僕たちは、反動的だったけれど、さほど政治的ではなかった。その気取りを強調するある種の傾向とともに、単に社会的にひどくズレていた。当時、ふたつのグループがあった。ジャン・ユスターシュが所属していたグループのリーダーは作家であるジャン=ジャック・シュルで、僕のグループのリーダーは画家のフレデリック・パルドだった。
Frédéric Pardo, Portrait de Philippe Garrel
フレデリック・パルド『フィリップ・ガレル』
フィリップ・ガレル『心臓の代わりにカメラを Une camera à la place du coeur』
どれほどに本人がそれを否定しようとも、『灼熱の肌』というフィクション作品には、フィリップ・ガレル自身の60~70年代をめぐる記憶が刻み込まれている。このフィルムがわたしたちに想起させるのは、1969年、『処女の寝台』の撮影の後に過ごしたといわれるガレルのイタリア、ローマにおける記憶だ。ピエール・クレマンティとズーズーを主演に迎え、ほぼインプロヴィゼーションで撮られたというこの作品は、のちに68年五月革命を象徴する作品と評価されることとなる。この作品の撮影を終えたガレルは、フレデリック・パルド、そして当時のパルドの恋人ティナ・オーモンとともに、ポジターノの別荘で余暇を過ごした。ガレルはそこにおいてニューヨークのファクトリーからやって来たニコに出会い、恋に落ちたという。これはすでに『ギターはもう聞こえない』で語られた物語であり、ニコとの愛の産物と称される7本のガレル作品たちが70年代に製作されたことは言うまでもない。
まず、フレデリック・パルドとは何者なのだろう? 彼はアンダーグラウンドの画家であり、60年代にその活動を開始し、60年代後半からはピエール・クレマンティ、フィリップ・ガレル、ティナ・オーモン、ダニエル・ポムルールといった身近な友人たちを描き始め、後にはフランソワ・ミッテランの肖像も彼が制作することになる。ガレルは、パルドからテンペラ画を習ってもいたそうで、『ギターはもう聞こえない』の芸術家マルタンはパルドをモデルとした人物だ。1965年にはパルドはガレル、ピエール・クレモンティ、デディエ・レオン、ヴァレリー・グランジェ、ジャン=ピエール・カルフォンとともにロックグループを結成・活動していた。彼らはジャン=リュック・ゴダール『ウィークエンド』のサウンドトラックを制作し、ガレルの『処女の寝台』でも同様にその音楽が使われている。また、『処女の寝台』の撮影風景を16ミリカメラで撮影した美しい作品、『Home movie's』を残し、その後1975年のガレル作品『水晶の揺籠』にドミニク・サンダ、ニコとともに出演し、そのポスターもデザインした。これらがガレルとのフレデリック・パルドの主な仕事だ。
Frédéric Pardo, Portrait de Tina Aumont
フレデリック・パルド『ティナ・オーモン』
そしてパルドとともにガレルにとって、そして『灼熱の肌』において重要な人物、それがダニエル・ポムルールだ。小誌37号所収のインタヴューにおいてキャロリーヌ・ドリュアス=ガレルは、ヴァンサン・マケーニュの演じるアシルがこのポムルールをモデルにした人物だと告白している。ガレルは美術家であるポムルールを、60年代から70年代にかけては『処女の寝台』と『内なる傷跡』に、90年代の終わりには『夜風の匂い』において俳優として起用し、『恋人たちの失われた革命』を2004年に亡くなった彼に捧げた。美術家としてだけではなく、俳優としても注目すべき多くの仕事を残したポムルール。ヌーヴェルヴァーグの作家の作品では、トリュフォー『黒衣の花嫁』、ゴダール『ウィークエンド』に、そしてエリック・ロメールの『コレクションする女』に出演し鮮烈な印象を残した。作品の冒頭、美術批評家アラン・ジュフロワとともに、ナイフで埋め尽くされたオブジェを片手に、「空虚さ」について語る鮮やかな黄色のセーターを着た長髪の男こそ、ダニエル・ポムルールだ。俳優としての彼は、演出されることを拒み、どの作品においても彼自身であることを選択したと言われている。つまり、ガレルが起用する芸術家としての俳優、その在り方を決定づけているのが彼だというわけだ。
まさに、『灼熱の肌』とは、このふたりの画家と美術家という友人たちへのオマージュなのである。では、このふたりはどのようにザンジバールに接近したのか? 彼らとザンジバールとの関係はいつ結ばれたのか? それを確認するためには1968年まで遡る必要があるだろう。五月革命のひと月前に行われたイエール国際映画祭、ガレルの『記憶すべきマリー』(1967)がグランプリを受賞したその年、ダニエル・ポムルールの処女短編『One more time』、パトリック・デュバルの『Héracite l'obscur』といった作品たちもまた、この映画祭に出品されていた。観客達の無理解と激しいブーイングに晒されながらも、『記憶すべきマリー』に多くの若者たちが魅了された。そこには、やがてザンジバールに関わることになるであろうアラン・ジュフロワ、ジャッキー・レイナル、ベルナデット・ラフォン、ディウルカ・メドゥヴェクズキ、ミシェル・フルニエ、エドゥアルド・ニエルマン、アン・エリア、パスカル・オビエらがいた。このフェスティバルを介して出会った若者たちは、その後、五月革命のバリケードの下で再会することになり、そしてダニエル・ポムルール、フレデリック・パルドもまた、『記憶すべきマリー』の衝撃によってこのグループの指針となったガレルを通じ、映画へ、ザンジバールへ開かれていった。
フィリップ・ガレル『処女の寝台』撮影風景
五月革命を機に、ザンジバールは本格的にグループとしての活動をはじめる。シルヴィナ・ボワソナ、その兄であるジャック・ボワソナからの援助によって、数ヶ月間で10数本の作品が製作された。その後、アンリ・ラングロワによって、多くの作品がシネマテーク・フランセーズで上映される機会を得ることとなる。70年にはカンヌ映画祭の監督週間でザンジバールの3作品が紹介されてもいる。しかし彼らのユートピアはさほど長くは続かない。73年、グループは跡形もなく消滅してしまう。庇護者であったシルヴィナ・ボワソナはフェミニズムに傾倒し、創設者の一人であるセルジュ・バールは流浪する民として生活することを選択し、その後の数十年間、彼はフランスに足を踏み入れることはなかった。その他のメンバーたちもまた映画を捨て、それぞれの道を選んだ。その中で、フィリップ・ガレルは“職業を変えることなく”、その後も映画を撮り続ける唯一の人物となる。
* パリの2つのギャラリー、Galerie Christophe Gaillard(www.galerie-gaillard.com )と、La galerie Di Meo (www.dimeo.fr)で、7月28日まで、大規模なダニエル・ポムルール展が開催されていた。『コレクションする女』、冒頭の抜粋からはじまり、劇中にも登場した缶に無数のナイフが突き刺さったオブジェの連作、絵画、彫刻、監督作である『One more time』と『Vite』の上映スペースも設けられ、彼のキャリアの全体像を見渡せる展示内容となっていた。
文=槻舘南菜子