坂本:『男性・女性』も、ベトナム戦争だとか女性の運動だとかのいろいろな世界の動きと、ジャン=ピエール・レオーがいかに女の子を落とすかっていう話がほとんど同じレベルで語られています。普段生きている中ではそれらは別のこととして分けて考えてしまいがちですが、ゴダールはつなぎ間違いを恐れずに、とりあえずつなげてみて考えるということを教えてくれる気がします。
青山:間違ったところで世界とつながる。正確さだけではつながりようがない。そういうことだという気がします。
坂本:ゴダールを見て、これが正解だ、これが正しいって思っちゃいけないというか、全部を鵜呑みにしてはいけないと思うんですけど。つなぐことのおもしろさ、重要さをいつも教わる気がします。
青山:『男性・女性』を見直してからここに来たかったんですが、できなかったのであやふやなんですけど、たしかレオーってなにかを踏み外して、間違って死んだってことになってるんだよね?警察にそう言われるんですよね。
坂本:そうです。遺産が入って、ヌイユっていうお金持ちの人たちが住んでいる地区にアパートを買うって話になって、友達の女の子と一緒に住む住まないで口論していて、写真を撮っておこうということになってそしたら窓から落ちちゃったということ、らしい。
青山:そこでも間違ってるんですよね。『アワーミュージック』(2004)の第二部の終わりで女の子が死ぬんですけど、爆弾を持ってるという風情でカバンから本を取り出そうとしたら誤って撃たれた。間違って殺される。それを誰かが報告を受けるというかたちで世界とつながると思うんですよ。『男性・女性』のときはシャンタル・ゴヤがその役割で、『アワーミュージック』ではゴダール本人が彼女が死んだという電話を受ける。「ミュージック」ってついてるくらいだから、どこか『男性・女性』を意識してたんじゃないか。ゴダールってかつて自分がやって気に入っていることの変奏を好む人だから。
だから間違いだらけなんだけど間違いだらけのせいでまさに世界とつながってしまう。作品ができるということも含めて、間違いの果てにそれがある。もうひとつ『ゴダールの探偵』(1985)のジャン=ピエール・レオーも、フランソワ・トリュフォーの映画に「正しく」出ていたけど、今回はゴダールの映画に「間違って」出ちゃったっていう言い方もできるんじゃないかな。
坂本:『男性・女性』もやっぱりジャン=ピエール・レオーが出てくると、本当に画面が動き出すんですよね。改めてすごい俳優だなと思いましたが、やっぱりトリュフォーのレオーとは全然違いますよね。
青山:『ママと娼婦』(1973、ジャン・ユスターシュ)ではどっちかっていうと間違っていない気がするんですけど。ゴダールに出てくるレオー様は『中国女』にしたってちょっととんでもないよね。常にとんでもない気がする。
坂本:『男性・女性』はギャグに満ちてて、すごい笑えますよね。そうした意味では『さらば、愛の言葉よ』の方も、笑えるところが多いですよね。うんことかね。
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青山:わけのわからないところは結構あるね。なんでこれ1カットなのっていう。途中、突然銃声がして、あらあらとか思っている間に展開する。
ゴダールがある種のギャング活劇みたいな雰囲気を醸し出したのってものすごく久しぶりかもしれない。下手すると『ゴダールの探偵』以来なのかなと思ったりもする。
坂本:そうかもしれないですね。あと、女性の裸体が出てきたのはいつ以来ですか。
青山:『ゴダールの決別』(1993)で一応オールヌードがありますけどね。あの後はないかもしれないな。
坂本:私は『さらば、愛の言葉よ』の裸体がすごい好きなんです。好きって言うとアレですけど、今までとなにか違う気がする。今日2D版で見て、また違った印象に見えたんですが、3D版の裸体が何度もひょろひょろ現れて来る感じがなんだかすごく感動的だっんです。
青山:しかし、なんであんなオールヌードだったんだろうね。何だろう。
坂本:たとえば『カルメンという名の女』(1983)とか『パッション』(1982)とか『ゴダールのマリア』(1985)でも裸体は出てくるんですが、なんか今回はより親密な感じするというか。おうちの中で見てる感じ、そんなリラックス感。
青山:これまでヌードを出してきたのはたいてい引きの画でしたよね。言ってみればそれが目的じゃないよってあえて言いたいぐらいの感じで撮ってきたと思うんですけど、今回は「それが目的です」ってはっきり言えちゃう感じで撮ってる。
坂本:「森」を見せますみたいな。
青山:これがやりたくてやってるんだっていう感じはしましたね。僕はすごく状態の悪いDVDでしか見ていないんだけど『ブリティッシュ・サウンズ』(1970)でも、ちょっとこれに近いかたちで挑戦はしてましたよね。階段を登ったり降りたり。
それと同じことをしてるなというのは感じましたが、でも、今回はデジタルであることによってかえって生々しい。
坂本:そうですね。私もそう思いました。
青山:美しいとかっていうよりは生々しさのほうが勝ってたような気がするんです。裸体に関してはね。
それがロキシーちゃんにつながるのかなって。ロキシーちゃんはもうあれ以上脱げないからね。どっかのインタビューで、そんなことゴダールも言ってたかな。
坂本:ロキシーちゃんもうんこはしてましたけどね。ロキシーが見ているものとしてなのか、濡れた落葉とか、車のウィンドウの雨とか、そういう物質を本当に解像度が低い、色も放散しているように撮っている。その物質の生々しさと彼ら/彼女たちの裸体の生々しさがそんなに遠くないものとしてある感じがします。
