「間違ったところで、世界とつながる」

坂本安美(以下、坂本) :アンスティチュ・フランセで映画のプログラミングを担当しております、坂本と申します。本日はよろしくお願いします。 今日は『さらば、愛の言葉よ』2D版と、ほんとうに久しぶりに『男性・女性』を見させていただきました。青山さんは2D版はごらんになりましたか?

青山真治(以下、青山) :青山です。よろしくお願いします。2Dは観ていなくて、3D版だけです。2月26日にまず『アメリカン・スナイパー』(2014、クリント・イーストウッド)を見て、その足で同じ日に『さらば、愛の言葉よ』も見ました。一日で見たので、終わって外に出た瞬間、自分がものすごく疲れていることに気づいて衝撃でしたね(笑)。見ている間はそれほど疲れているとは思わなかったのですが、座り込んだとたん立てなくなるくらいの、重い二本でした。

©2014 Alain Sarde - Wild Bunch

坂本:私は『さらば、愛の言葉よ』はカンヌ映画祭で初めて見ました。最初に上映が行われる正式上映では見ることができなかったのですが、そこで見た人たちの「本当にすごいことが起こっている」という感想は聞いていました。次の日の翌日上映で見ることができたんですが、翌日上映があるホールは外で列を作って待たなきゃいけないんですね。ですがその日は嵐のようなあいにくの天気で、その中外で一時間くらいひたすら耐えて待って見ました。前の晩徹夜をしていたりしたので身体的にすでに試練を受けているなと思いながら。

この映画自体がいろんなものを放散していくような作品だと思うんですが、私も見た後は自分の体がいろんなものを放散して散り散りになりそうになりながら劇場を出てきたのを覚えています。ただ、それと同時に幸福感も感じた作品で、それを思い出すためにこの間シネスイッチ銀座で3D版をもう一度見直しました。そのときもやっぱりちょっとバテましたね。

青山:幸福感というのは犬のせい?

坂本:そうですね、犬のせいかとも思うし、『さらば、愛の言葉よ』という邦題だと愛にもさよならしてるようですが、それとは逆に、やっぱりゴダールは愛と共にいるなと思ったということかもしれません。

青山:「さらば」と解釈するのも、もしかして違うのかもしれないしね。

坂本:この作品についてのさまざまな文章やゴダール自身のインタヴューなどを読んでも、adieuという言葉の多義的な意味についてすでに指摘されています。彼の住んでいるスイスのロールがある地方では「こんにちは」という意味もあったりだとか、映画の中でも「ah dieu」=「おお、神よ」と分節されていたり。

青山:解体されているよね。

坂本:だから、今日は『男性・女性』という作品と同時上映ということもあり、「さらば」ではなくゴダールの愛、男と女について考えてみたいと思っています。

青山さんは、『さらば、愛の言葉よ』を初めて見たときの印象はどんなものでしたか?

青山:前評判として、変に遺作めいた作品だということをあちこちで読んでいました。本人ももう撮る気がないと言っていたりだとか。でも実際見て感じたのはそれとはちょっと違うことでした。

©2014 Alain Sarde - Wild Bunch

今日上映された『男性・女性』というタイトルもそうですが、僕はこれまでずっとゴダールの作品の中に「2」という数字を見続けてきたんですが、実はそれだけでもないのかなという気がしたんです。『さらば、愛の言葉よ』では、たしかに前半と後半で役者が別々の人に代わるとか、「2」という数字が画面に出てきたり、そういう印象も持つんですけど……。なおかつ3Dというのはーーもちろんそんな単純なことだけじゃないわけですけどーー基本的に2台のキャメラを同時に回すということですよね。ここでも「2」という数字が出てくる。

ただ、「言葉=langage」という言葉が映画の中に出てくるけど、発語されるサウンドとしては、実はステレオのLRではない。2chではなくてセンターもある。

LCRの3つなんだということが「2」という数字の裂け目から現れる、というのが最初に見て思ったことです。 そのセンターとはいったいなんなんだろうと見ていると、最後に犬のロキシーちゃんが画面の真ん中を突っ切っていくわけですよ。それが「2」という数字から別の数字が現れるかのように見えた。「2」という法則みたいなもの、足枷みたいなものから3番目のなにかを出す、そのど真ん中からぴゅうっと出す、そんなゴダールのやり方。もしかしていつもの「なんちゃって」みたいなジョーク半分のものかもしれないけど、僕はそれにニヤリとすることができた。

坂本:いままで、「3」というのはゴダールの作品の中になかったんでしょうか?

青山:僕もどうだったんだろうと思うんですよ。いままであんまり気づかずに見てきた気がするけど……。あれ、こんなことあったっけ、これまでと違うんじゃないのかという印象を、「3」が出てきたところで受けたんです。

それと、最初に見たときに思ったのは、『欲望のあいまいな対象』(1977、ルイス・ブニュエル)のある意味でのリメイクだよなと。この作品でも女がふたりいて、フェルナンド・レイ演じる男がやっつけられる。キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナというふたりの女優が演じてるひとりの女と、どうしても同衾できないんですよね。それと同じことをゴダールもしてるんだけど、男もふたりになっている。『男性・女性』なら1対1でよかったのかもしれないけど、もはやそういうことじゃない。とっくの昔に。そろそろ三番目の「1」が必要だということかもしれない。そもそも「3」Dと言いながら「2」しか感じられないじゃないか、とかね。『新ドイツ零年』って冷戦終結を途方もなく簡潔に描くわけだけど、あそこでも「2」しかないのか、みたいなことになってた気がします。おれが第三の男だ、みたいな。

坂本:『男性・女性』とはすでに違う問題体系の中にあるんじゃないか、ということでしょうか。ゴダールはいつも、たとえば今回の3Dの使い方ひとつ取っても、他の人は思いついてもはやらないようなことを平気でやっちゃう人ですよね。

青山:ある機材、あるアイディア、ある方法、そうしたものの使い方をあえて間違える、というのが毎度のゴダールの方法ですよね。今回の3Dにしろ、前作の『ゴダール・ソシアリスム』(2010)のデジタルの使い方だって、あえて間違える。昔からカットのつなぎ間違いとか、やってたわけじゃないですか。それも含めて、あえて間違えるのがゴダールである。実は映画はそういうことによっておもしろくなることがあるっていうことを教えてくれる。たぶん、ゴダールにとって、恋愛というものもあえて間違えるものなんじゃないか。そんな気がします。

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