カッコいい「半径5m」
——『THE COCKPIT』はそうした対象ありきの作品であるとともに、やはり三宅唱という映画作家の新しい挑戦を感じずにはいられない映画です。それはおそらく「無言日記」というもうひとつの近作と一緒に考えるべきだと思うのですが、率直に感じるのは、監督と映画との関わり方がこれまでと全然変わったんじゃないかってことなんですよね。
三宅:『やくたたず』や、『Playback』をつくり始めた最初の頃くらいは、「映画とはこうあらねば!」というものがまずあって、そこを絶対の基準として考えていました。というのも、それ以前、学生のころはその都度で興味があるもの、好きなものを単にやってしまえという考えでつくっていて、どこか地に足がついてない感じがしたし、映画のようで映画じゃない、映画に似た別のものをつくっているんじゃないかという焦りがあり、このままじゃダメだと。で、とにかく自分にとって映画ってなんなんだ、と考えを詰めていくうちに、いつのまにか「映画ってものすごく厳密なものだ、純度の高いものなのだ」と思い込むようになっていた。映画なのか、映画じゃないのか、それを振り分けていく必要がある、とそのとき思ったんです。
©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho
——それはいわゆる「映画的」なものという意味での純度?
三宅:そうですね。シネマというものには、ものすごく厳密に考えることでしか辿り着けないものだと考えていて、そこにエネルギーを注いでました。今ではその姿勢を「潔癖性」と呼んでいるんですが。でもあるときに気づいたんです、シネマはめちゃくちゃ器が広いんじゃないか?というような。それでだいぶ気が楽になったのを覚えています。
大雑把にいえば、映画はいずれ100億円映画かホームビデオのどちらかに二分されると思っていて。中間の映画があってほしいけど、正直そこで映画ごっこして負け戦するくらいなら、面白いホームビデオの可能性のほうが楽しそうだ、とおれは思っちゃうんです。たとえば、人んちの子供の運動会のビデオなんて見たくないものだけど、でもそのビデオを面白く撮れたら、これは大したもんじゃないか?と。しかもそれができたら、たぶん100億の映画も撮れるんじゃないか、と。短絡的ですが、映画づくりという意味ではほぼ一緒だから。もちろん、かつてのハリウッドや日本映画のスタジオでしか培われなかった最高の技術はある。でもそういう技術の伝承はもうないし、あったとしても、いま自分がつくっているところではどうにもやりようがない。これはもうしょうがない。中途半場な予算や枠組みで、無理して劣化コピーみたいな映画づくりをして消耗するくらいなら、だったらいますぐやれること、つまり面白いホームビデオをつくるほうが楽しくない?ということですね。正直にいえば、いつかは大きい映画を撮りたいという夢もまだまだみているし、それを撮るためにはホームビデオの演出力が必要なんだ、とあえて強がってる面も自分のなかにはある。でも本気で、ホームビデオこそ、と思ってる。
——シネマというのは問いを立てて辿り着くものではなくて、あくまでつくったものの結果として見出されるものだという見方ですね。
三宅:結果ともいえるけど、いや、入り口かな。自分の考えですが、シネマは、目の前にあるものをちゃんと発見することだと思います。目の前にシネマがある。だから、誰もが感知できうるはずなんです。シネマは、必死にたどり着く狭い場所ではなくて、いま目の前に開けている大きいもの。だから、ヒップホップや渋谷の街角の風景のなかでシネマをつくること、発見することに、いまは自分自身では意義というかやりがいを感じています。ただみるだけで、そこにもそこにもシネマを発見していく作業だから、これはものすごく楽しいんですよね。目の前にないものからシネマが立ち上がるわけはないし、シネマのためになにかをするというのはまるで違う。なんだろうな、映画つくるために生きてるわけじゃないんですよね。映画をつくることで人と関係をつくったり、あるいは幸せになるために映画がある。こういう順番だから。
©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho
——予告でも見られるんですけど、リリックを準備しているところでBimが「この小さい部屋からもっと大きい広いところに発信するようなイメージ」と言いかけて、実はその後どことなく言い淀んでるシーンありますよね、「なんか違う、そうじゃない」という感じでしょうか。そこの引っ掛かりって、どこかさきほどからの映画の大きさをめぐる話に近いような気がするんです。
三宅:そうですね。編集中に、「なんでふたりはこの映画そのもののことを、撮影時点ですでに語っているんだろう?」と思ったくらい、近いと思います。彼らは自分の人生を真剣に生きてるから、自分が今やってることがなんなのか、いまなにが起きつつあるのか、つまりこれがどんな映画になるかということを直感的にわかっていたんだと思うし、それを言葉にすることにも慣れている。普段からリリックを書いているというのは強いですよね。
