本誌37号所収のインタヴューでも語られているように、『灼熱の肌』でルイ・ガレルが演じるフレデリックは、ガレルが60年代に知り会った友人のひとり、フレデリック・パルドをモデルとしている。ガレルは現在、演出上の人物造詣における「モデル」を、ある固有の人物自体には求めてはいないことを証言している。彼の作品が「現実的であることを理解するのはそんなに難しいことではない」(nobody issue37、フィリップ・ガレルインタヴューより)。しかしそんな現在にこそ、フィリップ・ガレルの60年代から70年代に光を当てることは重要だ。なぜなら、その周囲にあったさまざまな事象に眼を向けることは、私たちが37号の特集で目指したことのように、ガレルがその時代においてすでに“孤独”な作家というクリシェから遠く離れていたことを示すことができるからだ。
68年以後の数年間、ガレルはザンジバールという共同体とともに映画制作を行っていた。グループの庇護者であるシルヴィナ・ボワソナによって与えられた、豊穣な予算と自由、完全なユートピアと言える状況で、ガレルの『現像液』『集中』『処女の寝台』といった作品は生み出された(*1)。ニコ、ジーン・セバーグといった女性との記憶に彩られたフィリップ・ガレルの物語以前の、ある共同体をめぐる歴史をここにつけ加えてみたい。
ザンジバール時代、それは、ガレルにとって、青春時代とアンダーグラウンド、あるいはニコの時代の狭間にある謎に満ちた時代だ(*2)。2007年、60ー70年代のアンダーグラウンド映画を研究するサリー・シャフトによってグループの全体像を明らかにする『Zanazibar』が刊行され、大規模な回顧上映が行われた。だが、その存在、そして、ヌーヴェルヴァーグ以降の世代としての映画史における重要性は未だ認知されているとはいえない。この謎の多いグループについて調べていくうちに、私は偶然にも、パリでザンジバールのメンバーであるひとりの女性、ジャッキー・レイナルに出会った。ジャッキーは、60年代から編集技師としてのキャリアをスタートさせ、ジャン=ダニエル・ポレ、リュック・ムレ、エリック・ロメールらの諸作品、そして68年五月の出来事を記録したゴダール、ガレルによる“シネ・トラクト”(消失)を編集した人物だ。彼女は、ザンジバールを愛し、その存在を伝えることを使命として、講演活動、上映、dvd化に尽力している。そして、ダニエル・ポムルールの親しい友人でもあった。68年という時代をまさに“生きた”彼女とのインタビューとザンジバールを巡るテキストを紹介する。翻訳とインタビューを快諾し、美しい写真の数々を提供してくれたジャッキーに改めて大きな敬意と感謝を述べたい。そして、この機会が、彼女とともにザンジバール作品を日本で紹介する第一歩なることを願って止まない。
(槻舘南菜子)
*1 サリー・シャフト『Zanzibar』の巻末のフィルモグラフィーによれば、『記憶のためのマリー』と『内なる傷跡』もザンジバール作品としてクレジットされている。だが、ガレル本人の意向に従って『現像液』『集中』『処女の寝台』のみをここでは記載した。
*2 ガレルは自身の作品を以下のような5つの時代に分けている。青春時代/アンダーグラウンド、あるいはニコの時代/叙述の時代/よりシンプルな形で物語を語る時代/ロマネスクの時代。
Frédéric Pardo, Dessin portrait de Philippe garrel
フレデリック・パルド『フィリップ・ガレル(デッサン)』
FFrédéric Pardo, Portrait de Pierre Clementi
フレデリック・パルド『ピエール・クレマンティ』
1946年、モンペリエ生まれ。
1965年より編集技師としての仕事をはじめ、多くのヌーヴェルヴァーグの作家たち、とりわけエリック・ロメールの60年代の作品を担当した。自身も監督として作品を制作しており、『Deux fois』は1972年、イエール国際映画祭でグランプリを受賞。1975年から1998年まで、ニューヨークのカーネギーホール、ブレッカーストリートシネマでキュレーターとして活動するとともに、数々の国際映画祭でのプログラムも担当した。また、ニューヨークでのゴダール、リヴェット、デュラスなどの配給にも携わった。2000年以後は、ザンジバール、ジョナス・メカス、ジャック・バラティエ、ロメールなど、彼女の友人である作家たちのドキュメンタリー作品の制作を精力的に行っている。