青山:ただそれでもやっぱりどこかで違うものとして考えてたのかなと思うのは、さっきのセンターという話。Cが実は映像にもあるとしたらどうでしょうっていう。そういう設問というか課題が提示されてるんじゃないか。人間の世界はLとRだとしても、この世にはそれとは違うセンターがあるのだ、と。あれらの放散しているような画を見ながら、そんなことを感じ続けてたんですけどね。
坂本:だとしたらこれで最後ではなく、次がありそうですよね。
青山:ある必要がある気がするんですよね。ここでやめないで欲しい。ロマンチックに言っちゃうと、映画の未知の原野みたいものにロキシーとともに走り出した感じなんですけど。
『アメリカン・スナイパー』を見たときも、「あれ。これ遺作なのかしら。でもここで終わるわけにはいかないだろう」って思った自分がいるんですよ。『アメリカン・スナイパー』で描かれた世界っていままで映画で見たことない世界だという気がして。もちろんあの現場自体はいろんな映画で描かれてるんだけど、主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)の、人間としての荒涼とした感じは、これまで見たことない気がした。イーストウッドもゴダールもこれまで映画が描いたことのない世界に足を踏み入れたぞっていう。ここからの続きが知りたいっていう思いが大きいですね。
フォードなら『シャイアン』(1964)、ヒッチコックなら『フレンジ―』(1972)みたいな、ひとが待ってました、というような幸福な作品が出たとしても、その後に『荒野の女たち』(1965)や『ファミリー・プロット』(1976)みたいな、ある意味首を捻るような、しかし大傑作が遺作としてある、そういうことになってほしいという願望はありますが。そんな幸福感さえ今や贅沢なのかな?
坂本:ゴダールとイーストウッドという同い年のふたりですが、全然方法論は違うように見えながらもそこになにかのつながりを感じますよね。 どうでしょう、この辺で会場にご質問のある方はいらっしゃいますか。
−−先ほどのLCRの話で、『さらば、愛の言葉よ』ではロキシーちゃんがそのセンターの位置にあるということでした。では『男性・女性』だとどうなのかな、と思いまして、もしかして観客に委ねられているのかなという気がしたんです。『男性・女性』でも言葉をやり取りするんですが、うまく通じない。観客として見ているこちらもその中でさまようような感じがするのですが。
青山:そうですね、ワンカットの中で同時にいろんなことが起こったりして、そのときにどこを見ていいのかわからなくなっちゃう瞬間もありますよね。だから、LRだけならそれが混乱していくと言うことができるんだけど、『さらば、愛の言葉よ』ではそういう混乱と何の関係もないロキシーが中心にいる。それを僕はゴダール的センターとして見たいということです。
−−犬は言葉をしゃべらないですよね。
青山:しゃべらないんだけれども、じゃあ犬に未来をすべて託すかというとそういうわけでもない。人間、生きてく限り議論はしていくわけですよね、答えが出るかどうかは別の問題として。ただそこに無関係な者が媒介することで世界がある、という考え方でいいんじゃないか、ということではないでしょうか。
坂本:タイトルにある「言葉」はフランス語だとlangage、英語だとlanguageで、ひとつの言語体系、外国語ひとつひとつということです。一方で「もう言葉なんて聴きたくないのよ」というセリフがありましたけど、そこでの「言葉」はmots、英語だとwordsなんですよね。だからタイトルにあるlangageは、国とか境を取っ払っちゃったところの言葉に出会いましょうということかなと思ったりしました。つまり、犬の言葉であるかもしれないし、フランス語じゃない何かだったりするかもしれない。
会場に批評家の廣瀬純さんがいらっしゃるようですが、なにか一言ありますか?
廣瀬:先ほどの質問にもありましたけど、『男性・女性』の場合でも「2」だけじゃなくて、それ以上の数字の話があると思うんです。たとえばカフェのシーンで必ず別の人たちが話していたりするじゃないですか。むしろ「2」のシーンはインタヴューのシーンで、それじゃなにもわかんないというシーンです。「2」だとなにもわかんないねということを、むしろ積極的にやっている気がする。だってアパートも3人で住んでいるじゃないですか。「2」ではなくてそれ以上ならなにかわかるというふうに、『男性・女性』もできているような気がしました。
坂本:『男性・女性』は見ていてすごくうるさい感じがしますね。 カフェの中とかもいちいちバタバタしていて、電話もかかってくるし、喋ろうとすると隣のカップルの会話が聴こえてきたりとか。ゴダールってやっぱりいろんな言語を響かせながらここまできたんだなと思いました。
これはとてもロマンチックなのか、ある悲劇のことを言っているのか、『さらば、愛の言葉よ』の中に、「見つめ合った瞬間にもうふたつではなくなる、1になる。だから孤独であることはむしろ難しい」という台詞がありました。ある意味それは愛の定義でもあるし、そこから何が生まれるのかというのがこの映画のキーになる部分なのかなと思います。
青山:常に第三の何かが絡む。映画は三人いればできる、って「映画史」の中でも言ってますね。それがあるからある意味安心してそれ以前の段階としての「2」が言えるのかな。「2」とか言ってるけど、「2」になることだってそう簡単にできることじゃないんだとね。
坂本:見つめ合うということが残る。見つめ合えないわけじゃないから、だから必ずしも愛に「さらば」ではないんだなと思いました。