——たとえばフィリップ・ガレルやジャック・ドワイヨンに代表されるある時代のフランス映画、小さな部屋の中で少ない人数で撮影された作品群の持ちうるような広がりに近いものが、『THE COCKPIT』では新しいかたちで展開されているような気がします。
三宅:『THE COCKPIT』は、いま言われたフランス映画もそうかもしれませんが、それよりも日本の自主映画伝統の四畳半映画の延長にあると考えてみたいと思っています。ある時期から、その手の映画は、まとめて「半径5mの映画」という言葉で批判されてきていますよね。半径5mを否定すること自体が権威になっているともいえる。でも「半径5mの映画」を単純に否定しちゃった挙句、むりやり外に開こうとしてどうも地に足の着いてない映画になったり、ということもあるわけで。俺自身も、ある時期以降の日本映画、ミニシアター映画というものに多かった「半径5mの映画」は嫌いでした。でも、それはそこに映ってる半径5mがダサいからなんじゃないか。しかもそのダサさに開きなおったり、女々しい自己憐憫が張り付いていた。でも、俺が好きなヒップホップの曲のことを考えると、半径5mの生活感覚とか実感を絶対に手放さずに、その半径5mをいかにカッコいいか、カッコいいものにしていくか、ということがあるんです。俺の好きなラッパーたちはそういう方法で、広がりを獲得していっている。これは、きっと映画でもできることだと思った。
それと、すこし話がずれるんですが、等身大より「ちょっと大きく見える」というのが、自分にとっての映画の面白さだと気づいたんです。スクリーンの物理的な大きさにも依るけれど、スクリーンより実物が大きいものを撮ると、それをスクリーンでみるときは実物より小さいものをみることになりますよね。宇宙や空は、よっぽどのことをしない限り、スクリーンでみるより、そのまま夜空を見上げたほうが、正直迫力がある。これはもう映画はなかか勝てない。もちろんロングショットはほんとうに大好きだけど。でも一方で、目には見えないような小さなものが見えてくる、顕微鏡的な見方も映画の力だから。たとえばそこまで小さくなくても、数人がいる部屋のサイズなら、映画でみるほうが実物大よりも「ちょっと大きく見える」。だから、いろいろとよく見えてくる。これは映画にする意味がある、というような考え方です。ビガー・ザン・実物。
松井:世界に向けて開く、みたいな言い方があって、それはそれでわかりつつ、でも『THE COCKPIT』というのは逆なのかなと感じるんです。つまり、世界のエネルギーがこの小さな部屋に入ってくるように、準備すればいい。ぼくらはそのエネルギーを受け入れる準備をするために半径5mのコクピットをつくり、そのなかで研鑽を積む。そういうことなのかなと。こないだパリのドキュメンタリー映画祭「シネマ・デュ・レエル」に行ったときに、ギヨーム・ブラックさんに再会したんですが、彼の映画をみたり、彼といろいろ話せたことはぼくらにとってすごく良かったよね(「ギヨーム・ブラック×三宅唱 “だからぼくらは映画をつくる”」)。
三宅:ギョームさんは刺激になりました。そのとき話題になったのは、ジャド・アパトーたちなどがやっているような現代のコメディのこと。そういうハッピーな方へ向かう映画、笑顔をどんどん広げていくような映画が、あくまで被写体ありきでできているってことでした。『Playback』も、もともとコメディとしてあの世界を考えていたけれど、結果として、笑える映画だとはさすがにあまり受け取ってもらえていない。演出もやっぱりコメディの感覚ではなかったと思うし。コメディのベースに必ずある部分、ある種のウェットさとかペーソスはそれなりに敷き詰められたとは思うけど、不条理劇ということもあいまって、さすがに完成したときに「これはコメディなんです」とは言えなかった。そうみてくれる人もそれなりにいたし、俺もとくに後半はなにもかもすべて笑えてしょうがない、愛おしくてしょうがない、というような感情を持ったんですけど、もっといきたいぞ、と。だから次こそは、それをもっと強く前面に出すことを意識しようとずっと思っていました。それで、ギヨームさんとの話も経て、今回はOMSBやBimたちありきでつくることができたし、かれらのあのポジティヴさを借りることで、コメディやハッピーなムードというのはかなり実現できたと思っています。被写体のためだけに映画を作れる幸福感ですよね。『やくたたず』や『Playback』でもそれは経験できたけど、今回はもっとシンプルに、目の前にいる人のこと以外に考えることはまったくないっていう感じ。自分のため映画のためというより、ただ人のためになにかをすることの喜びと、映画づくりそのもの快感というのが、今回はよりストレートに結びついたような気がします。
松井:こないだギヨームさん、やっと『THE COCKPIT』を見れたとメールをくれて、すごく気に入ってくれたんです。次の作品のために自分も、先に小さなドキュメンタリーを撮ろうかと思っている、とも言っていましたね。