——『ヒッチコック/トリュフォー』はいったいどのように始まったプロジェクトだったのでしょう。
ケント・ジョーンズ(以下KJ):「ヒッチコックとトリュフォーによる『映画術』の録音テープがあるから、これを使ってドキュメンタリーをつくらないか?」というオファーを受けたのです。これはとても挑戦的で魅力的な仕事だと感じました。私にとって『映画術』は、マニー・ファーバーの『ネガティブ・スペースNegative Space』とともに、読み直すたびにもっとも深い感銘を受ける書物のひとつです。『映画術』を読み直すうちに、『ヒッチコック/トリュフォー』の構成が定まってきました。『映画術』はふたりの映画監督が映画について語り合う本ですから、『ヒッチコック/トリュフォー』ではそこに現在活躍する映画監督たちにも登場してもらい、映画についての議論をもっと大きいものとする必要があると考えたのです。そうした映画監督たちによって発せられた声が、様々なイメージと重なり合うなかでエモーショナルな広がりを漂わせなければならないと考えました。
そのために編集にはとても気を配りました。私はこの映画の編集技師に「『ソーシャル・ネットワーク』(2010)の冒頭で、マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)がwebサイトをつくっているシーンのときのような感覚を与えたい」と伝えたんです。『ソーシャル・ネットワーク』のこのシーンでは、きわめて多くの出来事が同時並行的に起きていますよね。サイト上に名前をインプットする者、それに対してリアクションを起こす人々、彼らとは関係ないような人々がパーティーでガヤガヤと会話している様子……。そうしたさまざまな人々が1秒にも満たないようなショットの連続で紡がれ、その小さな空間が実際の広さ以上の広がりを獲得している。この感覚はもちろん編集の力によってもたらされたものでしょう。この場面のショット数は膨大でそのすべてを記憶することは困難なことですが、しかしあのシーンを見た人なら、少なくともその内のどれかひとつのショットは覚えているはずです。それはまさに編集のリズムによって可能になっていたことです。自分の映画がそうなっているかは私にはわかりませんが、この作品を見た方々がそういう感覚を持ってくれたら嬉しく思いますね。
——本作を何度か見せて頂いたのですが、毎回のように気になるところが異なります。それぞれの監督はさほど難しいことを言っているわけではないのですが、しかし聞き逃してしまいそうな単純な言葉が、実は本質的なことを語っていると感じました。
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KJ:まさにそういう映画をつくりたかったのです。ヒッチコックについて「解釈」を与えることはしたくありませんでした。『ヒッチコック/トリュフォー』の中でフィンチャーが次のように言っています。「映画というのはある任意の瞬間をとても速く見せたり、あるいはとても短く見せたりすることができる芸術であり、それは多くの場合に編集によって成り立つことで、そこには時間というものに対する自分の解釈や振舞いを証明するものがある」のだと。私はほかの誰からも映画における時間について、こんなシンプルで簡潔な考えを聞いたことはありません。『ヒッチコック/トリュフォー』では彼がそのことを語った直後に、『逃走迷路』(1942)のあるシーンが挿入されます。『映画術』でもその場面についてヒッチコックが時間の感覚について話しているのですが、『ヒッチコック/トリュフォー』のなかでは、フィンチャーの声とヒッチコックの声、そして『逃走迷路』の映像が混ざることで、複数の思考というものが一種のコーラスのようなエフェクトを生み出しています。『ヒッチコック/トリュフォー』には、そんなふうに多重なハーモニーがひとつの行為に集約される瞬間が幾度もあります。たとえばデプレシャンが『知り過ぎていた男』(1955)について語っている場面、ジェームズ・グレイが『めまい』(1958)について、マーティン・スコセッシが『サイコ』(1960)について語る場面がそうです。映画について語る多様な声が、流れるように変化していく。フィンチャーが『めまい』について語り始めると、それがいつの間にかスコセッシの声に移り変わり、今度はグレイを経由してまたスコセッシの声が聞こえてくる……そのような声の変移を映画に映し出したかったのです。
——興味深いのは、それぞれの映画監督がヒッチコックの作品について語る言葉が、まるで彼らが自作について言葉を紡いでいるように聞こえてくることです。たとえばリチャード・リンクレイターがヒッチコックにおける時間のコントロールについて語ることや、ウェス・アンダーソンがヒッチコックのフレーミングの正確さについて語ることなどがそうです。
KJ:私が知っているほとんどの映画監督は、自分の作品について語るのが好きではありません。なぜならその作家はもう作品をつくり終えていて、それ以上に語ることなどないからです。一方で、彼らに他人の撮った映画について聞いてみると、驚くほどたくさんのことを語ってくれます。私がディレクションをしているニューヨーク映画祭には「On Cinema」というトークイベントがあります。以前ポール・トーマス・アンダーソンを招待したとき、「君の映画について語ってほしい」と彼に頼んでいたのですが、「もし自分の映画について語れというなら、僕は汚れたナイフで自殺するよ」と言われました。そこで別の監督について話してくれるよう頼んだところ、今度はものすごく興味を示してくれたのです。今年はジム・ジャームッシュを招待したのですが、彼も新作『パターソン Paterson』(2016)について膨大なインタビューを受けていて、すでに自作について語ることに疲れ果てしまっていた。だから彼にも他の監督について話してもらったのですが、「これは本当に素晴らしい体験だ」と言っていました。自分ではない他人のつくった映画について語ることには、自作について語ること以上の自由があります。そしてそればかりではなく、他の監督の映画について語ることは、むしろ必然的に自分の映画について語る言葉になっていくのです。