「伝説の映画作家――モンテ・ヘルマン21年ぶりの監督作」ということだが、はじまって観客がまず見るのは、モンテ・ヘルマンではなくミッチェル・ヘイヴンなる若き映画作家の代表作(となったかもしれない)「ROAD TO NOWHERE」である。われわれはヘイヴンの「ヴェルマは物語の扉を開く“窓”だ」という語りと、謎の女ヴェルマに導かれて「果てなき路」へと足を踏み入れる。
そこ『果てなき路』には〈ノースカロライナで起こったある事件の顛末〉と〈事件を基にしたミッチェル・ヘイヴンの映画〉と〈その制作過程〉がそれぞれ歪な入れ子状となって絡まり合っている。
事件のキーワードとなるのは偽装だ。生/死がある目的のため偽装される。ほんとうは誰が死んだのか……。いま生きているのは誰なのか……。いっこうにはっきりしない。
さらにややこしいのは映画(制作)そのものが事件を脚色(偽装)していくからだ。
――起用した俳優と男女の仲になったことはあるか?
とのインタビュワーの質問にミッチェル・ヘイヴンはこう答える。
――それはプロとして避けている
(C) 2011 ROAD TO NOWHERE LLC
偽装その1。物語の核となるヴェルマ・デュラン役の女優ローレル・グラハムと、監督ミッチェル・ヘイヴンが恋仲であるのは誰の目にも明らかだ。スタッフにそのアツアツぶりを指摘されれば、平然と「監督と女優の仲にすぎない」と嘯く。が、もちろんヴェルマ/ローレルはヘイヴンの「映画のために君が必要なだけだ」という強がりを、「そんなのウソ」だと、ちゃんと心得ている。その程度の偽装を見抜くのは天性の演じ手ならば楽勝であったろう。
しかしローレルははじめてヘイヴンに会った時こう告白した。
――じつは演技ができないの
偽装その2。われわれは『果てなき路』の入れ子構造のおかげでヘイヴンの知り得ない〈事件の裏〉をかいま見るのだが、どうやらローレルは〈当の事件〉に深い関わりがあるようなのだ。そしてそのことを監督を含めほぼ全てのスタッフに隠したままヴェルマ役を演じる。『果てなき路』には何度かトンネルが登場するが、そこをヴェルマ/ローレルが通り抜けることはない。しばらくトンネルの中に留まり、また元の場所へと戻ってくる。しかし入っていった女とは別の女として出てきた。その見事な偽装をわれわれは闇のなかスクリーンを通して確かに目にしたし、その一端をヘイヴンもカメラを通して目にしていたはずだ。
さきのインタビュワーはつづけて質問する。
――脚本に忠実に撮るほうか、それとも即興が多いか?
ヘイヴンの答えはこうだ。
――脚本家のスタイルを尊重する
偽装その3。ヘイヴンはヴェルマ/ローレルに入れ込むあまり、脚本家をないがしろにする。「監督は物語の核心よりヴェルマに夢中」なのだ。「もっとヴェルマのシーンに時間を割きたい」と言い、役者がセリフを勝手に変えるのを見過ごす。脚本に記された結末にもいまいち納得がいかないようだ。
――(ヴェルマが)自殺するとは思えない
ヴェルマはローレルを偽装し、いっぽうローレルはヴェルマを偽装する。じつは現場には基になった事件の真相を追う保険調査員がスタッフを装って紛れ込んでおり、彼のもたらすキメ細やかな情報が脚本に反映されているようなのだが、そのことが事態をより混乱させていく。フィクションはファクトを偽装し、ファクトはフィクションを偽装する。両者が混同されはじめる。そうして事実と物語は、お互いにお互いを偽装し合い、お互いの境界を侵犯していく。
それはついに脚本にはなかったはずの即興の悲劇(※)をもたらす。
――ミッチェル・ヘイヴン「ROAD TO NOWHERE」
偽装その4。ここに至ってモンテ・ヘルマン『果てなき路』最大の偽装が露となる。それが何であるかは、じっさいに見て確かめていただきたいが、偽装を完成させるためのshooting(撮影/銃撃)は、歪な入れ子構造を通り抜け、何発にもなって宙吊りにされた「生/死」に跳ね返ってくる。しかしそのようにして偽装が瓦解することのカタストロフそれ以上に、その大いなる偽装(=『果てなき路』)が露となったことのカタストロフに、したたか打ちのめされた。と、とりあえずここではそれだけ言っておく。
われわれは“果てなき路”の端緒に立たされた。先に広がっているのはトンネルの闇である。そしてスクリーンを、いやトンネルの出口(そこは同時に入口でもあった)に佇むヴェルマとローレルを見つめる。
――愛のトンネルは決して終わらない/路はこのさき行き止りでも
そうトム・ラッセルは歌っていたではないか。
※『果てなき路』には3本の「名作(masterpiece)」が引用されている。そのうちの1本がプレストン・スタージェス『レディ・イヴ』(41)だ。詐欺師ジーンと淑女イヴの二役を演じるバーバラ・スタンウィックと、そうとは知らずにふたりに恋をするヘンリー・フォンダ。物語はハッピーエンドをむかえるが、これを「名作だ」と言うヘイヴンに対して「(人を笑わせるのが本義である)喜劇ははたして名作(masterpiece)と呼び得るのか」とローレルは返していた。それでいくと「ROAD TO NOWHERE」は少なくともローレルにとって名作と称して差し支えないものとなったかもしれない。