http://www.jackieraynal.com/(彼女自身による公式サイト)
僕たちは、反動的だったけれど、さほど政治的ではなかった。その気取りを強調するある種の傾向とともに、単に社会的にひどくズレていた。当時、ふたつのグループがあった。ジャン・ユスターシュが所属していたグループのリーダーは作家であるジャン=ジャック・シュルで、僕のグループのリーダーは画家のフレデリック・パルドだった。
フィリップ・ガレル『心臓の代わりにカメラを Une camera à la place du coeur』
どれほどに本人がそれを否定しようとも、『灼熱の肌』というフィクション作品には、フィリップ・ガレル自身の60~70年代をめぐる記憶が刻み込まれている。このフィルムがわたしたちに想起させるのは、1969年、『処女の寝台』の撮影の後に過ごしたといわれるガレルのイタリア、ローマにおける記憶だ。ピエール・クレマンティとズーズーを主演に迎え、ほぼインプロヴィゼーションで撮られたというこの作品は、のちに68年五月革命を象徴する作品と評価されることとなる。この作品の撮影を終えたガレルは、フレデリック・パルド、そして当時のパルドの恋人ティナ・オーモンとともに、ポジターノの別荘で余暇を過ごした。ガレルはそこにおいてニューヨークのファクトリーからやって来たニコに出会い、恋に落ちたという。これはすでに『ギターはもう聞こえない』で語られた物語であり、ニコとの愛の産物と称される7本のガレル作品たちが70年代に製作されたことは言うまでもない。
――あなたが編集技師として働きはじめるまでのことをお話していただけますか?
ジャッキー・レイナル(以下、JR)私はまず写真からはじめたの。私はヴォージラールの学校で教鞭をとっていた素晴らしい写真家、パトリス・ヴィエルスと当時、付き合っていた。彼が私にキャメラの手ほどきをしたのよ。20歳のときメキシコに行き、ルポルタージュを撮ったわ。パリに戻ってきたとき、彼はアレックス・ジョフェの『Tracassin ou les plaisirs de la ville』のアシスタント・キャメラマンとして仕事をしていた。映画のスタッフたちは私に「あなたは若くて、美しいんだから、映画にどうして出演しないのか」って提案をしてきた(笑)。そこで重要な役をあたえられた。その現場で、演出のアシスタントをしていたフランソワ・ブショーに出会い、すぐに仲良くなったの。彼は編集の仕事も手伝っていて、その仕事を見にいったわ。アラン・レネの『去年マリエンバードで』を編集していたのだけど、彼はどうやってフィルムを繋ぎ合わせるのか私に見せてくれた。その作業は私が自分の洋服を作っているときのことを思い起こさせた。私の両親はあまりお金がなくて、私は手縫いで洋服を作っていたから。少しの接着剤でふたつのイメージを張り合わせ、つなぎ合わせる才能があったのね。彼は私を見習いとして雇ってくれたけど、給料はすごく悪かったわ。
私は設立当初の1968年から1975年までーーその解体は1973年にさかのぼると見なされているけれどーーザンジバールに参加していた。そこに集った主要なメンバーは、シルヴィナ・ボワソナ、パトリック・デュバル、ジュリエット・ベルト、オリヴィエ・モセット、フィリップ・ガレル、アラン・ジュフロワだった。この時代への感傷を露にすることなく、そして30年来、自分がその創始者であったことを知らずにいたーーピーター・ウォレン Peter Wollenによるロッテルダムでの講演(*1)でその事実を知ったばかりなのだーーこのグループについて、私の覚えている縮図を示してみよう。この主題について語るのは、私にとって易しいことではない。この時代をとてもアナーキーなやり方で捨ててしまったからだ。私は仕事を変えた。編集技師/映画作家から、ニューヨークの4つのスクリーンのプログラムをすべく、いきなり映画館のディレクター(*2)としての仕事に行き着いてしまった……。あの時代の盛大なお祭り騒ぎ、それはまるでひとつの闘いのように。