端に家具がないのでどこか合宿所みたいな所なのかなと思ったんですけども。

松井宏:部屋は出演者のVaVaくんとHeiyuuくんのアパートです。引っ越ししたばかりでまだ家具もほとんどなかったんです。

三宅:そこにOMSBの機材を運ばせてもらって。だからこれは撮影用につくったシチュエーション。カメラがかれらのところにお邪魔したともいえるけれど実はちょっと違っていて、ある場所に集合して、それからはじめる、という映画づくりでした。

——カメラは何台で撮ってたんですか。

三宅:3台現場に持っていきましたが、使ったのは2台です。1台は固定で、1台はほぼハンディです。

©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho

——場所の選択とカメラの位置取り以外に、いわゆる演出というものはあったんでしょうか? たとえば後半のリリック作りのシーンでは、この位置にいてほしい、みたいな指示もされていない?

三宅:してないと思いますね。この部屋にいてくれ、というだけ。もちろん出たり入ったりしても自由で。あ、でも最初にかれらが音楽をかけながら会話しはじめたので、音楽は消させてもらって、というやりなおしはありました。演出ということについてですけど、位置の指示に限らなければ、部屋の雰囲気づくりだったりささいなやりとりだったり、現場中の会話はやっぱり演出だと思っているので、というかすべて演出になってしまうので、それを踏まえて動いたり喋ったりはしていたつもりです。

——撮影した素材は何時間くらいだったんでしょうか。

三宅:20時間強だったと思います。30時間はない。2日とも午後1時くらいからカメラを回して、夜中まで。撮影が終わったときはすごい手応えがありました。ほんとに現場がめちゃめちゃ面白くて。スペシャルな瞬間がシャレにならないくらいあった。それがちゃんとカメラにも映ってるかどうかは不安だったけど。

松井:メインカメラ(人物たちを正面からとらえるカメラ)のモニターを見ていたのはぼくと、共同撮影の鈴木淳哉だけだったんですが、あるトラックがかたちになってきた瞬間、「あ、いまヤバいゾーンに入ったよな」と、ふたりで無言で目を合わせたのを覚えています。すごく興奮しました。

三宅:現場で俺らがハッとしたり、うわぁって驚いたように、映画をみるひとにも同じ盛り上がりを感じてほしいと思って編集をはじめました。もちろん現場にいるのと映画館だと、たとえば同じ時間をまるまるみたって、同じ感情になるかといえばたぶんならない。映画としての時間の使い方をして、そこに辿り着けばいいなと考えて編集しました。

——OMSBというミュージシャンの魅力って、三宅監督にとって率直にどういうものなんでしょう。

三宅:なぜOMSBがカッコいいのかって、曲が好き、それはかれの生き方そのものが好きということなんですが、もっというと、かれは前に進み続ける人で、手を動かしてちゃんと仕事をしている人、というのは惚れるところです。最近の自分の気持ちですが、悲しいこととか大変なことがあって立ち止まるときもあるけど、そういうことに関係なく勝手に世の中は進んでいくわけだから、なんとかコントロールして自分も自分なりに進んで行きたいわけですよ。そう考えたときに自分で前に進んでいるカッコいい人を撮りたいなって。

映画の話で例えると、これは塩田明彦監督が『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』(イースト・プレス)の中で語ってたことなんですが、フリッツ・ラングの『復讐は俺に任せろ』(1953)で主人公の刑事の妻が車の爆発で死んでしまうという描写がある。そのあとになにを描くか。葬式があり、刑事が悲しみに暮れるっていう描写を丁寧に描く映画もあるけれど、『復讐は俺に任せろ』はその爆発の次のシーンで刑事がもう仕事しているんですよね。あとは、トニー・スコットの映画のデンゼル・ワシントンって、大変なことが起きたって瞬間にもうTシャツ1枚になって走り出している。もちろん、その走り出すまでの逡巡を描く映画もあって、それはそれでいいと思うんだけど、どうせ走り出すならば、走り出したあとどうなるか、どう走るのか、その走りをみたい。なぜならそれが、カッコいいことだと思うから。映画ってカッコいいものであってほしいし、人の憧れるものであってほしい。

俺は自分の手が止まったときに、この映画に映るOMSBたちのことを考えると手が動き出すんです。もちろん、OMSB自身も俺と同じく手が止まったり、どうしても調子が悪いときがあるに違いなくて。そこからどう抜け出すか、そういうある種の鬱っぽさをどうくぐり抜けるのか、それが自分にとってはとても重要で。それで、OMSBのつくる音楽には、オチているときの自分とか世界との向き合い方だったり、そこからアガるためのやり方みたいなものがあって、とても感動するところが多い。なんというか、「でもやるんだよ」とは言わず、「もうやってるんだよ」と言う、まず自分の行動で示すかんじがOMSBにはあります。「もうやっちゃってます!」みたいな。OMSBのニューアルバムが『Think Good』ってタイトル、「いいこと考えた!」っていう言葉ですけど、あのアルバムをつくって世に出すこと、これがもう「Do Good」にもなっている。俺にとっては、この映画がその実践です。今回、映画のキャッチコピーがどうしても必要ということであれこれ考えて、結果的に「リアルに生きてる」になったんですが、それは「リアルに生きる」でも「リアルに生きろ」でも絶対にない、「生きてる」なんだ、ということは重要でした。

——見てて単純に楽しいし、元気をもらえる作品だと感じました。でもこの感触は、この映画がある種のヒューマニスティックなメッセージを語ってるとかそういうことに依るのではなくて、あくまで画面に映っている人たちの仕事がそう見せてるんだと思いますね。

三宅:それはうれしいです。そういう映画をつくれて幸せだなと。『THE COCKPIT』は鏡みたいな映画だ、と思っています。といっても、現実の反映としての鏡ってことが言いたいわけじゃない。むしろスクリーンの向こう側が現実で、反映すべきなのは見ているこっち側だ、という鏡。編集中、画面の向こうの彼らの真似をすることで、というか自分も彼らとまるでそっくりのことをやっていると気づいてから、手も頭もどんどん動きはじめました。そういうエネルギーが湧いてくるような映画のタイトルとして、「コクピット」という言葉を選びました。「コクピット」はふつう宇宙船だったり車だったり、何か操縦する場所ですよね。かれらの部屋をコクピットと呼ぶ、すると自分の部屋もコクピットだ、と思えてくる。仕事とか労働とか作業とかものをつくること、それは自分の人生を操縦することなんだ、ということがこの言葉で意識しやすくなると考えました。樋口泰人さんだったらサーフィンって言葉を使うだろうけども、それに似た感覚かもしれません。どう乗りこなしていくのか。ものづくりしているときのみに限らず、単に生きてるだけでもいろんなことが起こるわけですが、たとえばメール一本出す、俺はメールが苦手だからいつも気が重いんだけど、でも仕事場をコクピットと呼ぶことで、大げさにいえばそのメール一本で自分の人生を前に進める、操縦していくアクションだと思える。それで、メールがちょっと楽しく返せるようになる。まあ、あまりに卑近な例だけど、そういう感覚。これが、この映画のOMSBたちの仕事ぶり、真剣かつ楽しくやる姿をみることで、ストレートに伝わるんじゃないかと思っています。

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